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 何がどうなってこうなってしまったのだ。昨夜出会ったばかりのあの男に目前まで迫られながら夜は考えずにはいられない。


「退いて」
「いやです」

 骸もそうだがこの男も重傷を負っていた。何故そうまでして戦っているのかわからないがこれ以上すれば共倒れになるのなんて目に見えてわかっている。この場所でそんなことをさせてなるものか。
 男の言った通りこれは骸を庇っての行為だ。しかしこの目の前の彼も一刻も早く治療をしなければならないとは思っている。むしろ切り傷である分、彼の方が出血量も多く、生命の危機に陥る可能性は高い。
 …本当のところはもうこれ以上誰も傷ついて欲しくはないのだ。今この男は夜の事を知らないだろうけど、夜は知っている。今の無表情っぷりからは考えられぬほどに楽しげに笑むことも、踊りが実は上手いことも。それから女性を口説くのも上手いことだって知っている。だけど今はそんな状態ではない。

 楽しい昨夜とは一転、散々な一日だ。

 この男を怒らせない方がいいとはわかっている。戦い慣れている事だって昨夜分かったし彼の実力の一端だって身をもって感じた訳だ。この怪我をしている状態でどれほどまでに戦えるものなのかは分からないがもしも彼が自警団で、骸が追われるべき犯罪者であれば。そういう考えにも至った訳だが今更彼を売ることなど誰ができよう。
 「退け」「退かない」そのやり取りはまさに一触即発。
 しかしながら男との攻防は呆気なく終わることとなる。


「ぎゃあ!」

 こんな状況である。殴られるかもしれないと、攻撃されるかもしれないという覚悟はあった。その覚悟で挑んでいたはずだった。
 女だからと遠慮するような人間には到底見えなかった。きっと痛いに違いない。拳を握りしめそれとなく攻撃を受ける覚悟を決める。一発でいい、喰らいさえすれば後は自己防衛だとして相手に殴り掛かることだって夜の頭の中で練られてもいた。
 だがしかしまさか、倒れられるとは誰が思おうか。

 その重みが来るとは流石に考えてもいなかった夜は耐えられることもなく情けない声をあげてその場に倒れ込んだ。当然ながらその男と共に、だ。
 ゴツンと扉に頭をぶつけながらずり落ち、やがて尻もちをつくと男から離れようともがいてみるがどうにも意識を失った男の身体は重く、非常に厄介である。何故自分がこんな目にばかり! 半ばやけくそ気味になりながらぐぐぐと腕に力を込めようやくその男を引き剥がすと片側の扉が音もなく開く。


「……おやおや」

 当然、建物内にいた人間は骸だけだ。彼以外に有り得はしない。
 少しの間に己の怪我の手当をしていたらしい。もっとも包帯も裁縫道具も夜の部屋にしかなく、恐らくそれらの全てが幻覚で補ったのだろう。何とも便利なスキルである。だからといって打撲の痕だけはどうにもならなかったようだがそれを除けば特に大事ないようにも見え、ホッと息をついた。


「骸さん、怪我はどうですか?」
「ええ、おかげさまで。ところで夜、その男に見覚えは?」

 例え骸を庇った行為だとしても、だからといって今度は自分の膝の上で意識を失っている男をこれ以上どうにかしようという気持ちにはならない。どちらかの肩ばかりを持つつもりはそもそもない。
 しかし運が良かったと思ったのは骸からはこの男ほどに相手に対する殺意や怒りは感じられなかったことだろうか。どちらかというと少し疲れていると言ったところなのかもしれない。そういえばこの術はずっと昨夜からかけっぱなしだったのだし、何しろ夜のドレスだって、それから脱ぎ捨てたガラスの靴だって骸が幻術を解かない限りはまだあのお城のどこかに落ちているに違いない。彼に負担をかけてばかりである。

 それらを思い出しやや申し訳なさを感じながら、骸の疑問に答えるべく改めて男の姿を見下ろした。
 先程までは帰ってもらう為に威嚇してばかりで彼の目以外を碌に見ていなかったのだが昨夜と同様美しい容貌をした人だと同じ感想を抱く。着ている衣服は上等なものなのだろう。身分が高いであろうということはあのパーティに参加している者なのだから確認せずとも分かる。夜は貴族の端くれではあるがそういった集まりに出かけた事はほとんどなかったし、身に飾っているものでその身分を測ることは出来なかった。
 しかしそのラベルピンの型には見覚えがある。父親と同じものだ。昨夜はそれが見当たらなかったのだけどこれはやはり…


