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母親の指輪を見て半狂乱に陥ったユウの動きは最早洗練されたものではなくなっていた。術士である骸でさえ翻弄され続けていたはずの彼女の攻撃は弱った今でも避けることは容易く。
それでもユウの振るうナイフは間違いなく骸を傷つけようと動いた。
不思議と死ぬことに恐怖はない。彼女に殺されるなら本望などと思うことはないが、悔いもない。だが今のこの状況で、死ぬ気は更々無い。
大きくナイフを振りかぶったその隙をついて彼女の手首を掴んだ。濁った瞳が骸を強く睨みつける。ユウを突き動かしているのはただ、怒りのみ。
「クフフ。その姿、君の大好きなスケープゴートに見せてさしあげたいぐらい美しいですね」
「っ!」
明らかに動揺するユウの姿にやはり先ほどのコンラードの言うなりになっていた側だという意識はもうないのだと気付いたがユウに対し新たにかけられたマインドコントロールから解放するための、彼女の求める言葉なんてものを骸は知らない。
結局自分は人を救うことなど出来るはずはなく、こうしてユウのトラウマを呼び起こし自滅させる方法しか浮かばなかったのだ。
三叉槍を手放すと今度はユウの身体を壁に押し付けた。カランと音を鳴らしユウの手からナイフが落ちるもそれが霧散することはない。強固な、良い術だ。敵であってもそう評価しながら、ぎりりと痛みに顔を歪めるユウを静かに見返す。
彼女はまるで手負いの獣だ。傷つき尚も他者を排除すべく牙を剥く、獣。初めて見たあの幼い彼女と、少しだけ似ている気がする。
――いつからと聞かれれば、恐らく5年前からだと答えるだろう。殺してやる、といわれたあの日から自分はこの瞳に囚われている。それがおおよそ、歪んでいたとしてもだ。
「君を守れなければ刃を突き立てなさいと、…覚えていますか?」
力強く彼女の手を押し付けながらも、だが静かに語りかけたその言葉にぴくりとユウの眉が動いた。未だ言葉は発せられない。
落としたナイフを拾い上げて、ユウの手に握らせる。その上から自分の手で彼女の小さな手を包み込み、刃先は己の心臓の上へ。
意図がつかめないのだろう、彼女はぼんやりと骸を見上げた。優位に立っていたはずの彼は何をしようとしているのかと。罠なのだろうかと訝しげの視線が心地良い。
「おやおや、君がしたかったことですよ」
これまでユウの事を強い人間だと思っていたが、そうではなかった。先程こそ確かに彼女はコンラードによるマインドコントロールを自力で脱したが、その件ではなくここに至るまでの長い5年の話のことだ。
幼かったあの時の彼女は、頭はよかったがそれだけのことで別段強くはなかった。どこにでもいる弱い存在であったのに強くならざるを得なかった。
その環境でしか、生きることを許されなかったのだと。
改めて思う。ユウは自分の為した過去の、被害者だ。
5年前、自分が手を下さずともコンラードがユウをいずれ殺人人形に仕立てあげたとしても、少なくともそれまでは幸せに生きてきたのだ。恨まれる理由は、ある。分かっている。だからこそ、この手段を用いたのだから。
「…どうすべきか、分かりますね?」
そのナイフはユウの作り出した、幻覚。
彼女の想いが、憎しみがここまで精巧に作らせている。その尖ったものが全て、全て自分に向けられればと。
このまま力を込めて一突き。ユウが果たして人を殺したことがあるのかどうかは分からないが、ここまで用意もすればユウでなくても分かるだろう。
骸が生命を委ねたことに。
「君を守りたかった、だなんて。信じてはくれないでしょうね」
「…ぅ」
揺れる赤色の瞳は何かと葛藤していた。
それだけで良いとは思える程に、不思議と満足感を得ていた。この言葉が彼女に、少しでも届いたのであれば。
気が付けば彼女の目尻には涙が浮かんでいた。苦しさだろうか。辛さだろうか。それとも苦悶を浮かべたその表情とは裏腹に内心では憎い相手を殺すことができる喜びからだろうか。いずれにしても骸には想像もつかない。
透明な雫を舐め取るようにして口付けると、骸は躊躇いもなく自分の方へ引き寄せる。
その刃先が示すの先は己の心臓だ、位置は間違えようがなかった。