「う゛お゛ぉい! あいつはどこ行った!!」
「い、いや俺達は見てませんが」
「ならいい。邪魔したなあ」

 ニュースではこれからしばらく雨が降り続けるだろうと言っていた。予報が流れていた通り昼であるにも関わらず向こうに黒い雨雲が視認できる。恐らく早くて夕方、或いは夜に天気は大いに乱れることだろう。
 まあ天気なんて事務員にとっては大して関係ないことではあるけれど任務がある精鋭部隊にとって一長一短。火薬なんかは湿気てしまうから持ち運びには注意しなければならない。雨が降れば動きにくい代わりに証拠の類を消してくれる。まあこっちも早く動かないと相手の残した証拠を消されてしまうんだけど。と、ヴァリアーに属する精鋭部隊にとっては決して無関係ではないことを考えつつ私は屋根の上でハアと大きく息を吐いた。
 幸いなことに本日そのような任務はないので私には何の得した情報でもない。ほんの少し風が冷たく、そう分厚くもない隊服だと風邪を引いてしまいそうなぐらいの肌寒さ。さっさと部屋に入りたいのに残念ながらそう出来ない状況にあるのが恨めしい。

 どうして休暇を自由にできないのか。私に自由がないのか。

 ちなみに私は屋根の上を絶賛大掃除中でもなければこんなところで黄昏れることを趣味にしているわけでもない。そんなことをするぐらいなら武器庫の整理でもしておきたいと思う派だ。

「勘弁して欲しい」

 憮然としながら呟くのはたった一言、だけど心の底からの願いだ。これが叶うならどんな遠方任務だろうが面倒な雑務だろうが喜んで受諾していたことだろう。
 そんなに難しい願いではないはずだった。叶えることもまたそこまで大変ではないはずだった。

「真尋!! 俺と手合わせしろ!!!」

 だけどその人物は私の些細な願いすら叶えてくれる気はないらしい。
 定期的に聞こえてくる大きな雑音、実はマイクでも搭載されているのではないかと思うほどの声はきっとヴァリアー邸内至るところまで響いていることだろう。信じられる? 遠くにいるはずなのに窓がピリピリと振動してるだなんて。地下にある事務室まで聞こえていたらどうしよう。あの人が周りに命令して私を見かけたら報告するようになっていたらどうしよう。
 そんなことを考えると私はこの唯一安全である場所から余計動けなくなってしまったわけで。ああ、私に平穏の地はないのだろうか。

「真尋! どこにいる、隠れてないで出てこい!!!」

 なんでこんなに追いかけられるようになってしまったんだろうか。あの時の私の対応がよろしくなかったのだろうか。後悔と疑問でいっぱいになりながらあの時のことを思い起こす。

 トレーニングルームでS・スクアーロに手合わせを申し込まれながらもそれを断ったのはいくつかの理由がある。
 ひとつはただ単純に私が疲弊しきっていたこと、もうひとつはここ一年の記憶を失っている彼と手合わせをすることにより変な記憶を植え付けたくないということだ。
 前者としての理由はもちろん一番大きい。一時間ほど身体を動かし続けていたせいで正直あの時はそのまま眠ってしまいたいぐらい疲れていたのだ。体力を数値化できるのだとしたら百が限度として残り十ぐらいだっただろう。ただ走るだけならまだ動けただろうけど剣士としてならもう限界のところにあったのだ。
 そして後者の理由。これはまあ…ある意味、あの人のためでもある。

 私は直近のS・スクアーロの剣術を知っている。私と手合わせをしてきた訳じゃないけれど任務にも何度かついて行ったし大和との手合わせを何度か見ているとそれなりに見えてくるものがある。
 つまり普段どういう動きをして、どういう反応をして、どういう動きにはどういう対応をするのかをだいたい把握できているということだ。言わば私は彼の剣術に関し予備知識がある状態。
 片や何も知らない、何も覚えていない彼。
 こうなれば手腕がほぼ拮抗している場合、私に利があるのは当然だ。初見殺しとして勝てる自信もある。まあ口汚く言えばあんな大人数が見ている中であの人をぶっ倒すのはあの人が可哀想かなと。そういうことだ。手加減なんて出来るほどあの人は弱くもないし。
 だからあの時は断わった。あくまで私は好意的に、善の心を持って断ったつもりだった。だというのにこれだ。