「昨夜会った自警団の方です」
「ほう?」
「…骸さん、あなた何かやらかしたんですか?」

 自警団の男に何てことをやってしまったのだという若干の後悔は今になって少しずつ湧き上がってきていた。そして、これからどうしようという戸惑い。この屋敷どころかナミモリから追い出されてしまう可能性もあるのではないだろうか。夜の頭を占めていたのはただただそれだけである。

 だってそうだ。

 この自分と同じぐらいの青年が自警団の、それもパーティに出るほどの身分の高さか或いは実力者であるのであれば自分はとんでもない相手に喧嘩を吹っ掛けたのと同義なのだから。もしもこれで骸が犯罪者だったり、自警団が追っていた人間であるのならばそれに加担したということになる。
 とは言え、今になって骸をとっ捕まえてどうのこうのという気はそもそもない。…無いのだがもしも夜の想像通りであるのならば少しぐらいこの訳の分からない事態について説明を求めたって罰は当たらないだろう。


「…クフフフフ」

 その後、クハハハハ!とその場に笑い声が響き何事かと目をぱちくりさせてしまったのも仕方あるまい。
 誰が笑ったのか、目の前の男だと分かっていても信じられなかったぐらいだ。
 何しろ出会ってから今まで彼のそんな笑い声を聞いたことはなかったのである。楽しげに、否、実際楽しんではいるのだろうがそれほどまでの高笑いを初めて聞いた。この場にもしもフランが居ればその異常性に思わず身震いをしたことだろうが彼は幸いにもコクヨウでのんびりとしている最中である。
 あの骸が全力で笑っている。身体を折り曲げ腹を抱える彼を見る者は後にも先にも夜だけだったのだが夜はそれを知る由はない。面白くて面白くて仕方ないとそんな風に感じ取れはしたのたが何故そうも笑われたのか当の本人は気付くはずもなく。


「…そうですか、自警団の方でしたか。では僕は君が庇ってくれた通り逃げることにしましょう」
「? 骸さん?」
「楽しかったですよ、夜」

 しゃがみ込み、夜と視線を合わせる。初めてその時、彼の瞳が赤と青のオッドアイであることを知った。
 それよりも痛ましいのはやはり頬や顎、それから首元に見える打撲の痕か。トンファーで滅多打ちにされたにしては彼はなかなか打たれ強いらしい。するりと伸ばされた手袋ごしの手はひんやりと冷たい。何事かと見返すが骸はそのまま何を言うわけでもなく夜の頭をポンポンと軽く叩いて再度立ち上がる。
 いつの間にか彼の周りには黒い烏が何匹も現れていた。これも幻術なのだろうか。否、そうであるに違いない。普通の烏ではない。明らかに骸に従っているようにも見えるし、何より霧の中で現れ夜に攻撃した動物よりも格段に厄介なモノなのであろうと本能で理解する。


「君とはきっと長い付き合いになりますし今日はここまでにしておきましょう。…Arrivederci」

 最後に呟かれたのは夜の理解できない言語であった。
 「お幸せに」なんて付け足されたが何故そう言われたのか分からない。きょとんとしたままの夜には最後まで何も教えてくれることもなく骸は烏の大群に埋もれ、気が付けば姿を消していたのであった。

 烏の羽音と鳴き声がなくなれば静寂がその場を支配する。
 何とも霧のようで嵐のような人間であった。
 彼は一体何者だったのだろうか。何をしに夜の前に現れたのか…本当にフクロウを助けただけの恩返しだったのか。それすら夜をおもちゃに遊んでいたようにしか思えない。

 急な出会いと同様、急な別れだった。
 あの最後の言葉からしてまたいずれ近々出会うような気もしたし離別を悲しむこともなかったのだけれど…先程までぐっすり眠っていたというのにどっとまた疲れが押し寄せてくるのを感じずにはいられない。


「……あ」

 彼の気配が完全に感じなくなった頃、辺りを覆っていた霧がゆっくりと晴れていく。
 そこに見えたのは大きな虹でそれはそれは美しかったのだがこの短時間で起きた色んなことに夜は呆けたまま碌な反応をとることも出来ず、未だすうすうと眠る男を膝に寝かせながらぼんやりとそれを眺め続けたのであった。

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