羊は帰らない

ぽっかりと空いていたところに温かで確かなものが入っていく。
はらりはらりと零れ続けていた涙はいつのまにか止まっていたが、気を抜けば今度は違う意味で泣いてしまいそうだったけれどそれはそれでXANXUSを困らせることになるのは分かってはいたのでグッと堪える。

沢山の感情が綯い交ぜとなっていた。
彼らと随分時間差が出来てしまったが未来の記憶は確かに思い出した。それに対してはただ純粋に嬉しかったことだし死ぬ間際の後悔を口にしたことで、そしてそれを当人であるXANXUSに伝える事である意味わだかまっていたものは解消できたと言えよう。
だけど、…この次は?
凛とXANXUSはただの他人ではなく恋人という関係であったが、それは未来においてであり今はそうではない。現代になればまだよく知らぬ他人のままであるに違いないし、凛の事をイタリアまで呼びつけたのも本当は自分が勝手に死んでいったことを責める為だけだったのかもしれない。穏やかな瞳のその底には恨みが、怒りが潜んでいるのかもしれないのだ。

何故未来の記憶…というものがあるのかというのは聞かされなかった。
何故そんな不思議な事が自分の身に起きているのかと答えはくれなかった。
それを口にして聞かなかったのは、恐らくは自分以外の、死んでいなかった人間達なら分かっていたことだろうが聞いたところできっと凛には理解の出来ない事だろうと判断したからであるし、昨日スクアーロが言った通り今日は帰国の日である。全ての権限を持つXANXUSの前で彼の告げた事だ、撤回も無いだろう。

『俺達の事は忘れた方がいいんだって。フツーの生活するには、さ』

ベルの言う通りだ。
彼らの存在は凛の今まで送っていた普通の生活には程遠い。
けれど今思い出すぐらいなら忘れたままでよかった、なんてことは思うことはなかった。XANXUSが決めた事なのであればそれに全員が従う。彼の所属している組織ではそうなっているし、今は他人である凛だってそれに倣うだろう。
宣告の時は未だか。
どういう結果であっても、後悔はない。苦しい記憶ではあったがそれ以上に幸せな事ばかりだったのだから。とはいってもあの記憶はもう二度と凛の未来の選択肢の一つには成り得ないのだろうが。

「行くか」

膝の上から降ろされ、自分の足で立ち上がる。
水を吸った服はまた新しく白い服へと着替えさせられていたが間もなく帰国の際にはイタリアへと連れ去られる前の服に着替えることになるだろう。
そうだ、これで終わりなのだ。何もかも残さずに去る。新たに埋まった記憶を持って帰り、だけどまた平凡な大学生活に戻っていく。まだ何も進路も決まっていない真っ白な未来に頭を抱えながら友人に囲まれ、前へと進むあの生活へ。決まっていたことだ。変わりのないことだ。戻るだけなのだから。

だから、せめて、最後ぐらいは堂々としようと思えたのは未来の自分の所為だ。
自分であって、自分でない彼女。
愛する人の為に生命を張り、恐怖をおくびにも出さず飛び降りた未来の佐伯凛。それは確かに凛自身ではあったが記憶でしかない以上は殆ど他人に近い。そんな彼女を愛していたXANXUSに、最後ぐらいは情けない姿を見せまいと背筋を正す。せめて彼の中の最後の佐伯凛は確かに未来の凛に直結していたのだと思ってもらえるように。

「私は、…もう大丈夫です」

いつかの自身が彼に述べた言葉を口に乗せ、彼の姿を目に焼き付ける。
もう、忘れることのないように。

それに対しXANXUSは何も言わずにこちらへと手を差し伸ばす。
これから皆の待っている場所へと連れていかれるのだろう。分かっている。覚悟は今己の発言と共に、出来た。
触れたいと思っていた手が目の前にある。導く手。優しい手。…もう二度と、触れることのない手。そんな彼の手を取ろうと同じように伸ばすと手首を握られる。凛の手はXANXUSの大きな手にすっぽりと包み込まれ、けれどそこから動くことはなかった。
何があったのか。自分は最後に何か気に触る事をしてしまったのだろうか。おずおずと顔をあげると赤い瞳は変わらず凛の事を見据えていた。以前も見たことのある、少しだけ困った表情だった。

