ホー、ホーと聞こえるのは森の何処かに潜む梟の鳴き声か。夜も更け町の灯りもぽつりぽつりとまばらになってきた頃、雲雀は森の中をゆったりとした足取りで歩み続けていた。迷う事などあるまい。爛々と光るその赤い瞳は闇夜でこそ真価を発揮するのであり、そして吸血鬼であるが故に太陽の光のないこの時間帯において弱みたるものは何一つとして存在していないのである。
 森はいつにも増して静寂に包まれていたがそれを気にすることもなく意思を持ち向かった先は人間達が”癒しの泉”と呼んでいる場所だった。以前であれば夜であっても利用者がいたのだが色々と物騒になっている昨今そこには誰もやって来ないことを知っているし、元々血液関係に関しては嗅覚が鋭くなるもので誰も居ないということは雲雀が屋敷を出た時からずっと把握している。このままあの場所で人間に会うことはないだろう。決して気分は悪くはないし怪我を負っている訳でもない。だがどうしても此処に来ようと思ったのは目的があったし、ついでにこの身体の見えない場所の何処かで痛むものを除去してしまおうと思ったからでもある。

 ――…ピチャン、

 ある一定の場所までやって来ると先程までのジメジメとしたそれとは違った清浄な空気が雲雀を包み込んだ。相変わらず変わった場所だと思いながら泉の淵まで歩むとその場にしゃがみ込み、手を浸す。片手で掬ったのは僅かな水ではあったがそれを口に含み嚥下する。ごくりと鳴る白い喉。身に染み入る感覚はあったのだがもちろんそれぐらいで空腹が満たされる訳ではないし、不思議な泉とは言ってもそこから湧き出るのは聖水ではないのだから雲雀が飲んだところで別段何かが変わるわけでもない。
 それでいてやはりと言うべきなのか身体の内側から時折痛むそれは泉の治せる範囲である負傷ではないのだと改めて思い知らされやがて口に含むことを止める。つまりはそういう事なのだ、分かっていたことだと無理やり納得させ今度は用意していた空の小瓶を取り出した。

「……」

 流水を渡ることが出来ないという吸血鬼の特徴があるが、泉程度ならば雲雀を阻むことはない。頭まで浸かるほどの深さのところまで行けば話は別だがそこまで向かうつもりもなく、しゃがんだまま澄んだ水を睨みつけると美しい水面は雲雀の姿を映し出す。鏡は映ることはないのにこの水だけは特別であったのだが、映る己は何と魔族らしい顔をしていることか。その目と言い、僅かに開いた口から覗く尖った牙と言い一見ヒトと同じように見えたとしてもこの特徴は人間の群れの中に隠れるにはあまりにも異質すぎる。少しでも怪物づかいたる素質を持っているような者であれば雲雀がどれだけ魔力を用いて姿をヒトに寄せようとも見破られるに違いない。この身はそれほどまでの魔力を有しているのだ。

 意識し僅かな魔力を手に込めてみれば元より赤い目が更に妖しげに輝く。このようにして泉に浸かっているはずの衣服を濡らさずにいることなど造作無いことで、そのままできるだけ深く潜り込ませるとやがて引き上げた頃には小瓶に水がとっぷりと満たされていた。

 ”癒しの泉”の水は万能薬に成り得る。

 それはこの場所だけが特別という訳でもなく、もちろんこの場所であるからこそ湧き出る水は特別ではあったのだが、だからと言って泉の恩恵はここでしか受けられるものというわけではない。
 湧き上がった水に直接患部を浸す方が早く癒えるのだろうがこのように持ち運べばその辺りの傷薬よりも確実な薬となる。尤もこの”癒しの泉”の中で、そうやって水を持ち運ぼうとしている最中に一瞬でも悪事を考えれば制裁が加えられてしまったのだろうが、結果的に雲雀はそれを喰らうことはなかった。

