透明の終点

ああそうか。
そうだったのか。

ゴボゴボと身体の中に水が入ってくる。重い。寒い。痛い。やがて鈍くなっていく感覚。冷たい水は肌を刺し、凛の意識がどんよりと淀んでいくその中でようやく全ての物事が繋がった。
死ぬ間際に楽しかった出来事が走馬灯のように浮かんで消える、などと言われていたがこれがまさにそうなのか。凛の手にある箱がキッカケとなっていたのか今となってはよくわからなかったがあやふやで曖昧であった空白の記憶が、欠けていたパズルのピースが嵌まっていく。

凛は未来においてXANXUSと出会っていた。ベルだって、それからスクアーロだってそうだ。彼らと自分はただの知り合いではなかった。ここには来なかったがルッスーリアもレヴィも知っていた。
どれもこれも10年後の話だ。
当然ながら新たに埋まった記憶と凛が最近出会った彼らでは幾分か幼い容姿ではあったがそれはシロの件と同様だろう。
今まで見ていた夢は、ただの夢ではなかったのだ。あれこそが皆が持っていたものと同じ、未来の記憶。ただ彼らと違ったのはただ一つ、凛の記憶の最後が死であったことだ。
シロから爆発物を持たされ、それからXANXUSを、皆を守るために高層ビルから飛び降りたという強烈な死の記憶、それはこの時代のシロと話したことで少しずつ夢として溶け凛の中に埋まっていき、

『止まっちゃだめ!』

そしてキーは白色の箱。
未来においてXANXUSと会うその当日にシロが笑いながら凛へと渡した、全てを壊すための箱。ベルの手にあったそれを奪い取り、走った時に内側から聞こえた己の声は未来の自分が同じ状況に陥った時に言い聞かせた言葉であった。
ひとつのピースが埋まれば他のものも次々と嵌め込まれていく。ああ、だけどもう――…


「…」

目を開く。
すっかりと見慣れた白い天井が視界に入ったかと思うと迫り上がるものがありゴホッと口から水が飛び出した。吐き出した気持ち悪さはあるがその水を出してしまえば随分と楽になったような気がして、しかしこの苦しさこそ、生きているのだと実感する。
さっきまで箱を握ったまま湖に身を投げたところまでは記憶にしっかりとあるのだというのに何故ここに、また居るのだというのだ。

「起きたか」

その声は思ったよりも近くから降ってくる。
気が付けば凛はいつものベッドに寝ており、そしてXANXUSが近くの椅子に座りこちらを見ていた。しかし、その手には例の白い箱が握られている。

「っ!」

最早それは反射に近い。
凛の中でその白い箱は皆から幸せを奪うモノとして認識されている所為でもあるのだから。

起き上がりそれを彼の手から引き離そうと手を伸ばしそれを奪い取ろうと試みるが不意をついた動きとは言えXANXUSにそれは効くことはなく、逆にその手を握られてしまった。何も掴めなかった右手は空を切るだけで、バランスを崩し上半身がベッドから落ちかけたところをそのまま抱きとめられる。
慌てて離れようにも彼の腕は凛を離そうとしなかった。男性らしい鍛え上げられた身体は記憶にあり、どうあがいても逃げ出すことは出来ないだろうと半ば諦め彼の胸に頭を預ける形になる。
「フェイクだ」程なくしてその箱が偽物であると伝えられた。それは、凛がどうしてここまでして焦っているか知っていたからだろうか。そうだ、そうに違いない。だって彼は、

『……凛、お前は、』

…彼は自分の死因を知っているのだから。一番間近で、喪われていく生命を見ていたのだから。
最後の記憶。
それは喧騒の中、冷たい地面に横たわる自分の半身を誰かが抱き起こしているものだった。あれは、あの声が、その時に聞こえた鼓動がXANXUSのものであったと思い出すのは随分と時間がかかってしまったが記憶にあるものと同様ドクン、ドクンと力強い音が聞こえてくるとようやく凛は強張った身体から力を抜いた。
生きている。…彼は、生きている。

