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骸が姿を消してからどれぐらい経過しただろうか。膝が痺れてきたなと思う頃には骸が幻術を解いたこともあり霧がすっかりと晴れ、夜の混乱も少しは収まりつつあった。
しかしながらまだ外は肌寒い。
せめて骸に彼を運ぶところまで手伝ってもらえばよかったとは思いつつも全てが後の祭りだ。仕方ないと溜息を一つついた後、男の脇に手を差し入れ渾身の力で運ぶ。
ソファに寝かせ安堵したのも束の間、今度はピチャリと浸る血に慌てて自分の部屋へと走り包帯で止血を施していく。元々生傷の絶えない生活をしていた所為かこういう事だけは悲しきかな得意となっている。まさか眠っている彼にそれを披露することになるとは思ってもみなかったけれど。
手際よく包帯を巻いていけばあっという間にそれを終えた。見える範囲は切り傷だらけで包帯面積が随分と広くなってしまったがこれはこれで仕方ないのだ。折角の上等な服もこれでは勿体無いことになってしまったなと思うのも当然な訳で。
「…っ」
白い包帯に滲み出る血の為に2度、変えた時だった。
男の瞼がふるりと震えやがてゆっくりと開かれた鋭い目。昨夜と変わりのない青灰色は、しかし先程と同様こちらを強く睨みつけていた。
「起きましたか?」
まだ少しぼんやりとしているようであったが身体を起こすその様はふらつきもなく随分としっかりしている。
骸もそうであったが彼も生命に別状は無いようであった。
しかしこれもやはり鍛えているからだろう。普通の男であればこれで済むわけがない。普段からどういう鍛え方をしているのか気になるところだが今はそんな話をしている状態ではないことは必至であり無駄口を叩くことなく夜はそのままソファの隣の丸椅子に腰掛けたまま男と相対した。
今から彼と話さなければならないことがどれだけ苦痛だろうか。
何を言われるのかも大体分かっているし、こうなると元々分かっているのであれば骸に状況説明の為にこの場に残って欲しいような気もしないでもない。しかし彼とこの男の仲は最悪であるというのはさっきの事でよく分かっている。流石に屋敷の外ならばまだしも中で暴れられればひとたまりもない。
男は頭を抑えながら周りを見渡すと夜に低く問うた。
「あの男は」
「逃げましたよ」
「君が逃がしたのかい?重罪だよ」
「怪我人を匿っただけで重罪は流石に困りますね」
やはり自警団の人間、考えているのはそれだけだった。重罪という言葉にピクリと反応はしたものの全てもう終わってしまったことなのである。
だからといって夜は彼に謝罪するつもりは毛頭ない。ふてぶてしくも、知らなかったのだからと通すつもりであった。そもそも本当に夜は骸の事も、それからこの男の事も何も知らないのだ。そんな時に目の前で怪我をしていたとあれば助けてやるのが当然であり、それは亡き父から教わった中で一番大事なことだったのだから。
「手当」ぽつりと呟いた男の言葉を危うく聴き逃しそうになった。
これから言い訳する内容を考えていたのだが男はその話題についてはさっさと離れてしまったらしい。自分が今いる場所と、施されたものを見て目を見開いた様子であったがすぐにどういった状況にあるのか判断したのだろう。
「手当て、してくれたんだね」
ありがとうと小さく聞こえたその言葉に、何だ礼も言えたのかなんて失礼ながら男に抱いた感想に思わず自分のことながら笑わずにはいられない。
昨夜の男と本当に同一人物なのかと先程までは思っていたがどうやら双子でも何でもなかったようだった。確かに昨夜であれば骸に施された幻術により普段の姿とは全然違った、寧ろ真反対とも言っていい容姿となりこの目の前の男と甘ったるい時間を過ごしていたのだ。
