ソレを見た瞬間、俺が抱いたのは俺自身よく分からない感情だった。一番近しいものと言えば怒りだったんだろうがそれもまた何故なのか理解ができない。分からないことだらけだ。
 ここはヴァリアーの敷地内。幹部の自室やXANXUSの執務室以外は基本的に解放されていて誰にでも使うことができる。それは事務員だって変わらねえ。つっても事務のエキスパートである女達がトレーニングルームを利用することは滅多にないわけだが。つまりこの女が何処にいようが俺が咎める権利はないのだ。そもそもここに立ち寄ったのは俺もそろそろ任務に戻ることになるだろうしその前に身体を動かしておこうかと思っただけで、もちろんこの女に会うためじゃない。珍しくトレーニングルームが混雑していていつの間にか真面目な奴らが増えたモンだと感心している最中だったのだ、女の小さな笑い声が聞こえたのは。
 女の精鋭部隊も居ないわけじゃない。確かに少人数ではあったが数人は在籍している。実際俺が手を出した女も多かったのだが。だが今はそういう意味ではなく、ただ気になっただけ。こんな天気もいい日に真面目にトレーニングする女隊員の姿を一目見ておこうかと視線をやり、―――そうして、俺はあの女の姿を目にしたのだ。

 なんだ、この感情は。

 以前こいつにされたことをまだ覚えているがあれは俺も俺で言葉が過ぎたという自覚はある。まあ、俺も大人だ。あいつもそれを根に持つようなら話は別だがお互い忘れるようなら俺もまたなかったことにしようと思ってすらいた。つまりあれとこれとは話が別。俺は今苛立ちを感じているが決してそれは先日のことを思い出したからじゃねえと自信をもって言える。だがそいつの顔を見た瞬間、まさに身体中の熱が沸騰するかのような感覚に陥ったのだ。
 あいつ、…真尋。
 後に大和から聞いた名前だが、やはり俺の記憶を飛ばしている期間中に出会った人間らしく聞き覚えはなかった。記憶に引っかかることもなければ、それがきっかけで何かを思い出すというわけでもなかった。つまり俺はこいつに関して特に何も覚えていないということになる。向こうからしたらちょっとした知り合い程度だったのかもしれないが俺からすりゃ初対面。名前と容姿と、すこし暴力的な性格をしているということぐらいだろう、俺があいつのことに関し認識したことは。その程度のはずだったのだ。

「俺と手合わせしろ」

 真尋は俺の見たこともないような柔らかな表情で俺の部下へと笑いかけていた。それは手合わせ後の雑談だったんだろうとは周りの反応を見ていりゃ分かる。周りのヤツらの邪魔をしていたわけじゃないってことも。なのに妙に腹立たしい。真尋に対してなのか、俺の部下に対してなのか、はたまた笑って雑談していることなのか。無理やりどれかに当てはめようとするとどうしても女自身ではなく部下に対しての苛立ちが勝つことが気に食わねえ。トレーニングルームで喋っていることより、あいつが誰かに笑っていることが気に食わねえ。俺の中の感情がイカれちまっているようだった。
 だからだろう、本来なら踵を返し出ていきゃ良かったのに逆に周りのヤツらを蹴散らし、真尋へと声をかけたのは。部下に対してならいつでも扱きあげることができる。そう思って、むしろ滅多に出会うことのない女に手合わせを願い出たのだ。

 ……否、そうじゃねえな。

 心の中で、否定する。
 きっとそうじゃない。それだけじゃない。いろんな感情が渦巻いているが、決してそれだけではなく俺はさっき一瞬見えたこの女の剣術に興味を抱いたのだ。どこかで見たことのある動きに。妙に覚えのある構えに。

 基本的に倒してきた流派はそう古くもない限りは身体が記憶している。新しい流派と出会うたび、そいつの動きをある程度見りゃ攻略法を習得していくことができる俺にとって流派と名のついたものは間違いなく俺の中で蓄積され、忘れることはないはずだった。
 だが、今のはどうだ。
 見覚えはあるのにどれなのか、いつのものなのか、どんなものだったのか思い出せねえ。霧がかかっているかのようにコレだと思う流派を探し出すことができなかったのだ。それは果たして単純に記憶を失っているせいなのか、実際は倒したこともないがどこかの流派の枝分かれした末の残骸的なものだったのか、それとも色んな流派が混ざりすぎて区別もついていなかったのか今の俺には判断ができず。歯がゆかったのだ。人間関係や任務に関する記憶とはまた違った高揚感があった。そんなものどうでもいいと放り投げてでも得たいものがそこにあり、ただ思ったのだ。―――食いてえ、と。
 その技を自分の身で食らってみたい。食らって、咀嚼して、判断して、頭の中で何回もシミュレーションして、実践して攻略したいと。食って食って食って喰って噛みちぎって骨の髄まで喰らい尽くしてしまいたいと。そう願っちまったのだ。

