目を開き真っ先に飛び込んできたのは丸く、黒い後頭部だった。なんでここに、と焦ったが俺の手は真尋の手をしっかりと握っている。意識が飛ぶ前に離すものかと思ったままどうやらそれを無意識に実行していたようだ。つってもこいつは怪力の持ち主。こんなゆるやかな拘束をされたとしても意識を失ったあとの俺から逃げられないはずがない。それでも俺を叩き起こさずそのままで居たのはこいつの優しさ。さらに言えば突然ぶっ倒れた俺を放置して帰る奴じゃねえと何だかんだしっかりこいつの甘さに完全につけ込んでいた辺り、我ながら苦笑する。
 どうやら一夜、明けたらしい。
 窓の外は既に明るく、誰かが外でトレーニングでも行っているのか少し賑やかだ。部屋は怪我を負った俺の為に若干の医療器具が残されていたがそれ以外は変わらない風景、いつもと同じ日常。そこに真尋が俺の部屋で眠っていると言う非日常。それだけでいつもの俺なら興奮しているところだが今日は如何せん訳ありだ。途方もない罪悪感が同時に襲ってきたが今は真尋を寝かせてやるのが最優先で、俺はその姿を目に焼きつけようと無言のまま真尋を見続けた。

 恐ろしいほどに、穏やかな空間だった。

 すぅ、すぅ、と小さな寝息、規則正しく上下に動く肩。顔を隠していたフードはめくられ、例の仮面はベッドの上へ無造作に置いてあった。どうやら深い眠りに入っているようで、まだ起きそうにない。
 一人の、この眠っている女を俺は知っている。
 艶やかな黒髪は今は肩口のところで切り揃えられているが、これがルッスーリアの晴クジャクのせいで伸びたり、また手入れを面倒臭がるコイツがざっくりと切っては奴が悲鳴をあげて怒ることを俺は知っている。全身真っ黒なヴァリアーの旧隊服だがこれに執着と愛着を持ち、またその下の肌は多数の戦闘で傷だらけであることを俺は知っている。その細っこい腕は、しかし何人もの敵を屠り、平気な顔をして大剣をぶん回すことを知っている。
 それは、『昨晩の俺』は知らないことだった。

「……戻った、のかぁ」

 空白の一年間を思い出すこともできないまま無理やり進もうとしていた俺と、例の任務のあと数日間だけ記憶を失っていた俺。どちらも紛れもなくS・スクアーロのもので、だから当然といえば当然だったが記憶が補填されただけで大した驚きはない。二人が統合されたっつーよりは空白だったところが互いに埋まって、辻褄があっただけの話だ。記憶を失ってから常に襲っていた不安や焦りも、その前後に何が起こっていたのかも、こいつに何をしてしまったのかも、どうやって真尋と出会い一年を築いてきたかも、俺は全て、すべて覚えている。
 あっさりと記憶が戻ったことに思ったよりも混乱はなく、だからこそあの時のことを鮮明に思い出すことができた。非常に、非常に憂鬱な気持ちで。







『賭けをしよう、S・スクアーロ』

 ことの始まりはそう、最近は滅多とないボンゴレの本部からの依頼の時にまでさかのぼる。
 汚れ役は相変わらずこっちに回してきやがるがそれも今となっちゃ随分と減った話。全面的な抗争に発展するような問題事は直接奴らが手を出し解決しているようだが、こうやって小さな規模の、それでいて絶対許されないものだと判断されたものは定期的にこっちにやってくる。交渉の余地なし、一発アウト。そんな類のものだ。今回もまあそんな感じのもので、俺も大して気張ることなく向かった訳だが…結果的にいえば本部から依頼された分に関しては成功、俺自身の話でいえば大失態と言うべきだろう。
 細かいことは聞いていなかったが殲滅対象は人体実験を主にするマフィアだった。特に脳、記憶分野つってたか――俺は興味もなかったが、最後に追い詰めた研究員は剣を構えた俺に命乞いをすることもなく笑って話したのだった。

『この部屋へ行き着くまでに既に君への暗示は終わっている。あとは僕が合図をすれば最後、君は大事にしているものを忘れるだろう』

 そのまま殺してしまえばよかったのに手が止まったのはこいつらが何を実験している組織であるかを思い出してしまったからだ。
 しかし、俺の中で大事なものと言えばヴァリアーだ。剣士であるということの誇りだ。それを忘れてしまえば俺は俺でなくなってしまう。俺は、全てを失い、廃人となってしまうだろう。
 そんなことは不可能である、と直感で分かった。データのように全てをまるっと忘れてしまうことなんて絶対有り得ねえのだ。

『……何を言うかと思えば。そんな話を俺が信じるとでも思ってんのかぁ』
『もちろん、そうさ。だって君は既に彼女のことを忘れているだろう?』

 何をバカげたことを、と言うつもりだった。
 どうせ時間稼ぎのつもりだろうとせせら笑ってやるつもりだったのに、こいつの話を聞いてから脳内の処理速度が異様に落ちていることに気付く。

 いや、そもそも―――彼女ってのは、誰だ?

 任務で高揚している最中だとその場に関係ないことはあまり考えないようにしている。余計なことに考えを割きたくないからだ。これが終わったら任務は終了、別行動している本部の連中に連絡を取り、任務が終わったことを知らせ、それで俺の仕事は終わりだ。あとはボスさんに報告すりゃまたいつもの日々が始まるだろう、なんて、考えるのはせいぜいその程度。それ以外はすべて今、何をするべきかということしか考えちゃいねえ。こいつが指先ひとつでも怪しげな行動を取るならば殺すつもりでかかってるわけだからなあ。
 そんな状態での、場違いなセリフ。一体何を言ってやがるのかと思いはしたがその次の瞬間、ズキンと頭がひどく痛んだ。―――女?

『効果はもう出てきているようだね。さて、君が懇意にしている女性の名前は真尋と言うらしい』
『……ッ、』
『フフ。否定はできないかい?正解も分からないだろうけど、僕は実験を受けてくれる人には誠実でありたいんだ』

 知らねえ、誰だその女。
 そう言い返してやりたかったのに何故か名前を聞いた途端、その女の顔が脳裏によぎる。色付き、最後に交わした会話をようやく思い出す。そして俺は情けなくも呆然とするのだ、この任務地で。
 何故、この一瞬とはいえ真尋のことを忘れちまったのだろうか、と。催眠術のようなものなのか、はたまた俺はコイツに嵌められ、ただ誘導されているだけなんじゃねえかと疑いだす。

『ウン、いいことだ。君の脳を直接いじった訳じゃないからいつまで続くか分からないけれど、君はこれから彼女のことを忘れるよ。完全にね』

『でもこれじゃあ君にとって何も美味しくない話だ。その辺はきっちり、対価を渡そう』

 白衣の男はそう言って目の前のパソコンの画面をわざわざ俺に見せつけ、カタカタとキーボードをたたく。やがて画面にはデータの抽出という文字が大きく表示され、それが消えたと同時に機械から何かを取りだし、こちらへ寄越す。あまりにも気軽に渡すものだから少し訝しんだが、投げられた瞬間から奴の動作を見逃すことはなく、俺の手に乗ったのは間違えようもない、黒の小さな端末。

『これは、君への嫌がらせと、報酬だよ』

 小賢しい真似をしていないのであれば、これはそこのパソコンからデータを抜いたばかりのデータチップだ。恐らく入っている内容は今後の計画、これまでの経過などだろう。その中にはこいつらにエサを、人体という名の生贄を与えていたヤツらの情報も分かることだろう。そう、俺はこれが欲しかったのだ。まさか当の本人から渡してくるとは思いもしなかったが。

