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 よく眠った一夜だった。
 流石に緊張し続けていたということもあったし、それ以上に城からここまで走ってきたということと骸の幻覚とは知らず不眠不休で戦った疲労が溜まったということもある。
 それにしても最近は自分ひとりでの修行しかしなかったもので、久々にいい運動にはなったのだがあれだけ慌ただしいのは勘弁してもらいたいものだ。
 いつもの屋根裏部屋でうーんと大きく伸びをしてからすっかり疲労が消え去った事を知る。が、その後はてと大事に気付く。

 昨夜あれから何もすることなく眠ったことで一切家事をしていないことを。

 もうこれは長年の生活の所為で身に沁みたものだと言っていい。こんな事今までなかったというのにこれでは怒られてしまうではないか。別に怖いという訳ではなかったが今この働き先も碌にないこの現状で屋敷から追い出されてしまうことは非常にまずいと夜の頭はそれでいっぱいになる。どうしよう。まずい。可及的速やかに謝罪し、許しを請わなければ。
 もはやそれは召使根性と言っても何ら差し支えはなかった。顔を青ざめさせながら一気に覚醒し、階下へと降りる。


「おはようござ……あれ」

 しかしそこには誰の姿も無く、夜の声ががらんどうとした部屋に響くだけであった。彼女達も眠っているのだろうかと思うぐらいに屋敷内はシンと静まり返っている。姉妹たちはともかく継母であればこの時間帯にはいつも起きているのに。
 否、何時だろうと彼女達が起きれば準備をしろと屋根裏に設置されてあるボタンの連打で夜の事を起こすのが常だったのだがそれすらなかった。

 …昨夜のパーティで疲れていたのかもしれない。
 そう安易に考え自分の悪運に大きくガッツポーズをしながらさっさと用事を片付けていくのだがその最中にも降りてくる気配はない。少しずつ積もっていくこの不安は一体何なのか。恐る恐る彼女達の部屋を様子見に走ったが部屋にまだ帰った気配もなかった。これは可笑しい。昨夜、あの後城で何かあったのだろうか。それとも、…何か別のことが?


「靴を身につけておけばあれらは襲わないようにしていたのですが」

「…まさか」

 ハッと思い当たったのは骸の言葉だ。もしかしなくとも彼女達にそのような靴を持っているはずがない。あれは城で脱ぎ捨ててきたのだ。それに加え骸にも会ったのだし今頃幻術を解き、この世にはもう既にない可能性だってある。
 彼女達はただの一般人だ。
 この屋敷内では夜に強く当たるものの武力というものはそもそも持っていない。そんな彼女達がもしも昨夜のあれらに襲われていたとしたら。何度も何度も入口に引き戻されているとすれば。

 迷ったのは一瞬だけだった。
 血の繋がりもない、ただ自分を痛めつけるばかりの名ばかりの家族にと思わないわけでもない。しかしそれだけではないのだ。彼女達もまた、夜の父親がそうしてきたように守るべきナミモリの人間なのだから。
 骸がまだこの辺りにいるのであれば彼を呼んで今すぐ実状を聞かなければならない。迎えに行かなければならない。その前に屋敷前に霧があるのかも確認しておかなければ。バンっと大きく扉を開け放つ。そして、


「骸さん!」

 辺りはやはりと言うべきか霧に覆われていた。
 夜が眠ってしまったあの時の比ではない。目先数メートルの時点で何とも視界不良になってはいたがそこで彼の姿を発見した。ただし、何だか様子がおかしかったのだが。

 …夜ですか、と弱々しく壁に寄りかかるようにして項垂れ、怪我で血塗れになった骸の様子はそれはそれは酷いものであった。持っていた武器は半壊しており、黒ずくめの服もところどころ切り刻まれ、肌が露出している。ただ転んだだけならば絶対に出来ない傷。絶対に負うことのない打撲痕。
 明らかにただごとではない。一体何故こんなことに。一体、誰がこんな酷いことを。


「!」

 思わず近付くと、更にその奥、誰かがゆらりと近付いてくるのを確認した。
 霧は恐らく骸が作り出したものなのだろうがこの濃さはもしかしなくともその相手から逃げてくる為だったのかもしれない。影の大きさと言い昨夜夜が倒してきた、骸が作り出した幻覚の動物とは違う。彼らは創造主である骸を襲う訳もない。
 ならばそこに居るのは恐らく人間だろう。彼にここまでの怪我を負わせたのはその人物であるに違いない。


