最近、我ながら気を抜きすぎなんじゃないかと思う。熱を出したことも、階段も踏み外したことも、さらに上司の背中で眠ってしまうという失態続きの二日前のことは思い出したくない。S・スクアーロのように私もその日のことだけでいいから忘れてしまいたい。切実に。
 目を覚ました時にはすでに真夜中になっていて、どうやら気を失うようにしてS・スクアーロの背で眠ったあと彼に部屋まで送られベッドまで入れてもらったらしい。…らしい、と言うのはもちろん私は寝ていて知らなかったし、そうなると私の部屋を知らない彼はルッスーリア隊長のところにまで走り、共に送ってくれたということをルッスーリア隊長に教わったからだった。あの時のS・スクアーロは必死で可愛かっただとか、さっさと私をルッスーリア隊長に渡そうとしたものの意地悪にもあの人が拒んだせいで寝室までずっと背負っていただの笑いながら色々聞かされたけど正直申し訳なさすぎてどうしようもなかった。穴があったら入りたい、なんてそんなことわざが日本にあるみたいだけどまさにそれ。早く記憶が風化してくれることを祈るばかりだ。

「お、もう体調は治ったかあ」
「……お陰様で。あの時はありがとうございました」

 あれから数日。完治するのが思ったよりも遅くなってしまったけど日頃の仕事は自室に運んでもらったおかげでなんとか事なきを得た。身体を動かすような任務はちょうど今日、これからボスのところへ直接出向いて本人から聞きにいくところだったし割とギリギリだったと言ってもいい。
 とりあえずその前に、S・スクアーロの姿を目にしてしまったので優先順位を変える。話しかけられた言葉を考えてもどうやら先日のことを忘れてくれてはいないらしい、残念ながら。

 S・スクアーロは未だ記憶が戻らない。
 もう日数が経っているし元に戻るかどうかは本人次第だし、だからといってそれは彼が頑張ればどうこうという問題でもないのでどうしようもないと言ったところ。
 正直、記憶を取り戻すことは絶望的だろうとも思う。医療分野に詳しくはないけどそう簡単に人の記憶を操ることなんて出来やしないのだ。匣やリングを使った戦闘方法が主流になった昨今でも記憶をいじるなんてことはできない。マーモン隊長ならまだ可能性はあるけどそれはあの人特有の能力だし。それにマーモン隊長の超能力を利用するにしろ条件がある。
 マーモン隊長より実力が劣っているか、あるいは本人が記憶を改竄されることに対し是と頷くかということだ。
 …これに関しては私も体験済みだから分かる。あの人の能力は十年経過しても有効で、最強の力。だけどその力を自分に向かって行使することをS・スクアーロが頷くはずもないしそもそもメリットがない。つまりあの人が記憶を失ったのは医療の領域の話だろうとは言われているけど一応その可能性もあるということだ。まあ、後者は非常に低いだろうけど。

 そうやって周りが色々と憶測をたて、ああでもないこうでもないと試行錯誤を続け、最後に行ったボンゴレ本部からの依頼がどこだったのか、そこへ行けばなにか分かるんじゃないかと問い合わせが続いているのだけどもちろん当の本人はそれを知らされていない。というより、もはやあまり気にしていないようにも見える。いつまでも悲観的になられるよりは断然良いだろう。記憶が戻ってくるか否かなんて曖昧なものに賭けて身動きできないなんてバカらしいと常に前を向くその姿はさすがS・スクアーロと言ったところだろうか。
 そんな彼はどうやらトレーニングの帰りのようだった。今日は一日オフだと大和が言っていたけど疲労が感じられるしずっと身体を動かしていたに違いない。根本的に生真面目なのは変わらないようだ。

「次は気をつけんだぞ。あんな所でぶっ倒れてもあんまり人は通らねえからなあ」
「そうします」

 本当に、あの時は助かった。
 なんとか部屋に帰ろうと重たい足を動かしていたものの階段からずり落ち、S・スクアーロに救出された。まったく反応できないほどの体調不良は生まれて初めてで、飲まされた薬に毒でも仕込まれていたんじゃないかと思ったぐらい。…古びた瓶だったし、もしかすると腐っていただとか、そもそも薬違いだったのかも否めない。今となっては確認のしようもないけれど。
 そんな訳で不可抗力にも私があてがわれている自室へ上司二名が入ってくることになったけど、恐らくそこでやましいものは見られていない、と思う。いま私がS・スクアーロの前が見えた時に隠れることもなく姿を現したのもそれを一応確認するためだ。