「その顔のお前はよく嘘をつくと言っただろうが」
「…XANXUS、さん?」

手のひらを上に向けさせられ、開かされる。そこへ無造作に置かれたものは凛の記憶の中にあったものだ。
薔薇の髪飾り。それには羽があしらわれていて、見た目よりも随分と質量のあるものだった。色彩は紅。彼の瞳の色である。

息を呑む。
不思議と今まで彼の事を怖いと思ったことはなかった。これからもきっとそうだろう。未来の凛が抱いていたのと同じ理由だ。
しかしどうして此処へ来てからずっと、凛に対してこんな態度であったかは今となって漸く理解が出来た。ずっと、護られてきたのだと。ずっと、想われていたのだと。それが理解らない程、凛は無知な子供ではない。これは離別の相手に贈るようなものではないことなんて、理解らない筈がない。
また止まっていた涙がこみ上げてきたがこれはXANXUSの所為で、どうしようもなかった。だけどどうしても、声に出して聞かずにはいられない。自惚れを肯定してほしい。彼の、言葉で聞きたい。

「……側に、居ていいんですか」

溢れ出る涙を拭うことなく凛はXANXUSを見上げ、問う。これはそういう意味のものでいいのかと。期待して良いのかと。
何言ってやがる。今度は彼が訝しげな表情を浮かべる番だった。

「離れるつもりか」

異論は認めねえ。
そう言ってふいっと視線を外されてしまったが手は未だ尚離れることはなかった。
ああ埋もれていく。満たされていく。記憶が。――…感情が。否、まだそれは凛の中で満たされることはなく、もっともっとと心が欲していたがそれはこれから時間をかけて埋まっていくだろう。慣れた手つきで凛の手から先ほどの髪飾りを頭へとつけられる。振り返り鏡で見るとやはりこれは未来の自分がつけているもので違いはなかった。凛が確認したのを見るとすぐにXANXUSは手を引っ張り外へと促す。ついていく。これからどうなるのだろう、なんて思ったけれどきっと彼とはここで終わりではない。そう素直に思えれば足取りは決して重くはなかった。だって、凛は一人ではないのだから。

いつものドアの前へと立つ。
毎日外へ出る為に開かれる扉。昨日初めて自分の意志で開いたそれは随分と小さく見えた。開き、潜ればきっとすぐ近くにスクアーロもベルもいることだろう。
何から話せば良いのだろう。恐らく怒られるだろう。
だけどそれも、きっと幸せな事の一つで有るに違いない。扉に手をかけない凛の事を不思議に思ったのかXANXUSが動きを止め、顔を僅かに覗き込んできた。

「怖いのか?」

怖くはない、と言えばそれは嘘になる。だけどそれは凛の生命に関することではない。この離れた地に連れ出され閉じ込められ続けた事も、彼と離別するほどに比べれば何の苦でもないだろう。
もう、怖くはない。大丈夫。
凛はにっこりと笑みを浮かべ、XANXUSの手を強く握りしめた。

「大丈夫です、XANXUSさんが傍に居てくれるから」
「…言うじゃねえか」

大丈夫、もうこの手は離さない。
赤い瞳が細まると同時に堅く握り返され、恐れることなく扉へと手を伸ばす。


――…ガチャリ。

開いたその先、白い光。輝き。見知った顔が浮かべた驚きの表情。さて彼らにどう説明しよう。笑みを浮かべながら隣を歩む男と共にその外側へ。
決して遅くはない。ここから踏み出せばいいだけなのだ。

この箱から出て貴方と、未来へ続く新しい1歩を。


ユ メ バ コ
end.


  

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