12


「早いお帰りで」
「あなたは」

 ドアの向こうはいつもの部屋ではなかった。見慣れた、骸にあてがわれた部屋でもなければ彼女の部屋でもない。そこは静かな音楽の流れるバーであった。
 「どうぞ、いらっしゃい」そして骸を出迎えた、穏やかに笑う彼の名前は白。彼もまた随分骸に良くしてくれた人間の一人で、髪の毛から肌、衣服まで全てが真っ白な男だった。いつも以上に柔らかな空気を身にまとっており、突然現れたここの世界に居た時とは違った衣服の自分に対して驚いた素振りも見せることはなかった。どうやらあのドアを作りあげたのはこの男らしい。一般人だと思っていたがなるほど、この世界は曲者だらけだったようだ。精神世界より一歩踏み出すとドアは静かに閉じられるがそこから消える様子はない。

「漸く、気が付いたようで」
「ヒントでもくれたらよかったんですが」
「リトに口止め食らっていたんだよ。悪いとは思っている」

 「それで?」言葉はそこで止められたがその先が何を言わんとするのかはわかっている。何をしに戻ってきたのだと。勿論精神世界から此方に遣ってこれる手筈を取ったのは紛れもなく白であることには違いなかったが迷うことなくそのドアを潜りやって来たのは骸の意志だ。
 理由なんて決まっている。彼女にもう一度会うためにだ。彼女にもう一度、告げるために。あのようなやり方で終わらせてたまるものか。あれで終わりなど彼女に納得させてたまるものか。どうせ今頃泣いているに違いない。気丈な女ではあったが情は深いことも骸は自身を以て、知っている。
 大丈夫だ、もうこの世界にきたところで迷うこともあるまい。初めてこの世界にやって来た時とは随分違うのは此処が既にどこであるのだかわかっているということ。だからこそ今は力を使うことも出来るし記憶があやふやである事もない。帰り道はよくよくわかっているし、向かう場所もこの数十日の間で嫌ほど通り慣れた。大丈夫、全て、総て覚えている。忘れるものか。

 何も言わずとも骸のその意志は感じ取れたらしい。食器を拭くその手を止め、「例えばだよ」と今すぐにでも出ていこうとする骸へと声をかける。カタンと置かれた食器の音と同じタイミングで勝手に入り口が施錠された。これも白の力か。

「この世界は全てが曖昧だ。例えば意識をすれば君のように不思議な力を持たずとも色彩や見栄えを変えることが出来る」
「……それが、」
「もしリトがしわくちゃババアだったらお前さん、どうするかい?」

 何という愚問。その答えを聞く為に自分を引き止めたのか。
 しかし彼にとって不安な要素の一つであるということは表情を見ればすぐ分かる。何だかんだ彼らにとっても彼女の存在は大事で、大切で、もしも今回骸がリトに戦意を持ってやって来ようものならば一戦交えていたのかもしれない。
 彼らと戦う気は毛頭ないがこの世界での戦闘は此方のほうがやや不利だろう。

 だが、骸はそんなつもりはさらさらない。寧ろ逆である。それが例え白の言うような女であっても、ここで抱いた感情を告げてしまわなければこのモヤつきがいつまでも晴れることはないだろう。それこそここの世界で言う妄念と化するかもしれない。ただただ単純、ただ、再度会いたかった。理由も根拠も無い事を肯定することは苦手だったがこれだけは間違いない。リトに逢いたくて、此処へ来たのだ。彼女の姿形など何の関係があろうか。

「そうですね…流石に身体を重ねるのは大変だろうし、せめて毎日お茶でも注いで貰いましょうか」
「…意外と君、手が早いんだね」

 やれやれと肩を竦め、降参と手を上げる。入り口の鍵はカチャリと軽快な音を立てて開いた。


 彼女は黒の場所にいるらしい。行き違うところであったのでやはりと言うべきか白に案内を頼んでいて正解だった。

「やっぱ寂しいかー」
「ったりめーだろ。お前達といるのも楽しいがあれは別格だった」

 黒の声だ。其処に向かうとボソボソと誰かの会話が聞こえてくる。店前には閉店と書かれた看板が立てかけれていたが気にすることもなく裏口へと回る。鍵を開き、その店の中へ入ると聞こえてくるのは紛れもなく彼女の声だった。わかった途端動きたくもなかったが白に押さえつけられ、黙って頷く。
 この位置ではちょうどリトから見えることはない。彼女は泣いていなかったが、少しだけ青ざめていた。そうさせたのは紛れもなく自分との離別の所為だろう。黒と2人の状態の彼女を見るのは当然ながら、初めてだった。
 やはりと言うべきか彼女は酒を飲んでいる。その声に覇気はなく、相変わらず空いたグラスには酒が注がれるものの態度は随分としおらしい。

「ところでお前ずっと言いたかったがその言葉遣いやめろよ、いい加減気持ち悪い」
「…私だってこんなあんた達みたいな言葉好き好んで話してたわけじゃないよ」
「ほう」
「こんなことしなきゃ線引き出来ないんだから仕方ないじゃない…」

 グスリと鼻を啜り、その真実に骸は驚きを隠せなかった。
 彼女のあの古風な物言いは元々ではなかったのか。黒や白を真似していたのか。線引きは、元々始めから彼女の中で成されていたのか。

 別れると分かっていたから。やがて切れる縁であると分かって、いたから。

 考えれば考えるだけリトという不思議な女だったはずの女は至って、普通の女であることに気付く。ケラケラと笑っているその裏でどれだけ辛い思いをしてきたことだろう。世話焼きで、困った街の人間の事を決して見捨てることはなく、この世界にやってきてしまった骸の事も”いつか離れる人間”だと分かっていても助力を惜しまずに動いてくれて。

「今日は珍しく素直じゃねーか。やっぱお前あれに惚れてたのか」
「…否定はしないわ。私は彼のことを10年前から知っているもの」

 空になったグラスに残る氷をからりからりと回しながらリトは呟く。

「近くの学校に越してきたんだろうね。仲間にも恵まれ、それでいて冷たい目をするひとだなって。数日だけだったけどあの魂の輝きは簡単に忘れられなかったわ」
「お前さん、知ってたかい?」
「…いいえ」


 10年前。
 そんな途方もない以前から彼女は知っていたのだという。今からそれぐらい前だと言えば、自分がまだ黒曜に居た頃だったろうか。学校とは、黒曜中学校に居た頃か。あの時に彼女に、既に会っていたというのか。勿論あの頃の事だって覚えている。しかしそこに彼女のような人間が居たかどうかまでは定かではない。

「好きだとか、そんな想いじゃないの。あの魂のあの輝きを、私みたいな人間は誰だって魅了されたに違いないわ」
「なら、折角会えたんだろ。…帰らせてしまって良かったのか?」

 唐突に核心を突いた質問だった。ハッと頭をあげると彼女は顔を赤らめていたものの黒を見つめ、「当たり前よ」と笑う。そうだ、いつもリトはそうやって笑っていた。自分にばかりデメリットがあったとしても、自分側にメリットが一切無かったとしても人の為には、…骸の為に一切力の出し惜しみをする人間ではなかった。
 だからこれは彼女がすべき当然の選択。模範的な回答だ。

「寂しいことには変わらないけど生きてもらわないと私の頑張りが水の泡でしょ?それにあの人絶対ねちっこそうな性格してるし記憶がしっかり戻った暁にはよくも騙しやがったなあのクソ女とか言ってるだろうけど私の住んでる場所なんて知らないしもう2度と会わないし良かったーセーフ!」

 何たることか。

「……ぶっ……くく」
「……なるほど」


 白がたまらずに笑い出し、自分もひくりと頬が引きつったのが分かる。なるほど、彼女は自分の事をこう思っていたらしい。泣いてはいなかったのは純粋に喜ばしい事だとは思えたがこれは話が別だ。
 とは言え、半分本音、半分嘘である事はわかっている。彼女は10年前の自分を知っているというが骸だって最近数十日にも及ぶ彼女の事を知っているのだ。

「あーもう、こんな話をしに来たんじゃないのよ!ほら早く酒。酒酒酒」
「了解。…っと、ちょっときれたみてーだ。裏いって取ってくるから起きて待っててな」
「早くしてね。即効!ダッシュ!」

 そのまま黒は言葉通り裏へとやって来た。ドアを開け、骸と白の存在を確認すると瞠目したようだがそのままニヤリと楽しげに笑みを浮かべた。
 「ほらよ」骸に対して渡す瓶は恐らく彼女がご要望のものなのだろう。ありがたく受け取るとそのまま扉を開ける。

 彼女はそのほんの数秒の内にカウンターへと突っ伏していた。いつもはこの後、骸の上着を着せてやったがこれからは彼女の隣には居ないのだ。仕方ありませんねえ、と小さく呟いた後、リトの空になったグラスに新しく氷を落とし酒をなみなみと注ぐ。用意が出来るとコトン、と目の前に置いた。その音に気付いたのか視線を此方に遣ることなく手を伸ばしグラスをとろうとするその器用さは変わらずか。
 思わず笑いながら彼女の手に掴まれる寸前にグラスを後ろに下げ、その代わりに自分の手を差し出す。自分の手の上に乗せられる小さな手。この手に随分と長い間、救われてきたのだ。

「なあに、黒。あんたいつから悪戯っ子になったのさ」

 逃すまいと絡める手。逃げようとしないのは黒だと思いこんでいるのか。…それはそれで、問いただしたいこともあるのだが。グッとその手に力を込めるとどうにも返事をしない辺り何か様子がおかしいと気がついたらしい。
 ゆっくりと開かれる紫紺の目。さらりとながれる、同色の髪。持ち上げられる顔。握られた手から辿られるその視線は骸と絡まりあった途端、大きく見開かれた。

「……何で居るの」

 きょとんとした彼女は最早謎めいた存在ではなくなっていた。後ろで見守っていた黒も白もそこで我慢ができなくなったらしい。楽しそうに笑いながら出てきて「あんた達!」と怒鳴られるその様は初めて見るもので思わず骸も目を細めた。
 握った手は解かれることはなかった。変わらず熱い手。ほんの僅かに力を込められた気がするが、それは自分の都合のいい捉え方であると思いこむとして。

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