 私には秘匿し続けなければならないものが多すぎる。所属している場所が場所なためその辺は仕方のないことだと割り切っているし気にしたこともないけれど。
 さて、部屋には何もなかったはずだった。基本裏側として受け入れた依頼は書類だったら目を通たあとはすぐに破棄するようにしているしデータの類は手元に残してさえいない。殺風景の割に剣やそれを研ぐ用の道具がほんの少し置いてあるだけの部屋。S・スクアーロにはすでに剣士ということだけは知られていることだしあれぐらいなら何も問題はなかっただろう。
 今、私が彼へ隠さなければならないことと言えば咎関連のことだけだ。それ以外は特に物珍しい情報も何も持ち合わせていない。そう考えると今まで通りの生活と何ら変わらないと言えば変わらないので私にとってはまだ気が楽な方だと言える。そう、私はただこれまで通りの生活に戻るだけ。今まで通りの生活から、記憶を失うまでのS・スクアーロだけが抜かれた生活に戻るだけなのだ。

「…そういや、変なことを聞くけどよお」

 S・スクアーロはそれを知らない。
 この人は、ただ記憶を失っただけ。どうやらすっぱりと一年ほどの記憶が消えてしまっただけで、それ以外は何の支障もないのだという。そりゃあもちろん戸惑いはあっただろう。突然一年後に飛ばされた、というような感じだろうか。私もかつては十年バズーカに当たった身なので少なからず分かるところはあるけれど。
 …ああ、この人関連の話題といえば女性関係は何故かすっぱり落ち着いているらしい。当時はお盛んだったらしいし、彼が記憶を失った後に無理やり会いに行かされたときも実際女性とお楽しみの真っ最中だった気がするけどそれ以降は何もなかっただとか何とか。任務後に娼館へ足を運ぶこともなく、健全極まりないのだという話は聞く。相変わらず誰が流したのかS・スクアーロと私が恋仲だとかそういった噂のせいでこっちにそういう報告が来るのは非常に困る。話されたとしてもどうしていいのか分からない。ひとつひとつ丁重に否定はしているもののいずれは諸悪の根源を見つけ次第潰しておく必要がありそうだ。

「俺はお前と何かあったのか」

 色々と考えている中かけられた彼の言葉にピタリ、と世界が止まった。

 思考を停止し、ゆるり、彼の表情をうかがう。
 彼はいま何を問うただろうか。何を口にし、私へと聞いたのだろうか。その言葉の意図を探ろうにも彼は至って真面目な表情を貫き、冗談を言っているようには見えなかった。

 ――何かとは何だ。

 そう瞬時に問い返せられればまた変わっていたのかもしれない。何の話だろうかとさも分からないと言った顔をして問い返せば良かったのかもしれない。とにかく、私はここで何らかの反応を取るべきだった。心当たりがないと見えるように。けれどそれが出来なかったのは――あまりにも、私はこの人と、誤魔化しきれないほどのいろいろな出来事があったからだった。
 この人が忘れてしまった最初の辺りから、最後まで。隠れるようにして生きてきた私が気まぐれで彼の前に姿を現しS・スクアーロと手合わせをするあの夜から、当然のように私へと話しかけてくるようになったあの日まで。何もなかった日の方が少なかったと言っても過言ではないほどの、密度。この人が易々と手放してしまったその中は、恐らくだけど私との記憶がそれなりに詰まっているはずだった。それを本人から何だったのだと問われることは、そしてそれらを真っ向から否定しなければならないのは何故、……こうも歯がゆく感じてしまったのか。

「いいえ」

 記憶を失う前のS・スクアーロへ取っていた態度で同じように今の彼へ接することは私の中の何かが許さなかった。だってそれは――まるで、縋っているようでみっともないように思えたから。
 彼の質問に否の言葉を返した私の声は尖っていただろうか。「何もありませんでした」次いで続けた言葉に、何か感情は乗っていなかっただろうか。一人の部下として、一人の見知らぬ事務員として取り扱われた場合、最も適した返答であっただろうか。…答え合わせをしてくれる人は、残念ながらここにはいない。
 だけど、これでよかったのだと思う。今更掘り返す必要はない。もしも何かあったのだと話すとなれば一部ではなく全てを報告する必要がある。そうなれば私だけでは伝えきることもできないほどの膨大な量にもなるし、また、他人が伝えることになっても全てを知る人間はいない為に複数の人間を巻き込むことになる。そして――それを話したとして彼に記憶が戻ってこないこと、それを話したあと今のこの人に『そうか』と一言で受け入れられるのが嫌だったのだ。

「…そうかあ」

 S・スクアーロが返した言葉はたったそれだけで、だけど、それで良かったはずだった。間違えてはいないはずだった。知らせないのであれば隠し続ける必要がある。敢えて話すことをしないというのであればこれが最適解であるはずだった。
 …なのに、どうして。

 こころなしか安堵したような表情を浮かべた彼に私が抱いたこの感情は、いったい、なんだ。


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