『パスワードは今から教えるけれど、そう、……君はこれから、このやり取りまでも忘れてしまうんだ』
『……何だと?』

 チカ、チカ、と部屋のライトがついたり消えたりしているように、俺の中にある真尋の姿が浮かんでは消え、浮かんでは消える。意識をしていないと知らない女のように感じられるのが怖かった。付き合っちゃいねえが俺の気持ちはとっくに伝えてある、愛しい女のことを。もう二度とひとりにはしないと誓った、強く、しかし儚い女のことを。
 パスワードは確かに、しっかりと男の口から伝えられた。俺からすりゃこのまま男を今すぐ脅すなり殺すなりしてこの場を離れるべきだったのに、足が、身体が異様に重い。バクバクと心臓が激しく鳴っている。ドクドクと身体中の血が沸騰するのかと錯覚するほど身体が熱いような、寒いような。今すぐ誰かにこのパスワードと端末を渡さなければ。今すぐこの男に剣を突きつけ、今こいつが言ったことすべてが冗談であることを確認しなければ。忘れちまったら意味がねえ。

『そこのカメラにこれから忘れる君にメッセージでも記録しておくといいよ。彼女への想いでも、ね。ただ、パスワード関連の言葉は自動的に消去されるようになっているからサ。……まっ、君が記憶を取り戻せば万々歳の話だよ。いやあ、それは間違いなく愛のチカラ!素晴らしい!』

 じゃあね、お先に。

 そして好き勝手言った男の身体は一度大きくふるえ、そのまま床に倒れた。慌てて奴の口元に手をやってみたがすでに息はない。元々自殺する前の話し相手に選ばれちまったらしい。そして、研究結果を知ることも出来ないくせに、俺の事を最後の実験体にして。もしかするとまだどこぞに生き残りがいて、俺の事を観察するつもりだったかもしれない。そうなりゃまた真尋が殺すこととなるだろう。
 その後はすぐ体調に変化があった。誰かに言葉を託す暇も余裕もなく、俺はそのまま奴の言う通りカメラに言葉を残し、―――そうして、俺は記憶を失ったのだった。





「思い出せば思い出すほど、……ダサすぎんだろうがぁ」

 このまま忘れてしまっておきたい話でもある。が、今は戻ってきたことを喜ぶべきだろう。
 男の言葉通りならば真尋のことだけがそのまますっぽり抜け落ちて、それだけだったのかもしれねえ。その辺りはもはや死人に口なし。真実は分からねえが、なにしろ俺のヴァリアーとしての生活は、この一年は特に真尋と結び付きが強すぎた。真尋なしでは語れないほど、あいつとほとんどすべての任務を共にし、任務後もトレーニングの相手として手合わせしたり、飯を食ったりした。アイツで抜いたりも、もちろんした。結果、俺の脳はどう捉えたものか、真尋と出会ったあの日からのこと全ての記憶を失うこととなり、今回の事件に至ったのだった。それがすべてだ。
 ちなみに記憶を失った俺が無力になったっつう噂を流していた連中のことも思い出したが、そいつらがどうやら残党にあたるヤツらだったようだ。もっとも戦闘のプロでもなかったようで経過観察よろしく俺の様子を見に忍び込んだりしてきたがことごとく記憶のねえ俺や他の精鋭部隊に斬り殺されたりしていたし、そうなると文字通り全てが葬られたことになる。

「……真尋、」

 これから少しの間、忙しくなるだろう。記憶が戻ってきたなら本当は今すぐにでも動くべきだと言うのに、身体がそれを拒否している。……今は、今だけは。真尋の眠りを妨げたくはないし、俺も手を離したくはない。

 どう償えばいい?

 傷つけることも、困らせることもしたくなかったはずだった。ヴァリアーと真尋どちらを選ぶ、だなんてそんな女々しい選択はするつもりもねえし、またそんな事で悩むなとこいつは一喝することだろう。それで傷つくことも恐らくはない。実際俺はヴァリアーを選び、それについての後悔はない。そのまま記憶を失い続けたとしても、ヴァリアーにとって益とするのであれば悔いることはなかっただろう。
 そう、だからこそ。
 それが片付いた今、間違いなく感情を吐露し、泣いたお前に俺は何ができるかをゆっくりと考えたいのだ。

 俺はまだお前の隣に居たいと願っても良いものだろうか、と。そう考えることもおこがましい話なんだろうが。


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