「…逃げてたら事務室まで来るし」

 あれからS・スクアーロが追ってくる。誰かから情報を得たのか私が普段から居座っている武器庫までやって来るし、ルッスーリア隊長の部屋にまで乗り込んでくるし。
 困ったことにド素人ならともかくあれでも一応ヴァリアーに長年在籍している剣士。気配を隠すことなんてお得意で、こっちもそれから逃げるために気配を隠す以上完全に私と読み合いになる。相手の存在を常に意識しながら生活するのは意外とキツい。
 結局どこにも逃げ場がなくなり今は隠し通路やこうやって屋根の上に避難し彼が諦めるのを待っているという有様だった。恐ろしいことにこれが、連日。いい加減飽きて欲しい。
 いっそのことこっちが諦め手合わせを受けるべきじゃないのかとも思うんだけどここまで来てしまった以上、何だか癪だ。逃げ続けるのも体裁的に良くないし、いつまでもあの人の記憶が戻らないようならどうにかしなければならないなとは思ってもいるんだけど。
 だけどこれは本当に予想外。フルーツがたくさん詰め込まれていたバスケットを投げつけたのはさすがに不味いとは思っていたし、それで嫌われたというか悪い印象を抱かれたという自覚はあった。
 でもややこしいのは面倒だし嫌いだからしばらくはそれでいいとすら思っていたのにまさかこんなことになるなんて。

(……前の方がマシだったかも)

 以前――そう、あの人が髪の長い剣士を探していたあの頃。
 私だってまさか私を探しているだなんて思ってもみなかったし向こうもたぶんこちらに対し良い印象は持っていなかったのだろう。死神として嫌われていたあの当時、他の隊員と同じく酷い態度を取ることはなかったけど好かれてはいなかったあの頃が懐かしい。教えてもらうまで知らなかったけどあの人はかなり、私のことを探していたのだと言う。
 色々あって、それが私であると知ったら今度は任務に連れ回されるようになった。追いかけられたらどうせ逃げていたことだし、まあ正しい選択だったのだと思う。任務と言われれば私だって避けることはできなかったのだから。
 そう考えると今は…なんというか。今の彼には放っておいてほしいんだけどもそれも難しい話になっている。もう少しであの人も任務に復帰するというのにトレーニングもそこそこに切り上げ私を探しているという有様だ。他の隊員に聞くとどうやらトレーニング中にふと思い出したかのように私を探しに走るんだそうで。

 求められていることは嬉しい、のだと思う。
 私だってあの人と手合わせすることはたぶん嫌いではない、のだと思う。
 いろいろな感情が絡み合い、今は呆れの方が割合を占めているだけで。

「おい大和! まさかヴァリアー邸にあいつしか知らねえ隠し通路なんて作ったんじゃねえだろうなあ!?」
「……そんなわけないでしょう。どこにそんな予算があるって言うんです」

 憤るS・スクアーロに対応しているのは大和だ。まさかそんなところで隠し通路の話題が出てくるとは思わず、少し笑ってしまう。被害者はもう一人、大和だ。私探しのときによく駆り出されるのも勘弁してほしいよなあとボヤかれたことがあるのでいずれ落ち着いたときには手合わせでもして許してもらうとして。
 話口調からしてきっといつものようにヘラヘラと笑いながらS・スクアーロの言葉を流しているんだろうけど今頃内心焦っているに違いない。その辺の絵画や棚を決まったリズムでノックしたら開くことなんて今となっては私と大和と、それからボスであるXANXUSぐらいしか知らない情報だ。次に建て替えることがあれば誰にも知られないまま封鎖されるだろう。もう咎という組織は事実上解散しているし、これ以上この機関に関与する人間はいなくなるのだから。

「あとは墓か…上かあ」
「!」

 あ、笑いごとじゃなくなった。これはもしかしなくても上がってくるかもしれない。まるで私のことが見えているのかと思えるほど意外と近くで、数メートル離れた程度の廊下の窓が大きく開かれる音がする。
 危機感を感じたと同時に私も立ち上がり、必死に気配を探る。全く同じタイミングで少し離れた場所からS・スクアーロが屋根に手をかけよじ登ってきたのを確認すると一番離れたところへ向けて駆け走る。ゆらり、長い髪が大きく風に煽られ、揺れる。その下の眼光は異様に鋭く、私と目があうとニヤリと不敵に笑った。

「真尋!!! 見つけたぞぉ!」
「ヒッ」

 変な声が出てしまったけど仕方ない。鬼ごっこというか、むしろ本当に鬼。そう、S・スクアーロは鬼のような形相でこちらを睨みつけている。目は据わり、身体をゆらゆら動かしながら狙いを定めてくる様子はまるで鮫…じゃないな、蛇のよう。
 やばい。死ぬ。殺される。
 たまにルッスーリア隊長に感じられるような身の危険をこの人からも覚えることになるなんて。捕まったら最後手合わせどころか切り刻まれてしまいそうだ。私はまだ私の唯一のところへ向かうわけにはいかないんだけど。

「待てぇ!!」
「きょ、今日はオフなので!」

 久々に声を荒らげたかもしれない。というかちょっと声が震えたかもしれない。
 そんなことを思いながら私はしばらくぶりに全力で走り、屋根から飛び降り、近くの廊下へ入り込むとS・スクアーロを撒くための逃走ルートを頭の中で思い描く。

 勘弁してほしい。
 勘弁してほしい。

「…っ、勘弁してほしい!!」

 ああ、私は静かに生活を送りたい。本当に、それだけなのに!


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