「こんばんは」

 話しかけた途端表情が花開いていく。知っている顔であると安堵したのか、窓が閉じられていたまま雲雀と同じ言葉を返すと思わず己の口角が上がっていくのを感じていた。この状態で尚、警戒されている様子はないらしい。そう判断しそのまま何も言うこともなくつ、と手を伸ばすと手のひらに感じられる冷たい感触。本来これがなければ彼女に触れられているだろう位置にそれを遣ると雲雀は敵意はないと言いたげに再度柔らかく笑んでみせた。外側から窓ガラスにくっつけられた手を何事かと彼女はしばらく見ていたがそれから雲雀の顔を見た後、小首を傾げる。それに気分を良くし雲雀は彼女のその表情を遠慮なく堪能する。未だ窓は開けられる様子はなかったがいい心がけだと素直に感心した。

 魔族は人間の知らぬ変わったところで多種多様のルールがその身に強いられている。

 あまり知られていないことではあったが、例えば吸血鬼は初めて訪れる場所であるならばその内側に居る相手に招かれないと入ることができない。雲雀自身がそういう仕組みを作ったわけではない。いつぞやの先祖が己達魔族の、吸血鬼に対しそういう風にしたのだろうがその理由が理解らない。ただ単純に、力ずくであったとして雲雀は内側から招かれないとその場所へと入ることができないのである。髪の毛1本とて、それは許されては居ない。

 これが雲雀にとって唯一厄介だと感じられるところであった。
 目の前に獲物が居たとしてもそれが何処かの建物に入られてしまうとこれもまた内側に居る相手によって招かれなければ自身で攻撃することも出来ないのである。せいぜい物を投げつける程度であろう。人間と馴れ合うつもりなどさらさらないというのに敵を倒すにしても侵入することはおろかその体質故に建物を壊すことも出来ない。結果的に雲雀の配下―人間である―に先に侵入させ開けさせるか、或いは堂々とノックし敵に開かせるぐらいしか現状方法はなくこれで何度苛立たされたことだろう。とっくの昔にくたばっているのであろう先祖に会う機会があれば是非ともこの厄介な体質なるものを変えろと迫りたいものだ。

 花屋に入るときもそうだったのである。あのときも彼女の手によって開かれることがなければいつまで経っても入ることは叶わずずっと外に居たことであろう。花屋と彼女の家はある意味一体化していたのだがこれはこれで別区間に値するのだと窓に触れた瞬間に理解した。
 つまり何が言いたいかというと、今も宵と自分の隔たりはたったこの薄い窓1枚なのに自分のこの手だけでは強引に開き彼女に触れることは出来ないのである。例え今この手に魔力を込め窓ガラスを割ったとして依然変わらず、結局宵に招かれなければ彼女のテリトリーに一歩たりとも入ることは出来ないのであった。

「!」

 目を見張る行動を起こしたのはその時である。今宵は彼女の姿を一目見れば良いとそれだけ思ってやって来た雲雀ではない。そのような純粋な感情などそもそも生まれてこのかた持ったこともない。吸血鬼ほどの魔力を持つ者であれば何の力も持たぬ人間に対しほんのわずか魔力を込めた目で見つめてみればある程度自分の思った通りに操ることが可能である。しかしそれは最終手段にしておきたいと思ったのはやはり彼女の意志でこの窓を開けさせたいという気持ちがあったからだ。

 それであっても大して期待していなかったというのが正直なところ。なのに、やがて彼女は視線を彷徨わせたもののゆっくりと手を伸ばす。鍵を開くのかと見守っていれば彼女は解錠するわけではなく、…そのまま窓越しに雲雀の手に己の手をそろりと重ねてみせたのである。
 思ったよりも、随分小さな手だった。
 雲雀が少しでも力を込めれば手折れてしまいそうな華奢さ。冷たい窓ガラスが少し温もりを帯びたように感じられたのは気の所為なのか否か。彼女の行動の意図が分からぬまま思わず目を見開き、彼女の手を、それから細い腕、薄い夜着、少し開かれた薄い桃色の唇、そして彼女の目を凝視する。