「クフフ、アレは大層危険ですよ」
「……お借りします」

 霧の奥から銀の閃き。何かが投げられたのだと判断したと同時に夜は骸の前まで走り彼の持っていた三叉槍を手ごと掴み遠くへ弾き飛ばした。

 ギィンという鈍い金属音がその場に響く。

 この濃い霧の中、何が飛んできたのか分からないがなかなか質量のあるものが思いきりやってきたのだ。間違いない、今のがもしも彼を直撃すればただごとでは済まない。…彼を殺すつもりなのだ。そんな事をこの敷地内でさせてたまるものか。

 そう瞬時に感じ取り骸の腕を掴むと、そのまま屋敷内へと骸を押しやった。
 驚いたような表情は確かに見ものではあったがそれを告げる時間はない。後ろ足で蹴りつけ鍵をかけるとそのまま自分の身体で扉を押さえつける。お行儀が悪いとは分かってはいるが今は非常事態だ、仕方あるまい。


「っ、待ちなさい夜!」
「怪我人を戦わせるわけにはいきません」

 珍しくも慌てた骸の声であったがはいどうぞとここを開けるつもりも譲るつもりもない。夜を突き動かしているのは少しの恐怖と、戸惑いと、それからメラメラと燃え続ける正義感であった。

 そもそも相手がどんな凶悪な人間なのか、骸とどういう関係なのかすら夜は知らないが夜が、夜の家族が呼んでいない限り、知り合いでない限りは不法侵入である。”巷で有名な趣味の悪い術士の骸”が本当はどういった人間なのかも夜は知らない。守るべきナミモリの人間とも分かってはいないが怪我人であることには違いないし、何よりも昨夜、夜に楽しいひと時をくれた紛れもなく恩人でもあった。そんな彼をこれ以上傷付けさせてたまるものか。
 とはいえこちらは素手であり、相手は何やら凶悪そうな武器を持っているのがわかっている現状圧倒的に不利ではあったのだが。だけど負ける訳にはいかない。特に…この土地で、父親に情けない姿なんて見せてたまるものか。自分は姫や、ただの一般人ではない。守るために、今まで訓練を受けてきた。守るために、強くなってきたのだから。


「……君、」

 その姿を捉えたのはゆらりと夜の目の前に来てからだった。
 ギリギリと痛いほどの殺意は、しかし自分の姿を確認した後若干和らいでいく。

 夜は現れた人物の事を知っていた。…否、知っていたどころではない。その黒髪も、その…トンファーも夜は覚えていた。半日程度前の事をそんな簡単に忘れるほど記憶力がない訳ではない。
 しかし昨夜誘われ踊った相手が何故、ここに居るというのか。何故ここに来たのだ。思わず口をついて疑問を投げかけそうになったが今の姿はいつもの夜だ。彼曰くの”菫のキミ”と同一人物であると分かるはずがない。黙っていればこちらのことなんてただのボロボロの服を着た召使に見えるに違いないのだ。


「ふぅん、僕のトンファーを打ち飛ばしたのは君かな」

 あの男はもうそんなに力も無かっただろうし、と楽しげに呟く男は昨夜と同様、黒いスーツを着ていた。相変わらず上等なものである。少し違ったのはその衣服もまた骸のようにボロボロになっており彼も同様に血に濡れていたことか。最も彼は骸のような打撲ではなく切り傷を負っている分出血量は骸よりも多いだろうけれど。

 そしてその手には1本のトンファーがあった。
 投げかけられた疑問からして、…恐らく、夜が先程違う方向へ飛ばしたのはもう一対だったのだろう。本当に危ないところだった。自分の判断は間違いではなかったのだ。
 そう安心すると同時に彼にとって自分は、”菫色のキミ”ではない自分は敵だと判断されているだろうと理解する。向けられた視線の強さがその証拠である。
 無言のまま頷きそれを肯定すると「ワオ」と男は目を細め鈍色に輝くトンファーを構えたまま夜を見下ろしたのであった。

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