10


「…今、何と?」
「聞こえなかったかい?」

 じゃあ何度でも言おう。
 そう言い放った彼女の、何と冷えた表情なことか。

 あれから変わらずの日々を過ごしていた。変わることなくリトと共に建物の外へ出て、他者と触れあい、黒や白と話し。酒を飲み、酔いつぶれた彼女を連れ帰り、共に眠る。
 もちろんその間もリトは骸が元の世界へ戻るよう助力は惜しまぬ姿勢を見せ、時折彼の世界の事を聞いてみたりもしたのだが何分骸の意識の方が変わってきていたことに勿論自分自身の事なので気がついてはいた。認めざるを得なかった。頷かざるを得なかった。

 戻りたくないと感じていることに。

 彼女の傍は居心地がいい。これが逃げであるとは思ってもいないが、確かに元の世界の人間からすれば楽な方へと身を投じたとでも感じるかもしれない。しかし遣れるべきことは遣ったのだ。考えられるだけの事は考えた。それでも戻ることが出来ないのであれば諦めてこの世界での生活を考えるのも一つの手立てとして可笑しくはない。否、寧ろ自然の流れであろうとさえ思っていた。
 非常に、この生活は幸せだったのだ。幾日も過ぎた所為でぼんやりとしていた記憶も最早思い出すことすら億劫になるほどに曖昧で、しかし彼女と過ごす日々は悪くなかった。毎日同じようなことを話し、同じようなものを食し、同じように眠っているというそれだけなのに飽きも来なければこの生活を抜け出そうという気持ちにもならなかった。どうやら当初リトに抱いていたものとは正反対の感情が芽生え、しっかり根付いてしまっているらしい。

 だから、骸は言ったのだ。「もう良いです」と。リトは最初、その意味を理解するのに時間が随分かかったようで、骸の言葉を聞いた途端静かにもう一度と促した。彼女の望む通りに返すと突然慌て始め、骸を部屋から追い出してしまった。
 何かよくわからなかったが、それでも骸の言葉に何か思ったわけでもあるまいと然程重要視していなかったのだが今朝やってきた彼女から放たれた言葉に、呆然とすることとなる。

「今日で、さよならだ、骸」

 区切るようなその言葉に、時が止まったかのような錯覚を覚える。
 今、彼女は何を言ったのだ。
 今、彼女は何を自分に告げたのだ。

 震える手でリトに触れようとしても彼女は今までにない強さで自分の手を弾く。それは紛れもない拒絶だった。
 紫紺の瞳は細められていたがそれはまるで自分を敵対視しているような、そんな感覚。何が彼女のお気に召さなかったのか。何が気に食わなかったのか。今まで共に居たと言うのにどうして此処にきて拒絶したのか。弾かれたといっても大した痛手ではない。しかし痛みを伴ったのは手ではない。ぞくりと身体全体の、ひいては部屋全体の温度が下がったようだった。

「…理由を、聞いても?」
「今まで答えてきただろう。お前にはお前の世界がある。帰らなきゃならない」
「!しかし」
「…この世界に居たいというのであれば止めやしない。だが私とは共に居られない」

 聞く耳持たずとはこのことか。彼女は何故だか憔悴していた。それは初めて見る表情であったが妄念を取り込むその苦しみとはまた違っていた。何かを溜め込むような、何かを言いたげなような。
 リトの小さな身体はカタカタと小刻みに震えていた。それは寒さなのか、抑えきれぬ感情なのか骸には判断が出来なかった。当然のように再度手を伸ばし、触れようとするもまたこれも弾かれる結果となる。

 そんな表情を浮かべている理由を知らない。
 嫌われて、心底嫌悪されているのであれば甘んじて受けよう。しかしその表情では彼女の話してきている内容とまったくもって、矛盾しているのだ。今にも泣きそうな顔をして何を言っている。…何を、怯えているのだ。

「元の世界に戻れば、お前は私を恨むだろう」
「何故そう言い切れるのです」
「…」
「だんまりですか、リト」

 力では自分が当然、勝つだろう。手を伸ばし無理矢理抱きしめればこの腕の中にあっさり入ってしまうだろう。しかし彼女の心はそうはいかない。何故その選択をしたのか、聞かなければこちらとて納得はいかないのだ。
 「そうだな」やがて、リトはぽつりと呟いた。身体の震えは収まっている。それでいてどうしてだか悲しげな瞳。考え直しただとは言い難いが先程よりも尖ったものはなくなっていることにほんの少し安堵したものの何故だろう、この胸騒ぎは。

「…説明をしないままにする私をどうか、許しておくれ」

 ふわりと骸の腕の中にやってきたこの違和感は一体何だ。
 紫紺の髪、瞳。赤い唇。離れたかと思えば、強烈に拒絶したかと思えば近付いてきたその彼女のわからぬ言動に、しかし触れたいと思っていたのは事実で癖のように彼女の頬へ手を伸ばすとリトは静かに笑った。その目尻には涙が浮かんでいることに気付いた時には全てが遅い。
 
「――…お還り、骸」

 とん、と指で叩かれる額。その瞬間、視界はぐるりと回り今までにない強烈な眠気。薬でも盛られたのか。それとも、…何だ、この嫌な予感は。

 ドサリと大きな音は自分の身体が倒れた衝撃なのか。
 不思議と痛みはなかった。ただただ眠気が骸から意識を、思考を、力を奪っていく。視界はすぐ白く染まり、非情な程の重さが骸にのしかかっていく。彼女に何をされたのか。自分は殺されるのか。このまま死んでしまうのか。…彼女は敵だったのか。色々な考えがぐるぐると回っていたが最終的に彼女の手ならばと考えてしまうほどにリトの存在というものは骸の中に在った。

 「ごめんね、」聞こえた声は幻聴か、否か。
  彼女の名前を果たして呼べたのか、否か。

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