 ――…時が止まったのだと、雲雀は感じていた。

 その濡羽色の瞳と視線が絡んだとき、同じように手を伸ばしたとき、手がガラス越しに重なったとき。一つ一つの動きがまるでスローモーションのように感じ取れたのは何故なのか、はたまた本当に世界の時が突然遅くなったのかとも思えるような一時だった。ただそれだけの行動で何故こうも苦しくなっているのか自身でも理解が出来ず言葉に詰まる。そんなことが今まであっただろうか。ああ、息遣いが聞こえないのが何よりも残念だ。

「……君に、」
「はい?」
「渡しに来たんだ」

 食みたい。飲みたい。──喰らいたい。そんな欲望を押し退け、雲雀は出来るだけ荒らげることもなく怯えさせることもないよう彼女に話しかけていた。
 声は聞かせることができる。聞くこともできる。だけど触れることはできない。このもどかしさを、焦れったさをどう表現したらいいのか。かざした左手を下ろすことが勿体なく感じられ、代わりに空いた手で懐から小瓶を取り出し、彼女の視線のところでそれを揺らしてみせれば水が満たされていることに気付き目を丸くする。すぐに彼女は理解したのであろう、それが”癒しの泉”のものであるということを。さてそれに対してどうするか雲雀はそれ以上の言葉をかけることもなく彼女の行動を観察することにした。

 そもそも雲雀はこの泉にもっとも近いところに住んでいたが泉の恩恵をほとんどあやかることはない。あの時は珍しく自身の魔力が尽きかけるほど戦闘し、傷を負った。毒による負傷の所為で血液が止まることもなく面倒だなと思いながら泉に寄ったのだが、普段であれば他人の血を吸うことにより体力を回復することもできるしそれにより怪我を癒やすこともできる。魔力が最高潮に高まる満月の日であればそのようなことをせずとも、そもそも傷一つ負うことはないだろう。ならばどうして泉の水を汲んできたのかと言えば彼女の為にある。

 とは言え、だ。

 ただ彼女が日々負った細かな傷を癒やす為にというのであれば日中に手渡しにくるなりすればいいのに敢えてこの時間にそれを渡しにやって来たということに意味がある。さて彼女はそれに気が付くか否か、また気がついたところでどう行動に出るのか知りたかった。要は彼女がそれを受け取る為に自身で窓を開かせることが雲雀の目的であった。何も今日、今すぐ彼女の血を吸おうと思っている訳ではない。全てを本日実行しようなどと考えてもいない。いずれそうするつもりであるし、それが叶えば彼女を眷属にする為の儀式を執り行なおうとすら考えている。彼女のことはそれほどまでに、一目見たときから今に至るまで一度もブレることもなく気に入っている。
 が、性急に事を構えることは雲雀の望んだところではない。取り敢えず今日の目的はその第一歩、もしも万が一があっても彼女に逃げる場所を与えない為にこの領域に招き入れさせることであった。

「わざわざ私に?」
「君はよく怪我をするそうだから」
「ふふ、色々とありがとうございます」

 …警戒という言葉をもう少し覚えた方が良いのかもしれない。そう仕向けさせた当の本人が思うのも可笑しなことではあったのだが、彼女にとって自分はこんな夜更けに突然2階からやって来た1度きりの花屋の客でしかない。それなのに彼女は何も気にすることはなく、ただ雲雀のこの行動を好意と捉えやって来た理由を聞いたが故に呆気なく解錠する。カチャン、という音を聞いたそのときの己の感情と言えばただ安堵したというそれだけに近い。雲雀という魔族の、吸血鬼の身体に染みついていた呪いとも呼べるそれが音もなく解けていくのがわかる。壁は取り除かれた。もうこれで彼女の部屋に入ることができる。これで、彼女はこの建物内においては逃げ場などないに等しい。
 小さな手が窓をゆっくりと開いていく。夜風が宵の髪をいたずらに靡かせ、それを煩わしく感じたのか髪を押さえつけるその姿はいやに扇情的だった。部屋の中は暗く中を見ることは叶わなかったがそれでも彼女の血の匂いに負けず劣らず良い匂いがする。

「…受け取ってくれるかい」
「ええ」

 窓ガラス越しではない声は花屋で自分を接客したときと変わらぬそれ。怯えなど感じられなかった。このような時間にも関わらず男がやって来た意図なども考えることはなかったのだろうか。この無防備さは危険である。これは早い内に手を付けてしまわなければならないと、そんなことを思いながら雲雀は彼女に向けて表立っての目的通り小瓶を手渡そうと手を伸ばす。

 ――…バチンッ!