 それは剣士としての欲望。
 それは先日真尋へ抱いた苛立ちとはまた正反対の、そして性欲には似て非なる渇望だった。

 俺はその細腕から繰り出される技の全てを受けてみたい。相手をどんな視線で睨みつけるのか、相手の技をどうやって受けるのか、どういう息遣いをするのか、俺の技を見切れるのか、また見切れなかった場合はどうするのか全てを知りたい。そして手酷く、且つ剣士としての精神も粉々に砕くような、圧する試合をあの女に刻みつけたい。
 そんな残虐な思いに囚われながら俺は女を誘う。褥に誘うような甘言なんざ必要ねえ、俺はこの女と殺りあいたい。きっとこいつは今まで相手した奴らとは違う何かを味合わせてくれるに違いないと俺の本能がそう告げている。

「…真尋」

 ひどく熱に浮かされていたようだった。どの感情が割合的に占めていたのかも分からず、俺は欲しいがままに、思うがままに言葉を発しているだけ。俺はS・スクアーロ。欲しいモンにゃ手を伸ばさずにはいられない、欲望に忠実な男だ。これまでも、そしてこれからも。
 だから今もまさにそうしようと細腕に手を伸ばそうとしたその瞬間だった。黒い目が、夜の色を灯した暗い瞳が俺の事を見上げたのは。

「…っ、」

 ぞくりとさせられる、鋭い目だった。動きを思わず止めさせられ、反射的に剣の柄を握らされるような危険を孕んだ瞳。それでいて俺のすべてを見透かしてしまいそうな、冷えた目。そこに尊敬もなけりゃ畏怖もない。拒絶の目だ。何故そんな目で俺を見るのかさっぱり分からねえが。
 時が止まったようだった、ってのはまさにこういうことなのだろう。間違いなく俺はこの女の気に当てられた。圧された。場の支配者は間違いなく俺であったはずなのにこいつは屈することもなく、また抗うこともなく俺を対等に見返す。剣の技量は申し分ないものだろうと予想はついていたがこの気はそう簡単に出せるモンじゃねえ。恐らく、強い。事務員とは聞いちゃいたがこれはまるでどこぞの名のある剣士。死線をいくつも掻い潜ってきたかのような、そんな風にすら思わされるオーラを放っている。
 「申し訳ありませんが」昂る俺とは正反対に、声は静かなものだった。

「今のあなたとは手合わせもしたくありません」
「…っ、は?」

 女は俺の誘いを断った。それだけがかろうじて理解でき、だが、何故断るのかが分からない。剣士なら俺との手合わせを断るなんざ有り得ねえだろうが。俺の部下ですら簡単に真剣勝負を持ちかけやしないぐらい、剣士としては名誉あることだろうが。
しかも互いに強い人間であるならば尚更の話。この感覚は同じ武器を取り扱う人間同士でなければ分かり合うことのできない感覚だろう。
 だから拒絶した理由が分からなかった。どちらかが、或いは両方が大怪我を負うかもしれないということはあれど本気を出す以上至極当然。そういう保身とは違う何か。逃げ、とは違うと分かるその言葉はただ俺を否定しているだけ。俺を拒絶しているだけ。今の俺とは戦いたくないだと? 訳の分からねえことを言いやがって。

 女は自分の言った言葉を撤回することはなかった。やがて「失礼します」と最低限の礼儀は欠かすことなくほんの僅かに頭を下げると真尋は出口へ向かって歩いていく。靴音を一切させることなく歩む姿勢は暗殺者のそれ。周りにいた精鋭部隊の野郎共は俺が来た時のようにサッと真尋のために道を開け、やがて小さくドアがパタンと音を立てて閉まる。

「おっかねー…今、視線で殺されるかと思ったわ」
「やべーよな、つい息止めてた」

 ガヤガヤと周りがやかましい。

 追いかけることもできたはずだった。声を張り上げ、じゃあいつならできんだと問うことも、上司に対し何だその態度はと怒ることも、何なら周りの連中に真尋を引き止めるよう命令することもできたはずだった。
 なのに声は喉に張り付いたまま。身体はその場に縫いとめられたかのように重い。ピクリとも動かなかったのは俺にも理由がわからなかった。またあの時と同じ不調だ。まるでそういう術を受けたかのような、果物が入ったあのバスケットを思い切りぶん投げてきた時に身体が一切動かなかったあの数日前と全く同じ異変。
 何なんだ俺は。何なんだあいつは。あの女は、…真尋は俺になにをしたってんだ。この不調はもはや反射。そしてこれはあの女相手だけに発動する。
 ガンガンと強く頭の内部で何かが殴られるような感覚。すれ違いざまに技でも受けたのかと錯覚するほどの、手が痺れるような衝撃。呼吸が浅くなる。くらくらと視界が揺れている。身体があの女を拒絶しているような、欲しているかのような記憶を飛ばしている俺には判断のできない俺自身の反応。

 まるで呪い。
 まるで呪縛。

 周りの連中のざわめきが大きくなる中、俺はただあいつが出ていった扉を睨みつけるだけ。


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