彼に返した、一本の剣。
 ヴァリアーの紋章もついていないような、普段のあの人なら見向きもしないような剣だったけど私はあの殺伐とした洋館の要所に刺さっていたソレに見覚えがあった。それはかつて酔いつぶれたS・スクアーロを彼の部屋へと送ったときに彼が持っていたものであり、その際私が研ぎなおして渡したものであり、いつかの任務で床が抜けるトラップを食らい気を失った私を助けるために壁へ突き刺しながら降りたせいで壊れてしまったもの。昔から使っていたものではなく、彼がどこぞの任務の時に見つけ、持ち帰った何の変哲もない剣だ。価値のあるようなものではなかったと聞いている。その日は運が悪く、自分の手持ちがガタついてしまった為たまたま持って帰ったような、普段ならその後は武器庫に放り込まれ日の目を見ることはなくなるようなものであったとも。ただ、―――そう、私と出会った日、私に研ぎ直してもらったから大事なものになったのだと恥ずかしげもなく言ってきたことを覚えている。それからずっと使っていたせいで剣の部分は欠け、到底剣として使い物にならなかったはずだけど何だかんだ気に入っていたということで柄だけはそのままに全く同じ種類の剣を嵌め込んだのだと聞いたことがある。おかげで修理屋には嫌な顔をされたもんだと豪快に笑ったことを覚えている。
 私だってきっとそんな依頼をされたら面倒くさいなと思うに違いない。高価だったり珍しいものだったらまだしもどこにでもあるような剣を何度も柄だけを再利用し続けるなんてとんでもなくケチな客だって判断するだろう。新しいものの購入を勧めるのが自然なぐらいだ。そうS・スクアーロに嫌味ったらしく言ってみたら彼は笑い続けたまま『俺だってそうやって客に怒鳴るだろうよ』と言っていたのがなんとなく記憶にあった。

 ソレを持ち帰った理由は、自分でもよく分かっていない。
 今の彼が見たとしても何だこれと不審がるに違いないのに。もしかしたら捨てられてしまうかもしれないのに。だけど、なんとなく、その部屋に置き去りにしたくなかった。私の手で燃やしたくはなかった。自分が住んできた場所は何の感慨もなく捨てられたのに、これは私のものではないから。どうせなら本人の判断に任せようと思った、ただそれだけだ。

『いつまで寝たふりをしているんですか』

 速やかに任務を終え、傷一つ負うことなくヴァリアー邸へ戻り、彼の部屋へ入り込んだとき、すでに私は後悔し始めていた。何も私が直接手渡さなくとも大和かルッスーリア隊長に頼んで渡してもらったらよかったのに、と。こうやってS・スクアーロの眠っている前で待つのは初めてではなく、かつてのやり取りを思い出させられ、なんとも居心地が悪い。
 思わず仮面をかぶってしまったのも名乗らなかったのも咄嗟の判断だった。任務が終わったままのその格好を咎以外の人に見せるのは実は初めてで、深く理由も考えずそうしてしまったけれど不審がられるどころか特に詮索されることもなく、逆に静かでこっちが落ち着かない。私を敵と思わなかったのだろうか。警戒はしていたものの私を倒そうと思わなかったのだろうか。私のことは、なにも、気にならなかったのだろうか。

(まるで、あの人が死んだみたいだ)

 そして、S・スクアーロの部屋で言葉をかわしながらぼんやりとそう思った。剣を返して、少しだけ苦しんだようだったけどそれでも最終的には穏やかな表情を浮かべた彼を見て、ようやくその言葉にたどり着く。
 もちろんS・スクアーロは生きている。生きて、今も私の目の前で笑いながら喋っている。だけどそうじゃない。私の知っていたあの人は、うざったいぐらいに私の機嫌をうかがい、私の言動に一喜一憂していたあの人はもういないのだ。私はもうこの人の視界に入ることはない。あの空気を味わうことはない。記憶が戻らない限り、戻ることはない。彼とすごしてきた1年間がなかったことにされる。それは思っていたよりも、自分の胸を、心を締め付ける。剣を渡したあとに苦しんだ彼と同様、ズキンと痛んだのだった。

(……ああ、そうか)

 こんなことになるぐらいなら心を許すんじゃなかった、と思ってしまえるほど。私はいつの間にか、苦手だと思っていた人が自分の内側へ入ることをすっかり許してしまっていたのだと気付く。気さくに話しかけ、気軽にこちらへ伸ばしてくるその手を払いながらもそれをさほど鬱陶しいと思ってもいなかったのだと気付く。

 過ごしていた日々が消え去っていく。薄れていく。
 理解できない言動に振り回され、困惑しつつも楽しんでいた自分の思い出が、なかったことにされていく。

 もうあのまっすぐな眼差しも、困ったかのように眉尻を下げ許しを乞う表情も、かつて私に取り付けた約束を守ろうとするかのように何度も私の名前を呼ぶあの声も。ひとりにはさせないと強く宣言したあの日のことも、それでいて実力を認めた上で預けてくれたあの背中も。すべて、すべて失われてしまった。もう二度とないのだ。
 だからだろう、S・スクアーロに向かって嘘つきだなんて言ってしまったのは。
 けれど、一度口にしてしまったらもう後戻りはできない。なかったことにする能力を私は持っていなかった。ポカンと目を丸くしたS・スクアーロを尻目に、どんどん心が乱れていく。かき乱されていく。そう、この人はいつもそうだ。――そうだった! 自信満々かと思えば余裕のないような顔をしたり、敵だと警戒していた頃でさえ私のことを守ろうと自分が怪我を負ったり。いつもそうやって人のことばっかり。私のことばっかり。なのにこうやって何てこともなかったかのように置いていくのだ。S・スクアーロは私との1年間を捨てたのだ。今目の前にいるこの人はそれらがすっかり抜けてしまったS・スクアーロであってそうじゃない人。この人は何も悪くはない。だけど悪いのはやっぱりこの人なのだ。嘘をついたわけではないのに、事故だったのに、傷付いたと感じてしまったのはこの人のことを信じていたからだ。それに気付かされたことも何もかもが、嫌になる。

 感情が爆発する、なんてことはこれまでなかったはずだった。
 なのに私は泣きそうになりながら駄々を捏ねるかのように、S・スクアーロの腕の中でうわごとのようにその言葉を繰り返してばかり。ああ、どうして。こんなつもりじゃなかったのに。

『お、おい! 落ち着け!』

 逃げようとしたのに逃がしてはくれなかった。決して引き留めてもらおうだなんて考えちゃいなかった。本当に逃げてしまいたかった。窓から飛び降りてでも自室に戻り、頭を冷やすべきだと判断したのにそれも本人に止められ、腕に閉じ込められた。その感覚も知っているけど知らないもの。困惑しながらも逃すまいと遠慮なく締められる力は今まで感じたことのないほど力強く、聞こえてくる声も、知っているようで知らないものなのだ。
 そう思ってしまえばしまうほど、嘘つきと詰る声が止まらない。苦しさは募るばかり。仮面をつけ、フードをかぶり身元を隠した女が何を言っているのかさっぱり意味もわかっていないだろうにこの人はただの善意で私をなだめようとかき抱く。私は私で逃げたい気持ちでいっぱいで、なのにその温かな腕が優しくて、それでも知らない人になってしまったと漠然と思ったことによりさらにパニックに陥ってしまっていた。


 全部嫌いだ。
 ―――こんなごちゃごちゃした感情も、何もかも。

 全部大嫌いだ!
 ―――もしかしたら剣を渡したことで思い出すかもしれない、なんて浅ましいことを考えていた自分も、何もかも。


『悪い、』

 すっかり困りきったS・スクアーロの様子が、顔も見ていない状態なのに分かる。この女はいきなり叫びだしてどうしたんだろうとか思っているに違いない。そう思えば思うほどみじめで、悲しくて、悔しくなる。
 他人から忘れ去られることには慣れたはずだったのに、他人から嫌われることには慣れたはずだったのに、よりによってそれを忘れさせた本人がえぐってくるなんて、なんて残酷なんだろう。今更気付くなんて、気付かされるなんて、いやで、嫌で、たまらない。

『……悪かった、真尋』
『っ!』

 私の名前を呼んだと同時にガクン、と重みが寄ってくる。意識を失った成人男性と言えど一応こちらも鍛えている身。後ろの壁に強く激突しながらも共に床に転がる、なんてことは起こらず、S・スクアーロの身体を支え、それからゆっくりとベッドへと彼の身体を横たえた。
 名前を呼ばれたことで少し冷静さが戻ってきたような気がする。それに、―――どうして、私のことが分かったのだろう。今の彼にとって何のヒントもなかったはずなのに。落ち着いたせいでじわじわと恥ずかしさも込み上げてくるけれど言ってしまったことは戻らない。もう一度S・スクアーロに忘却してもらうしか方法がない。…そんなこと、できるはずないんだけど。

 どうしてこんなことになってしまったのか私にも分からなかった。
 任務を終え、報告を終え、その足でS・スクアーロの部屋へと向かってしまったのが運の尽き。ただ私は剣を返すだけのつもりだった。…そのはず、だったのに。

「……」

 強く握られたままの手を振りほどくことはできなかったのは、感情を吐露して振り回した罪悪感だけじゃない。次にこの人が目を覚ました時、元に戻っているんじゃないかという浅ましい希望が入り混じっていることも自覚はしている。
 はぁ、と小さく息を吐きそのまま近くにあった椅子に座る。月のない夜空は私のぐちゃぐちゃの感情を表しているようだった。


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