「…XANXUSさん、ごめんなさい、私…」

そして凛も。
それがどれだけ嬉しい事なのかと噛み締めた。
死にたいと思ったことはない。その言葉に嘘偽りは無かったが、あの時も、それからさっきも。彼が死んでしまうのであれば、皆が傷ついてしまうのであれば…自分がそれをどうにか出来る力を持っているのであれば救いたかったと思えたその気持ちもまた、凛の本心であった。
だけど、だけどだけど。
XANXUSにしがみついた凛の手は震えている。ごめんなさいと何度上擦った声で、泣きじゃくりながら伝えただろう。ボロボロと涙が出てくるが前に彼へ伝えた時とはまた違った感情を有している。

「…っ私、あなたが生きていて、良かったと思ったのに」

生きたかったのだと。
夢の中で高層ビルから落ち行く時、XANXUSに伝えたかった謝罪の言葉。何かを断るための言葉ではない。ではどうしてこの言葉がと、あの時は思っていたがさっき建物から落ちていく間際にようやく理解した。

XANXUSと共に生きたかったのだ。
XANXUSと隣に居たかったのだ。
なのに手を離したのは自分。それが例え彼を守ろうと思った行為であったとしても、彼の気持ちを裏切ったことに違いはない。
凛の肩を掴む手が一層、強くなる。ハッと顔をあげるとその目はやや見開いたまま凛を見つめていた。まさか、と彼の唇が動いたのが不思議と読み取れ何度も何度も頷く。視界が涙で滲み、歪んでいた。それでもXANXUSの顔を、輪郭をなぞるようにして触れると強く引っ張られ凛の身体はXANXUSの膝の上で横抱きにされる。

「ごめ、…なさい…っ」

伸ばされた手を掴むことなく、目の前で死んで。
自分の死んだ事以降のことは当然記憶にはなかったがこれは確かに罪人だ。死んでしまえばもう何も償うことなど出来やしないではないか。XANXUSを苦しめたに違いない。少なからず傷付けたに違いない。だって、自分と彼はただの他人という関係では無かったのだから。
「凛」静かに呼ぶ声。それに反応せねばと思うのに彼の胸に額を押し付け見上げることは出来なかった。怒っているかもしれない。罪人であるとわざわざ記憶のなかった自分を連れて来たぐらいだ、何か言いたかった事もあったに違いない。
それが恨み言であろうと何であろうと聞く義務が凛にはあったと理解ってはいたが、まだその覚悟は無かった。
紡ぐのはただただ謝罪の言葉。そんなもので軽減も出来ない事だって当然今の凛なら分かってはいたけれど。

「!」

ゆっくりと、しかし確実な力で引き剥がされる。
強制的に上を向かされる事になりやがてその大きな手が凛の頬を包み込んだ。
気が付けば唇が、触れている。
音もなく重なり離れ、何があったかとようやく把握した頃には驚きに思わず涙が止まってしまっていた。ボロリ、と涙の膜が揺れ落ちる。

XANXUSは驚くほど、穏やかな瞳をしていた。
頬に触れている手のその、優しさ。眉間の皺は相変わらずではあったものの此処へ連れてこられてから見たことのない表情で、けれど未来の記憶での凛を見るそれに近かった。
見られているだけで何故こうも胸が張り裂けそうな感情でいっぱいになるのだろう。答えはもう最初からあった。未来で彼を愛していたからだけではない。今の凛だって、それに負けないものをもっている。
しかし、今の状況はよく理解しているつもりだった。切り捨てるのであれば一刻も早く切り捨ててほしい。何故自分を見る彼の瞳は優しいのか、考え、自惚れてしまう前に。

「お前はまた、…俺の前から消えるつもりだったのか」

呼吸が、時間が止まったかのような衝撃が走った。
未来の記憶に苛まれ泣き出した自分に対し大丈夫だと繰り返された彼の言葉を、お前は死なないと言われたその言葉の重みを今漸く知る。
もう、我慢など出来るはずもない。全ては凛を想っての行動だと理解っていればそれは当然のことだった。己から手を伸ばし、その広い背中に手を伸ばせばそれは拒絶されることもなく強く強く抱き締め返される。

そこに言葉はもう、必要なかったのだ。

  

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -