「この前はごめんなさい」
「……」

 別に彼女のことを諦めただとかそういうつもりは一切なかった。雲雀とて魔族であるが人間と同じく心はある。あの時は逃げ帰るようにして去ってしまったのだが急ぎすぎたという結論にたどり着きしばらく時間を置こうと決めたというのに何故、彼女から近付き話しかけてきたのか到底理解が出来なかったのは当然と言えよう。この時の雲雀の表情たるや彼の配下であればそんな顔をすることも出来たのかと瞠目するほどに、無防備で年相応であった。

 先だっての花屋、そして彼女の居住区への訪問の際に彼女から屋内へと招き入れさせることに関しては成功した。鍵は開かれた。扉は開かれた。内側にいる人間から招かれたこととなり雲雀はそこに入ることが可能となった。彼女の家であるにも関わらず彼女の逃げ場はもはや其処にはない。
 しかしその次に立ちはだかる壁、つまり骸によって張り巡らされていたであろう対吸血鬼の結界は彼女の住まう部屋というやや狭い範囲ではあったのだが憎たらしいことに強固であった。本気を出さなければ破ることはできないだろう。そうするのであればすぐに結界を張った主である骸もわかるだろうし、結界を破壊するだけでは飽き足らず建物自体を損壊させてしまうだろう。何より彼女の前で魔族である自分を見せることとなる。ともあれあの夜には既に吸血鬼であるということは彼女に知られてしまったので今更というところもあるのだが。如何に怪物づかいと言えど本気の力を出した雲雀に敵うはずもないし、仮にそれほどの力があったとしても所詮は結界、置き土産。力を込めるだけの吸血鬼避け結界程度で雲雀を本気で止められることはないのだ。

 ――否、結界がどうとかそういう話ではない。

 そもそも雲雀の言動の根底にあるのは単純な欲求が占めていたからである。彼女の血液を啜りたい。たったそれだけなのだ。血の味を知るためだけならば幾らでも強引に為すことは可能なのだがここで一つの問題が起こる。雲雀を彼女を、宵を怖がらせるつもりもまた、ないのだ。人間が吸血鬼という魔族を怯えるのは当然であると分かっている。己と違う種族が、己を簡単に殺すことのできる力を持っているのであれば弱者なら当然怯えもしよう。感情によって血の味が変化するという意味で恐れているのではない。縮こまらせてしまえば確かに血は苦く、不味く感じられるかもしれないがそれを懸念しているのではない。あの瞳を濁らせたくはなかったのだ。穏やかな微笑みを浮かべる彼女を裏切るようなことはしたくないと思えたのである。

「君はもう少し怯えた方が良いんじゃない」
「そういうもの、なのですか?」
「うん」

 だというのにどうしてこう気にしているのが自分側だけなのだと問い詰めたくなるほどに彼女は相変わらず気さくに声をかけてくる。まるで何も知らなかった始めの日のようだった。
 今日だって本当は会うつもりはなかった。というよりは欲望のままに動いた結果無様に散り逝った魔族を知っているが故に少し自分も落ち着いた方が良いのだと決め込んだ矢先、日傘を差した彼女は日中ナミモリを見回り中の雲雀を見つけ「こんにちは!」と駆け寄ってきたのである。一方的すぎる。少し疲れていたのかまさか姿を隠す暇さえなく気が付けば彼女は間近にいたので諦めたのだがこれには流石に溜息を禁じ得ない。なぜ彼女はこんなにも無防備なのか分からず雲雀もつい同じように言葉を返す。

 ギラギラと日差しの眩しい昼間だった。
 出来ることならこんな日はあまりでかけたくもなかったのだが如何せんこのナミモリにわざわざ手を出そうなどという厄介者というのは人間と魔族でいうと人間の割合が多い。魔族であれば特例がない限りほとんどが夜間に本領を発揮するタイプが多いので矢張り夜が多いのだが人間がそのようなことを考えるはずもない。むしろ魔族が人間の町を守護するなどと有り得ないとし、全てはナミモリを守るための虚偽であると決めてかかった輩が多く結局雲雀が出向くことで恐慌状態に陥るまでが定例となっている。
 本日もそれに違わぬ予定であったのだ。後処理を人間の部下に任せて歩いてきたところで別段彼女に会うつもりなど一欠片ほども思ってもみなかったというのに。この場所だって彼女の住まう場所からは一等離れていたし雲雀の住まう屋敷に近い森の手前。町の人間だって泉に用事がなければ近付くことはないとされ人気がない場所であるというのに彼女はまるで自分に会いに来たかのように近付いてくるではないか。

