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「っく、」
腹部を刺す焼け付くような痛みが、これこそが現実であると思い知らされる。
骸に課せられた任務はどれも決して容易くはなかったが今回のものに関しては流石に―決して認めている訳では無いが―ボンゴレのトップに立つ沢田の腹心の部下である獄寺ですら伝えることを躊躇った内容だけあった。
その代わりにと与えられたのは十数名の精鋭と、報酬に精製度ランクの高いリングであったが後者は今後のためにありがたく受け取り、そして前者は余計なお世話ですと突き返した。その態度にやはり獄寺は憤ることとなったがこれも随分と慣れたもので沢田もそれ以上強く出ることはなく今に至る。
彼らの関係は相交えることなく平行線のままだった。
「ああ、君ですか。任務は終えましたから。…ええ、約束通り暫し休暇をいただきますよ。クフフ、何を言ってるやら。大したことではない。では」
決して声音から現状を悟られてはならない。沢田綱吉の超直感は今も尚、否、あれから更に磨かれ続け欺くことはそう簡単な事ではなかったが彼の気遣いを、施しを受けるぐらいならいとも簡単に死を選ぶ骸の気質を理解している所為でそれ以上何も聞くことはなかった。
あれから何ら変わりはない。誰にも寄りかかることは許されないしそれは自分の矜持を傷付ける。
――…嗚呼それでも、
「流石に、今回は少し無茶を」
し過ぎましたかねえと紡がれる声に最早力はない。
薄れゆく意識の中、任務の地から何とか遠のくように移動するのは最後の己の意地でもある。未だ身を潜めているかもしれない残党に見つかるわけには行かないし後にやってくるだろうボンゴレの彼らに見られ同情されるだなんてもってのほかだ。
ずるりずるりと身体を休める為に歩みを進め、
そして路地には彼の負った傷から明らかに致命傷を感じさせる量の血が残されていた。
イタリアの某所。内容は某マフィアの武器庫破壊、もしくは場所の壊滅。大人数で臨むような大掛かりかつ高難易度の任務をたった1人、数日で壊滅状態まで追いやったことは覚えている。かなりの無茶を通したと言っても良い。しかしそれが最良の判断であると骸は今でも思っている。
結果としては半々と言ったところで残党による捨て身の攻撃に避けきれず負傷しある程度の場所まで逃げた後意識を失ったところまでも、記憶にある。
「……此処は」
そうして目が覚めたら知らない場所に居た。
縛られている様子も、監視されている様子もない。ただ白く、そしてやけに質素な部屋の布団に彼は横たわっていた。カチリカチリと秒針の刻む音はするが時計は見当たらず、窓も無いというのに風を感じて密室状態にも関わらず不思議と息苦しくはない。不思議な場所であった。
「お目覚めかい?」小さく開けられた引き戸から漏れ出たのは流暢な日本語で、1人の女がひょっこりと顔を出す。骸と目が合うと女はへらりと笑みを浮かべガラリと引き戸を開けた。両手は何やら盆を持っていて開いたのは彼女の足なのだから器用なものである。
「貴方は、」
「取り敢えずこれでも飲みなさい。話はそれからでも構わんだろう」
枕元で座り込む女の言葉に起き上がるとズキリと身体に走る痛みに思わず前屈みになる。思ったよりも重体で、それでも生きていることに自分のことながら感心した。
しかし、この女は誰だ。どこの人間だ。
咄嗟の事に身構える事も出来ず隣に座ることを許してしまったが骸の不躾な視線も意に介さぬ様子で盆の上に乗る急須から二つの湯のみに茶を分けていた。見たところ一般人に近しいような気もしないでもないがそれでもあんな…イタリアの、マフィアの根城ばかりのある場所に住まう一般人が居て堪るものか。
それでも飲み物があったことはカラカラな喉には有難く、女がそれを口にしてゆっくり嚥下するのを見届けると手を伸ばし一息で飲み干した。大して味など分かったものではないがひどく落ち着いた気がする。
ホッと女が安堵の息をついた。
「さて、お前さんの聞きたいことというと何故、だとかどうして、だとかだが…すまないが私には答えることは出来やせん」
「…」
「と言うのもお前さんが倒れていたのが私の家の前で死にかけていたもんだから慌てて近所の輩が私の部屋に運び込んで病室代わりにしたっ…ていうそれだけの話なんだがねえ」
「そう、ですか」
胡散臭いことこの上ないが助けられた事は事実だ。女に嘘をついている様子も見当たらず、ただ目に浮かぶのは不安げな様子にどうやら自分は心配されているらしいと知る。骸がどういった人間か知らないのかもしれないがそちらの方が互いにとって後々後腐れないだろう。聞いてこないのもまた、助かったところではある。
マフィア関係に拾われたようではない事が分かりほんの少し気が楽になったことは否めない。
「助けていただき、ありがとうございます」
―――自分の器量の良さは、この数年で嫌というほど、他人からの視線や好意などから理解した。
それどころか目的の為にはこれをどう有効活用すればいいものかなどと朝飯前で、今回もそれは恐らく例外ではないと見越し女の右手を両手で包み込む。細く、華奢なその指は苦労を知らない守られてきた手だ。
「もう一つ、教えていただきたいのですが」
「…」
いかに効果的に、相手の脳へ伝達させるかなど知り尽くしている。
耳元で吐息混じりに声をかけ改めて正面から女を間近で見る。紫紺の瞳をした女は感情の読めない表情で骸を見返していた。
そう、あと、もう一息。
「僕の指輪は何処へやったのです?」
女の目は、脳は、最早骸を見てはいないだろう。捉えたと確信した。
何も力など使う必要はない。自分が男で、目の前の人間が女であれば容易く成功はする。ほんの少し使う力はマインドコントロールの時と同様、六を刻んだままの瞳。体力は大分と消耗しているがこれぐらいなら何も負担にはなるまい。
今自分が身にまとっている服は確かに自分のものではあるが、身につけているものが何ひとつ見当たらない。リングもそれから三叉槍もこの手に現れることはない。この不思議な場がそうさせているのかもしれない。この女が知っている可能性は高かった。
「…へ」
薄く開かれた口から小さな声が聞こえる。こうも容易いとはやはり一般人か。
指輪の本来の使い方が分からないとしても売り払えば相当な額にもなる。例え預かっているだけと本人が言おうとも骸の指から意図的に抜き去った時点でそれは盗みと同義であり、殺してしまう動機にも十分成り得た。
しかしながらそれを行使しないのはほんの僅かに残った、傷の手当をしたという行為に対しての骸なりの配慮である。
「何ですか?聞こえません」
一言を発したきり黙ったままになってしまった女に対しもう一度発言を促す。そして女はその通り再度口を開き、
「ぶえっくしゅ!」
大きなくしゃみを、一度だけ。
ポカンとしてしまったのも仕方あるまい。自分の力が衰えてしまったのだろうかと思ったがスキルはしっかりと働いていたはずなのだ。先ほどまで彼女の目に確かに力はなかったのだから。
いつもと同じ。
そう思っていたはずなのにくしゃみを終え鼻を啜った女が顔をあげると最初に見た時と同じく、へらりとまた笑みを浮かべ骸を見返した。
「あー寒い寒い。ここは冷えるねえ。お前さんもう一杯私の茶に付き合ってくれないかい?」
「…ああ、ええ」
稀の稀の稀に、幻術も、何もかもが効かない人間がいる。そういう事は聞いたことがあるのだがまさかこんな時に出くわすだなんて相当運が悪いに違いない。
やりにくい相手だと心中舌打ちしつつ、「どうぞ」と骸はその整った顔に笑みを乗せた。