 体内に電流が走ったような、そんな感覚に陥ったのは彼女の手に小瓶が渡った瞬間であった。その音に驚きビクリと震わせた彼女の手からは受け取った小瓶が滑り落ち、部屋の中に転がり込んだ拍子に蓋が開いたようでトク、トクと水が溢れ始め敷いていたカーペットがじんわりと濡れていく。しかしそれを彼女は拾い上げることもなく、雲雀のことを大きな瞳で見つめ続けている。また、雲雀もそれに対し視線をそらすことはない。

 今のは何だったのか、雲雀は瞬時に理解した。”怪物づかい”たるものに罠を張られたときにもこのような経験をしたことがあったのである。そして彼女はあの骸の知り合い、ならば雲雀の魔具を取り付けることをさせなかっただろうし魔族からの干渉をおいそれと許すはずがない。骸の匂いはしないし恐らく彼はこの場所に居ないのだろう。であればこれは骸が敷いて行った置き土産、…魔族のみに効力を発揮する結界に違いない。何と忌々しい。このようなところで自分の企みを阻むつもりなのか。

「――吸血鬼、でしたか」

 聞こえてきたのは詰るような音が一切含まれることもない、極めて静かな声だった。感情が読み取れぬ訥々とした声だ。結界に直接触れたことにより隠していた牙や目が露呈し、しかしそのお陰で部屋の中が暗いというにも関わらず一望することができた。彼女の部屋は異常であったということをようやく知る。
 質素でベッドぐらいしか置かれてはいなかったのだがその奥には十字架や薔薇の花、銀の刃、銀の弾が並べられた銃、はたまたニンニクなど、それ以外にも見たこともない道具がずらりと並べられてあり一種の規模の小さな祭壇のようなものが作られ異様な雰囲気を醸し出していた。それはどうやらここ最近で作られたようにも見えず、ずっとずっと彼女を守っていたようにも見える。間違いなく部屋の中には魔族の、否――…対吸血鬼の為のものが揃っていたのである。雲雀が決して好みやしない、むしろ厭うものが尽く置かれていたのだから。

 宵はこの結界の意図を知っているらしい。この結界が何を阻むか知っているらしい。結界というものは対種族によって張り方や厭うものが違うのだ。全魔族避けとならば当然汎用性はあるものの、その代わり効力は薄い。しかしこれは吸血鬼避けに特化したものである。ならば今の、万全の体調ではあるものの彼女に近付きたいが故に魔力を最小限まで押し込めている自分では到底開けられるものではない。
 はたして、じくりじくりと痛む手はそれ以上彼女に近付けることがなかった。尖った牙を彼女に突き立てることもなければ全魔力を以て彼女を守る結界を壊した訳ではない。手を下ろしたのは、彼女をそれ以上見つめることもできず視線を落としたのは。――そのまま立ち上がり、黙って彼女に背を向け離れたのは。

「あっ……」

 彼女が何かを告げようとしたがそれを見返すこともなく雲雀は己の屋敷へ向けて駆け出していく。人間ではないそのずば抜けた身体能力であらば数分で屋敷へと戻ることができよう。しかし自分の行動の一切合切、理解が出来ないままであった。何故そのまま手を伸ばさなかったのか。何故そのまま彼女を連れ去ることができなかったのか。――…どうして、こんなに胸が苦しいのか。
 痛みは正直、それほどでもなかった。屋敷に戻って来る前には既に修復を開始していたし、自室に入る時には焦げ付いた右手は傷跡一つ残ってもいなかった。だというのにまるでそこにずっと、毒が塗られているかのようにじくじくと痛みを訴えているようであった。煩わしい。たかだか人間1人に何故こうも己が振り回されているのか。彼女の瞳を、見続けることができなかったのか。不甲斐なさにギリリと牙が己の唇を突き刺し口内は血の味で塗れていく。全然美味しくない。何の味もしない。彼女がいい。彼女の血を飲みたい。そんな欲望は未だ潰えることはない。

 やがてのろのろと顔を上げ、夜空に浮かぶ三日月を眺め欲にまみれた思考をどうにかしようと努め始めていた。
 先程よりは落ち着いた自覚はあるが、今自分はどのような顔をしているのだろう。鏡を覗いたとて己の顔は見えることはなかったのだが恐らく、あまり自分でも見返したくない表情を浮かべているに違いない。
隔たる壁は拒絶する
 bkm 

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -