袖のみぞ知る

目を開く。
白い天井、変わらぬ風景。しかしながら起き上がった時に伴う頭痛が感じられる事はなかった。

「…んん、」

ベッドから降り立ちぐぐっと腕を伸ばす。
それから監視カメラに不審な行動として映らぬよう細心の注意を払って換気をするかのよう装いながら窓を開いた。
吹きこぼれる爽やかな風。いやに新鮮さを感じられたがそれは凛自身が心を閉ざし思考を止めてしまった所為であることに本人は気がつくことはない。

外はカラリと晴れている。
青空に浮かぶ雲と同じ色をした彼、シロは一体誰だったのだろうか。自分にとっては何だったのだろうか。
彼の宣言通りもう会うことはないかもしれない。そうであるならようやく少しでも何かが分かるかもしれないチャンスだったのだがきっとあの雰囲気だ、恐らく引き止めて聞いても教えてくれなかったに違いない。しかし、それでもこんな少し晴れやかな気持ちになったのは随分久しぶりで、彼はそれを運びにやってきた天使だったのかもしれない。窓に挟まれ残されていた羽がふわりと外に飛んでいくのを目で追いながらそんな事を思っていた。
ふふ、と思わず笑みが零れる。そうすると次はどうしてだか視界が歪み涙が溢れて来てしまった。

「あ、あれ…」

袖で拭ってみせても後から後から流れ出るそれは止めることはない。
別に何かが悲しかったわけではない。寧ろどちらかというと嬉しかった、安堵したという気持ちの方が大きかったというのに。

「凛」

そうこうしている内にいつの間にか彼のやって来る時間になっていたらしい。
定位置であるソファに凛が居ないこと、そしてまだ部屋着である事に少しばかり目を見開いたXANXUSが一瞬息を飲んだのが少し離れたこの場所からでもわかった。最後に袖で一拭き。大丈夫だ、きっとバレやしない。

ズカズカとこちらへ歩み寄り凛の肩を掴むと片方の頬に手を置かれ上へと振り向かされる。赤い瞳は何かを探るように逸らすことなく凛を見続けた。まるで自身の内部を見透かそうとしているかのように。
昨夜の事が気付かれる訳にはいかない。
何故かそう思ったからこそ凛もその視線に負けじと強く見返した。絡まる視線は確かに両者共に熱がこもっていたが相互に同じ感情であるかと問われれば全くの別物であった。

「調子はどうだ」
「…毎日、頭が痛かったんですけど、今日は何もないです」
「そうか」

涙はどうやらこの肌触りのいい衣服がすべて吸い取ってくれたらしい。何故泣いたかなんて問われれば凛自身分かるものでは無かったので安心したところが大きい。
が、会話を続けながらもXANXUSは自分を離す様子が見えず、そうなると今度は当初に抱いていた不思議な気持ちが湧き上がり沸沸と顔が熱くなってくるのを感じた。
心臓が早鐘を打つ。
恥ずかしいという気持ちはとっくに失われたと思っていたのにどうしてまた今、この人に真っ向から見られるとまたそれが蘇ってきてしまうのだ。早く離して欲しいという逃げたい気持ちと、もっとこうしていたいという縋り付きたい気持ちが綯い交ぜになっている。これはどうにかしなければならない。きっと彼はしばらく動きやしないのだと判断する。が、

「……XANXUS、さん?」

彼の名前を無事に紡げただろうか。

XANXUS。それが彼の名前。
ここへ凛を連れ去った恐ろしい人なのに。
自分を日本から連れ去りここへ閉じ込めた張本人であるというのにどうして憎いと、恨めしい気持ちが自分の中で沸き上がらないのだろう。
彼と初めて話した時、彼を見た時のあの感情に直結するのであれば一刻も早く切り捨ててしまわなければならないと後々困るのは自分であるとわかっているのに。未来において自分は加害者なのかもしれないが今の段階では被害者でしかない。今なら彼を詰り自分の置かれた立場を嘆く権利だってあるというのに。

理解ってはいるのに、どうしてもそれを実践することができなかった。この感情は不要なものだと切り捨てるには何かまだ、足りないのだ。

「私は大丈夫ですよ」

いつも凛に対しかけられる言葉以外、それ以外の言葉を、会話をしたことは無かった。しかし自身を見ている彼の顔が、まるで凛を心配しているのだと思えたのも理由はなかったのだ。ただ理解した。把握したのだ。
XANXUSと常に話している訳でもなければ誰かの心の中を読み取れるような特技もない。彼のことをずっと見ていた訳でもない。しかしそうであると思ってしまえばそれ以外の理由は見つからなかった。だからこそその言葉。意図して、思考して出た言葉ではなかったし誰よりも自分が己の発言内容に対して驚いている訳で。

果たして、それは正解であった。
訝しげな表情、それは見当違いの事を口にした所為ではなく何故分かったのかと言いたげで。しかしその後、視界が真っ黒になり凛の思考は途絶えてしまった。


「!」

息が出来ぬほどの強い力で抱きしめられていることに気付いたのは少ししてからだ。
聞きたいことは山ほどあった。言いたいことは沢山あった。
どうして罪人だと言われた自分がこんな扱いを受けているのだ。そしてこの凛を包み込む腕はどうしてこうも、安心出来るのだ。まるで毎日凛を安眠に導くベッドのように。

「凛」一度だけ己を呼ぶ声。が、声を出せる余裕などない。
もしも返事が出来たとしても蚊の鳴くような声か、はたまた緊張で裏返った声が出てしまうに違いない。
どうして彼に名前を呼ばれただけでこうも胸が痛むのだろうか。
何か話さなければならないという義務感に駆られてしまうのは、彼に何か黙っておくのがこれだけ辛いと思ってしまうのはこの箱の中へ閉じ込められてからの日々がそうさせてしまったのか凛には分からなかった。

結局怖怖と腕を伸ばし彼の背にしがみつくぐらいが精一杯の対応で、けれどそれは振り払われることはなかった。トクン、トクンと響くのは自分のものなのか彼のものなのかは分からないが何故だかとても、泣きたくなるような気持ちが湧き上がった。

「…お前は、」

ようやく離されると新鮮な空気が入り込んでくる。仄かに香るのはアルコールだろうか。こんな朝から、あの部屋にあったウイスキーだのの酒瓶を呷っていたに違いない。
静寂。話すことのない彼は一体何を考えているのだろう。怒っているのか、それとも凛がシロの事を話さなかった事に気付いていたのか…彼の反応を見ようと顔をあげる。

「ざ、…」

言葉は喪われ、赤い瞳と目があった。
それは先程の己を探ろうとするものではない。
ただその視線は、どうしてもこそばゆく、それでいて何処かで感じたようなそんな気すらした。
どこで見たというのだ。
XANXUSのような男であれば例え随分昔に会っていたとしてもきっと忘れられることはないというのに。

「…その顔のお前はよく嘘をつく」

ほんの少しだけ、眉間の皺が減る。口元は少しだけ釣り上げられ空気が和らいだ。ただそれだけだ。けれど凛は初めて彼の困った顔を見たと思った。その申し訳なさに、それからその言葉の内容は流石に凛も理解が出来ず小首を傾げると「飯だ」と髪を乱雑に、大きな手で撫でられた。

すぐに背中を向けられた事でそれ以上彼の顔を見ることは叶わなかったがきっと凛は忘れることは出来ないだろう。昨夜から突然、大きな変化だ。それがどうしてこれほどまでに、嬉しく、それでいて苦しいのか。

――もっとも、他の人間から言わせれば普段と変わりのない顔であるのだけれど。

  

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