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 食事を終えた骸は女へ再び視線を移した。
 紫紺の髪、それと同色の瞳。何処かで見たことのあるような顔だったが恐らく気の所為だろう。こんな変わった女が過去に自分と関わっていたのであれば嫌でも記憶に残るだろうから。
 さて、と女は立ち上がり骸に向かって手を差し伸べた。その手は拒絶し自分の力で立ち上がると嬉しそうに微笑むものだからこれはこれで失敗かと思う。

「残念だけど此処の結界は私に触れながらねば出れんのでな。肩でも髪でも何でも触れ」

 それでいて結局無駄足だった。
 得体の知れないものに触れるのは不快だったが彼女がそういうのであれば、そういうシステムであるのであれば仕方がない。非常に、心底嫌であったが仕方がないのだ。そう言い聞かせながらも顔には笑みを浮かべるのだから自分はなかなか役者向きなのだろうと思う。
 この骸を部屋に閉じ込めているよくわからないものは結界というものらしい。つまりこの女が張ったものなのか。この女は、術士なのか。それとも新しく誰か科学者が発明した厄介な装置の一端なのか。

「それではお言葉に甘えて」

 お返しとまではいかないが女の手に絡ませると驚いたような表情を浮かべたがそれも一瞬のことで、引き戸がゆっくりと開けられ長い廊下が続いているのを確認した。
 ひたりと足が冷たいが声に出すことも態度に表すこともなく骸は女と共に何処かへ向かって歩み始める。先程までの朗らかな雰囲気は何処へやら、しゃんと姿勢を正した女は恐ろしく無言だった。

「……」

 話しかけるのも躊躇われる程に、冷たい空気を醸し出しているというのに手は火傷を負うのではないかと思うほどに熱い。辺りは暗闇で、外だと思わしき遠くに見える光に向かって歩いている。そんな印象を受け、馬鹿馬鹿しいと一笑しながら余所見をすることなく前を向き足を動かす。
 ととん、ととんと2人の歩む音。それだけが響き、暗い廊下をただただ真っ直ぐ歩くとやがて玄関らしき扉についた。

「お前さん、幽霊の類を信じるかい?」
「…え」
「まず、あの結界の説明だが此処は厄介な物件でな。色々と出るのさ。まあ嘘だと思うなら黙って横目で見てみろ。今にも喰い散らかさんばかりの霊が…ああ、見えるかはちょっと霊感の有無によって変わるがお前さんを睨みつけてるよ」

 見るつもりは毛頭なかった。
 あの白い部屋の結界を越えてからというもの、途端に足取りは重く視線を感じてはいたのだ。それも殺気だけでは飽き足らず純粋に、獣が餌を狙うような。生身の人間に睨まれているような、そんなものではないということぐらいは直ぐに分かった。
 ちらりとも見ようともしない骸の姿に女は面白そうに唇の端を吊り上げる。

「…まあ見ない方がいいだろう。後、あの部屋から出ることは私がいることが最低条件だが、もしも結界が破れてしまった場合は私の匂いのつくものを身にまとえば奴らは簡単には手出しなどしまいて」
「僕は今すぐにでもここから出て、帰りたいのですが」
「…何処に?」

 女からの問いに、答えることが出来なかった。
 あまり考えぬようにしていたのだが骸も気付いていた。どうにも、記憶が失われていることを。2度目、寝る前には覚えていたというのに此処へ来るまでの事が全て曖昧になっていたことを。

 自分はどこに帰るというのだ。
 何処に居場所があるというのだ。

 ――…そもそも、そんなところがあったのだろうか。問われれば問われる程にそれがわからなくなる。混乱して暴れたところでどうにもならないことは知っている。だからこそ黙ってきていたが女はそれに気がついていたのだろう。

「…お前さんの最初の質問の答えはこれだ」

 女はそんな骸の様子を見ながら扉を開いた。
 そうして瞠目する。骸の目の前に広がる光景は、自分の記憶にない場所だった。此処は自分の居た場所だっただろうか。…否、記憶は随分と薄れているが知らない。知っているはずがない。
 不可思議な場所であった。
 一見繁華街のように見えるがその奥にはすぐ森が見え、都会なのか田舎なのか判断も出来ない。そして、時折視界に映る人間といい聞こえる言語といい、日本のものもあれば骸の知らない国のものもある。此処が何処であるかと考える材料にすらなりはしなかった。

「…此処は」
「その質問に答えられんのはそういうわけだ。お前さんこそが、異邦人。私たちの世界に、お前さんがやってきたっていうそれだけだからなあ」

 混乱して言葉すら出ない。
 死んでしまって何処か黄泉の世界にでも迷い込んでしまったのかとも一瞬考えたが身体の痛みは健在だ。こんな痛みの伴う死後の世界なんて真っ平御免である。
 女を睨みつけて骸は問う。

「…何故、僕を助けたのですか」
「愚問だな。死にかけてたからだ」
「余計なことを」
「ほう、それが本性かい。やはり綺麗なだけの人形さんではないってこった」
「…死にたいようだ」

 この場に三叉槍も無いことが残念だがただの体術でもこの華奢な女を殺すことぐらいは容易に思えた。
 彼女の手を離し僅かに距離を取り構えると女はくつりくつりと楽しそうに笑う。

「ふふん、好戦的なのは良いことだ。だが場所が良くない。ついてこい」

 それでもぶわりと漏れ出る殺気は一般人には出し得ない質のものである。細められた紫紺の目に一瞬身が竦んだが颯爽と骸に対し背を向け歩み始める女の後に続いた。

 此れで、いいのだ。

 自分は誰も信じることが出来ないし信じる必要もない。怪我しているところを救われたかもしれないがこの女が勝手にやったことなのだ。
 戦いの場でしか身を置くことが出来ず、その先に住まう勝利しか信じることが出来ないなんて我ながら哀しいことだと思わないでもない。だけどその反面、それぐらい単純な方が生きやすいとも思っているのも事実だ。目に見えない感情やら善意やらに任せ他者に身を預けるぐらいなら野垂れ死ぬ方が幾らもマシだと。

 この場においてもそうだ。
 死ぬ気は一切しないがこの女にもしも殺されるのであればそれはそれで納得もできる。勝てばこの場所の事をもう少し聞くことにしよう。もしも万が一負けるのであれば何でも信じてみせよう。
 そうして女の所望した場所に着くと、

「いやー敷地内で倒れられてたから仕方ないだろう。余計なお世話?あーはいはいそうですか。でも何度も言うが勝手に人の敷地内であんな堂々と大の字でぶっ倒れてたらさあ、やっぱ私にも体裁ってのがあるわけさ。お分かり坊や?私の為に運んだのであって決して君のそのお綺麗な身体が欲しくてやったわけじゃない。下心はこれっぽっちもねーから安心しな。そんなに私も困っちゃいない。OK?はーしかし、おまけにこの辺りは昼間こそ静かだが夜になりゃ所謂飲み屋街だしねえ、連続連夜我が家の前で目にしたくねーモンを吐きやがった糞野郎は絶対ぶち殺すにして。お前さんもゲロったのかと思って拾ったら損しちゃったよまったくよー。まあ綺麗な顔してんのだけはお得だね。いやはや神に祝福受けたような顔してらぁ。あ、私無神論者だけどねえ」

 アッハッハッと豪快に笑いながら酒を煽る女を目の前に骸はどうしようもなく、これ以上ないというほどに困惑したのである。

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