「あの時の怪我はどうですか?」
「すぐに治ったよ」
「…本当に?」

 このような場所に一人で居て、例えば他の魔族や不埒な人間に出会ってしまった場合どうするのだというのか。悲鳴をあげたところで気付きやしないこの辺鄙なところで自分以外の吸血鬼と会ってしまったらどうするのだろう。そもそも、もっと何か自分に対し違う態度を取ったらどうなのだ。怯えて欲しいわけではないのだが雲雀も人間と話したことはある。自分の部下に見定めた人間であってもやはり他種族である自分のことを恐れているというのにどうして彼女はこうも隔たりが感じられないのか。怖くはなかったのだろうか。そういえば先日の夜は雲雀が吸血鬼だと分かったというのに声一つ出すことはなかったなと思い出す。そうだ、あの時だって今と同じ表情を浮かべていたのだ。僅かに驚いた顔をしたものの取り立ててそこから何かするというわけではなく、逆に己がそれに耐えきれず立ち去っただけのこと。

 ずいと近寄った彼女は雲雀の右手に視線を落とす。
 自分の方が細々とした怪我をよくするくせに先日の雲雀が負った傷が気になるらしい。おそらくはあの日、彼女の部屋へと伸ばした手が結界によって阻まれ火傷のような怪我をしたのを彼女は見ていたのだろう。確かに厄介な傷だった。体調が万全でない日に受ければ全身を駆け巡る呪いとでもなったことだろう。もちろん宵の家から自分の屋敷に戻った時には既に治っていたので言葉に嘘偽りはない。あのジクリジクリとした痛みは未だ疼いているようにも感じ取られていたのだが。
 傷がなかったことを確認できた彼女からほう、と安堵の息が吐き出された。それは自分にとって理解の出来ぬことであり雲雀はおやと不思議に感じ、首を傾げる。恐れ、怒り、怯え、逃げられることはあったとしてもこうやって怪我の心配などされたことはない。ましてや自分は彼女の血を求めたのだ。何故それなのに自分の心配をするのだろうか。血液を啜ろうという彼女にとっては害意ある行動だったのに、それに気付かぬほど鈍いとは到底思えないのだが雲雀の意図を理解していないからこそこうやってのこのことやって来たかのようにも見えるのだ。油断させるための罠なのかと周りを見渡して見るがそこに例の怪物づかいの気配はない。

「あら、本当に怪我がもう治ってるんですね」
「吸血鬼は治りが早いんだ」

 カマをかけたというわけではないが、やはり吸血鬼であるということは分かっているらしい。そこに大した反応はなく「すごいのね」と素直な感想を告げるだけで終わった辺りどうしようもなかったのだが彼女は本当に、自分のことを敵だと思っていないようであった。生まれてこの方そのような扱いを受けたことはない。傷を負ったとしてもすぐに戻るし、血さえ吸えば心臓に損傷がない限り復活は可能。雲雀の存在を快く思っていない人間であればその化け物じみた治癒能力に舌打ちを打つであろう。だからこそ彼女の態度は新鮮だった。
 「あなたは、」宵が言葉を続ける。

「ナミモリを守ってくれているって聞きました。あなたはいい人なんですね」
「吸血鬼だけどね」
「吸血鬼でも恩人には変わりないですよ。…私はこの町が大好きだから」

 ああ、言葉を交わすというのはこういうことなのか。煩わしいものと思っていた。ヒトとは弱く、だからこそ群れる生き物なのだと思っていた。しかし彼女はどれにも当てはまらない。弱いことに変わりはないだろうけれど群れることはなく、目の前に傷を負った者が居れば種族など関係なく心配する。そんなものは不要だよといつものように跳ね除ければいいのに、これ以上干渉するなと命じることだって可能であったのに雲雀はそうしなかった。そうできなかったのだ。

 彼女のことはよく知らない。花屋を営み、怪物づかいである男の知人。自分を狂わしかねない芳香を放つ人間。よくよく考えれば彼女の情報などそれぐらいのものだった。聞こうと思えば部下がそれなりの情報を持ってくるだろうし町長だって喜んできっと色々話してきたに違いない。しかし敢えて今までそうしてこなかったのは彼女のことは自分で知りたいと思ったからだ。彼女に会いに行ったのはもっと話をしているところを見たいと思ったからだ。その湧き上がったものは血を吸いたいと衝動的に雲雀を突き動かしていたものとはまた別物であるのだがそれに気付くのはまだまだ先のこと。

「雲雀恭弥」
「え」
「ヒバリンと昔からナミモリにいる人間は呼んでいるけど、一族の総称だからあまり呼ばれるのは好きじゃない」

 名乗った意味などあるのだろうか、などということは発言した後に気付いた。本当は彼女の名前を知っている。また、彼女もきっと自分の名前を知っている。だけどどうしても今、彼女に呼んで欲しいと思ったのだ。ああそう言えば自分から名乗ったことなんてここ数年なかったな。
 キョトンとした表情を浮かべていたがやがて彼女はそうでしたか、と笑った。柔らかく、かつて己に向けられたことのない、客向けとはまた別の微笑みだった。

「私は宵。よろしくお願いしますね、…恭弥さん」
そうして熱望
 bkm 

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