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 霧が晴れるような感覚とはこのことか。
 リトによってもたらされた急激な眠気、重み。それらが無くなり再度目を開くと見知らぬ湖畔に立ちつくしていた。否、これは何処かで見覚えがある。此処は、…一体。

「骸様」

 骸の疑問に応えるかのようにいつの間にかそこに一人の女が立っていることに気付く。
 白いワンピースを着た、紫紺の髪の女だ。右目には髑髏がついた眼帯をしており、そして髪型は非常に自分に似ていた。手には三叉の槍、それに込められたのはインディゴの炎。不安げに此方を見つめるその姿は見覚えがあった。「クローム」口を開けば、自然と出る人物名。それは今の今まで、すっかり自分の記憶からなくなっていたものだった。ずっと、思い出さなければならないものだった。

 何故、今まで忘れていたのか。

 思った通り、一つのきっかけが有りさえすれば全てずるずると芋蔓式に引っ張り上げられていく。沢田綱吉からの依頼任務で自分が怪我を負ったこと、いつの間にか違う世界に行ったこと。顔も、声も当然思い出していく。否、忘れていたのではなくどこか奥深くで封されていたのかもしれない。勿論目の前のクロームのことも、…自分自身のことも。
 手を見れば紛失していたと思っていたリングが並んでいた。手指に力を込めれば彼女と同じ三叉槍が現れる。そして今でこそ使うこともなかったが恐らくはスキルもこれまで通り使えていることだろう。

 此処はクロームとの出会った場。
 幻想散歩中でよく使う場所ではないか。何故ここに自分が。そして…クロームが。彼女の名前を呼んだ途端ホッとした様子を浮かべ、此方に駆け寄る彼女は普段と変わりない。しかしクロームに此処へ自力でやってくるような力はないはずだった。如何に、自分と力を共有していたとしても、だ。

「良かった。あの人に言われて此処に来たの」
「…あの人、とは」
「名乗らなかったけど、黒髪の小柄な女性だった」

 黒髪の小柄の、…女。言われたところで思い浮かぶ女となればリトでしかないが、彼女は紫紺の髪であったはずなのだ。クロームと一緒の色彩をした。そういえば瞳の色もこう見れば彼女と酷似していることに気付く。偶然なのかどうかは、分からなかったが。

――否、偶然などではないだろう。

 そう思ってしまうのはどうしてなのだろうか。何はともあれクロームが此処にいて、自分が記憶を取り戻したのだからもう元の世界に戻れるも同然であった。彼女の事こそ忘れても良いはずだった。普段の骸であればそんな記憶さっさと放棄していたことだろうがそれが出来なかったのは引っかかるところが幾つもあったからだ。
 酷いことをされたとリトを恨むべきだったのだろう。此処にやってくる手前、私を恨むだろうと言った彼女の言葉通りに。共に居たいと思っていたはずなのに自分を切り捨てた彼女を憎む権利が自分にはあったはずだというのにそれすら出来ない理由を自分は知っている。それを肯定するかのようにクロームは訥々と己が身に起きた事を話し始めた。

「骸様を迎えに来てくれと、言われて」
「その女が、ですか」
「はい。それで、気がついたら私もここに。でもあの人、私の事を骸様の恋人かなにかと勘違いしていて。頭を下げられ骸様は悪くない…とか……あと指輪は、探したけれど見つからなかったとか…」

 彼女の言葉に始めはゆっくりと、それから一つ繋がったかと思えば凄まじいスピードで埋められていく疑問。空白。
「まさか」喉はからからに渇いていた。

「僕は君の懸念したような想い人はいません」
「それは分からないじゃないか」
「いいえ、いませんよ」
「覚えてないんだろう」


 彼女は元からクロームの存在を知っていたのではないか。
 どうやら骸が始めから探していたリングと、彼女の探していた指輪では色々と語弊が生じていたようだが自分がリトに触れた時いつも彼女の脳裏にはクロームの姿があったのではないか。つまりリトは元々こちらの世界のことを、それどころか骸の事自体を知っていたのではないか。

「今日で、さよならだ、骸」

 彼女は自分を拾ったあの時よりも前から全てを知っていたのではないか。その時が来る事を、知っていて…否、待っていたのではないか。
 だからこれ以上リト側へ寄ってくることを良しとはしなかった。拒絶することにしたのではないか。即ち、

「離別も裏切りも辛いからと極端に人と馴れ合うのが嫌いだったあいつが連れてきたのがお前さんだ。どうか彼女をよろしく頼むよ」

 突き放されたような言葉は、離別しやすい為か。自分にとっても、彼女にとっても。何とわかりやすい。何と、愚かな選択だ。彼女はどこまでも自分本位であり、それでいて自分の事もよく考えていたとみえる。誤算だったのはこの自分がリトに抱く感情を浅く読みすぎたというところか、はたまた此処まで彼女の事について考えないと思っていたからか。どこまでも彼女は、甘い。
 クフフと思わず笑えば近くに一つのドアが現れる。まるで骸の心中を読み取ったかのようなそのタイミングに更に笑みを深め、今一度クロームへと向き合った。

「クローム、お前は先に戻りなさい」
「…でも、」
「大丈夫、帰り道は分かりましたから。必ず戻ります。ですが、」

 その前に、少しあの馬鹿者を懲らしめなくては僕の気がすみませんからね。
 コクリと大人しく頷きクロームの姿が消え、それから骸は元の世界に戻る訳ではなくその扉の前に立つ。何故この世界に干渉出来たかなど今更疑問にも思うまい。随分と見慣れたその引き戸の向こうにいるのは、はてさて誰なのか。

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