しかし今、本当の自分の姿で彼と行ったことと言えばそんな甘やかさなどどこにもなく、彼の武器であるトンファーを三叉槍にて弾き飛ばし、大の男を一人で抱え込み、治療するという有様。本来の自分らしいと言えば夜らしいのだがこの違和感と可笑しさは当の本人以外に誰も分かるまい。
「!」
男がすっと手を伸ばしてきたことに夜はほんの少し身構える。この男は見た目よりも随分と凶暴であるということは連日の出来事で嫌というほど思い知った。
まだ何かやらかすつもりだろうか。また、何か言われるのだろうかと警戒するのも仕方のないことだろう。そんな夜の様子を感じ取ったのか男はその口元に酷薄とした笑みを浮かべ、強引にも夜の手をとり、見据え、告げる。
「君を迎えに来たんだ」
「…」
「君が夜だね?僕は君の力が欲しい。…城に、来てくれるかい」
その言葉に、目を見開かぬ者がいないはずがなかった。少なくとも、この場では。
城に行くということはもしかしなくとも自警団への入隊許可を意味している。
夜はその事をよく知っていた。年に1度ある試験ではない方法で入隊するとなれば自警団に所属している人間からの推薦という手もある。夜の父親も何人か推薦したこともあるし、その為にこの屋敷内に選んだ人間を連れてきて契約書にサインを書かせたこともある。
その後、連れて行かれるのは城なのだ。もちろん母体はこのナミモリを統べる王族である雲雀ではあるが、自警団の本部がある訳ではない。しかし何事にも順序というものがある。最初は王に、そして王妃に謁見し、誓うのだ。これから己の身体は、意志はすべてナミモリの為にあるのだと。その流れこそ知っていたが基本的には身内の推薦というものは禁じられている。
なので夜はその試験を受ける為に今まで一人頑張ってきたのだが、…つまりこの男は、夜を知っていて尚且つ自分を推薦する為に此処にきたというのだろうのか。どうやって自分の事を知ったのかは知らないが果たしてそれは元自警団長である男の娘だというからなのか、それとも城下町でよく悪党を懲らしめる女として少し名が通っていたのか。
そんな事ですら、どうでもいいと思えるほどに彼の言葉は魅力的だった。昨夜も、今日も彼と話している。しかし今までかけられたどの言葉よりもすんなりと耳に入ってきて、嗚呼どうか嘘ではありませんようにと、夢ではありませんようにと思わずにはいられない。
今となれば骸を捕まえる為にやってきたのか、夜を推薦するためにやって来たのかどちらに比重を置いていたのかはよく分かってはいない。しかし今、この彼が認めてくれているというのであればどうだっていいではないか。
「ここにサインを」
「ええ、もちろん」
男は懐から一枚の羊皮紙を取り出し目の前のテーブルにそれを広げる。色々事細かに書いてはいるが自分が書くべきは己の名前のみだ。羽ペンをインクに浸し、心の準備をその間に行った。…大丈夫、やってきたこのチャンスを不意にしてたまるものか。
男の手が夜の震えた手を包み込み「大丈夫?」と聞いてはくれたが夜はそのまま「ええ」と力強く答える。長年の夢がこんな形で叶うとは思ってもみなかったが、これも骸が持ってきた幸運というのであれば今日は何と素敵な日だろう。
「…君を、待ってた」
男は骸と戦闘していた時の好戦的な顔をすっかりと潜め、とても温和な表情を浮かべていた。元々はこういう雰囲気なのかもしれない。昨夜やさっきの出来事は仕事モードであったに違いない。少し怖い上司だとも思ったが流石は自警団の人間、立ち居振る舞いも立派なものだ。
ところで男の名前は何と言うのだろうか。
否、これが終われば隊長と呼ぶことになるから不要なのか。まだ年齢も近そうだし、初めての先輩に当たる人間になるのだろうか。取り敢えずこれが終われば自己紹介から始まるのだろう。少しだけ彼の事を先に知っている分、アンフェアではあると思ったが彼に一生話せる事項ではなく夜は曖昧に頷くだけに留めておいた。
「すぐに迎えに行くよ、菫色のキミをね」
昨夜の記憶が薄れている訳でも、消えてしまった訳でもない。ある意味その通り、迎えに来てもらったのではあったが彼の中では別人なのだ。…それをほんの少しだけ寂しいと思ったのだけど、今だけの感情に違いない。
だって、明日からはきっと今までにない意義のある生活が待っているのだから。
「夜!あの玄関先の血は何なの!?」
バン!と大きな音がして扉が開いたのはその時だった。
サインをし終えたその直後の事だったのでインクを羊皮紙にぶちまけるようなことはしなかったがそれでも驚いたことには変わるまい。
そこには疲弊し、げっそりとした家族3人の姿があった。恐らく骸の幻覚で帰れなかったのだろうが先程晴れたお陰でそれがどうにかなったのだろう。
そうだ、彼女たちにも報告をしなければならない。
ちらりと視線を羊皮紙に向け、城行きが本日付けであることを確認する。つまり彼女達との生活も突然だが今日で最後なのだ。
自警団に入るということは、即ち身分も少しだけ変わってくることとなる。決して王族という訳ではないが貴族とあっても少し離れた場所、特殊な位置付けになる。
今このサインをしたのと同時に、自分は貴族の身分というところから少し浮いた状態になっているのだ。もう今の自分に命令を下せるのは自警団の上司か、王族だけということになるのである。
「お義母さま聞いてください。私、自警団に「雲雀様!なぜ雲雀様がこちらに!?」……え?」
戸惑い、夜が言葉を失っているその一瞬で、屋敷内の雰囲気がガラリと変わる。
鬼の形相だった義母が何も前触れなく声色を変えるのをこの目で見ることがあろうとは。姉妹たちもそうだ、いきなり乱れた髪を手で撫で付けながら黄色い声で「ようこそいらっしゃいませ」なんて言われる日がくるなんて言う日が来ようとは。
…否、その相手は夜ではなかった。
では、誰が?そんな愚問は誰にもぶつけられることはない。だって自分以外に元々この屋敷にいた人間なんて一人しかいないではないか。
「さあ永久就職の契約をしようか」
「……え、え、あの、…貴方、は」
「君を迎えに行くって僕は昨夜言ったつもりだけど」
覚えてないかい?そう口元を歪めた男は昨夜の夜を見つめる表情そのもの。
まさかという疑問は何てことだという後悔に。そして時すでに遅し、男の手にしっかりと渡っていた用紙は入隊用紙などではなく夜の身寄りを自警団、ひいては母体である王族が引き受けるという契約書であることに今更ながら気付く。
「魔法にかかる前の方がやっぱり好きだな」
「!」
夜に施されていたのはそれだけではない。
いつの間にやら男は床に膝をつき、すいと慣れた手つきで取り出した、骸によって作られたガラスの靴。足にぴったりと嵌められたものの、突然己の身に起こった全ての事象を未だ整理つけることが出来ず目をぱちくりさせたままの夜に対し目の前の男は楽しげに「見つけたよ」と目を細め言ったのであった。
昔々あるところに何事にもまっすぐで気高い、自警団志望の貴族の娘がおりました
どんな不遇にも耐え抜く彼女のことをずっと裏で支え続けた王子様、片や気紛れ最凶幻術使い
奇異な縁に見舞われ再会を果たす王子様は彼女に手を伸ばしこう言います
”ねえ僕と踊ってよ”
どんな姿でも君を見つけてみせよう
三度の出会い、言葉通りに彼女を見つけた王子様は娘を連れ帰り幸せに暮らしましたとさ
めでたしめでたし
「あの、雲雀…さま」
「何だい?」
「…私、自警団に入れてもらえる…んですよね?それにしてはこれ、大層過ぎる出迎えな気がするんですが」
「………城に入ることと自警団に入ることなんて、ほとんど一緒だよ」
「全然意味合いが違います! っ…あとさっきから近いんです、が!」
キミとラブソングを
end.