 前回の宵と出会った際も彼女の血を吸いたいと思ったのだがそれはあくまでも悪巧みの一貫としてではなく生存する為に必要な当然の思考なのであるとこの泉自身が判断してのことなのだろう。そういう意味ではどちらに味方をしているのかよく分からなかったし、意志もないただの泉に自身の言動が読み取られていると思うのは少し不快ではあったのだけれど。
 やがてその水を零すことのないようしっかりと蓋をし、懐へと入れる。そのまま無言で立ち上がりそこから彼の恐るべく身体能力により空を飛ぶわけでもなくただ最短距離で数分走れば気がつけばナミモリの街中であった。

 雲雀の足は迷うこともなく先日知ったばかりの場所、彼女の花屋へ。

(…随分静かだな)

 最近はどうやらこの平穏なナミモリを狙った命知らずな魔族が後を絶たずお陰で戦闘が嫌いではない雲雀は暇つぶしの手段を手に入れている訳であるが巻き込まれている人間としては溜まったものではないのだろう。夜ともなれば灯りはほとんどなく、雲雀が自身の邸の中にあった己の家系の縄張りであることを証明する魔具をお守り代わりに各々扉へ張り付けてあり、どこもかしこもシンと静まり返っていた。
 唯一例外があるとすれば数店舗しかない小さな酒場程度ではあったがそこもやはり雲雀の用意した魔具が括り付けられている。これでも尚手を出そうとする輩があるとすればそれはもう人間にではなく雲雀自身に、上位種である吸血鬼に逆らうことを意味しているのであるもので、そんな命知らずな者は流石に居なかったのか、他の魔族―主にタフさを誇る狼人間だ―が彷徨っているようなその程度でやはり人間に被害という事件は今のところ聞いていない。

 通りすがりの酒場でも鼻をひくつかせたがやはり彼女の匂いに勝る者は誰一人としていなかった。恐らくあれから見てはいないのだが、格別美味いとされる不純物の少ない女児と比べたとしても彼女は雲雀の食欲を何よりも唆るに違いない。逸る気持ちを押さえ、更に奥へ。

「…此処、か」

 やがて辿り着いた彼女の家は花屋の上にあった。
 勿論宵自身には聞いていないのだが匂いは何よりも雄弁だ。日中は店先に並べられていた花々は店内に戻してあるというのに近付いただけで花の匂いが辺りに立ちこめ、しかしそれであっても彼女の匂いはまた別物で目立っていた。
 もしも自分以外の吸血鬼が居たとすれば間違いなく彼女をすぐに狙っただろう。吸血鬼とは矜持が高く美味しそうな獲物とあらば必ず仕留めようとするが他の吸血鬼が既に牙を突き立てたものをわざわざ狙うことはない。しかし、――…今の状態であれば彼女は誰のものにもなっていないのだ。

 無言のまま2階を見上げる。
 カーテンはきっちりと閉じられていたが僅かに漏れ見える暖色はヒトが居ることを如実に物語っている。さて彼女の居住スペースに向かうにはどうするべきかと悩みながらその建物を一周している内にこの家には雲雀が配っておいた魔具が括り付けられていないことに気付きおや、とも思ったがすぐにあの男がそのようなものを彼女にさせる訳はないのだろうと考えに至った。
 アレは厄介な種類の人間である。
 力がある者特有の傲慢さを持ち得た、嫌な人間だった。普段の雲雀ならば毛嫌いし二度と近付くかと思うものなのだが何分彼はナミモリの人間ではない。やがて軽く地を蹴り2階へと飛び上がると更に濃い例の香りが雲雀を蝕んでいく。

 もしもこの香りが他の魔族に狙われるぐらいならば、いっそ。

 そういった考えが雲雀の中に巣食っていた。狼人間は吸血鬼と違いヒトの血肉を食す。ただの娯楽でヒトの肉体を引き裂く。普段の雲雀であればそれがどうしたかと言ったところなのだがその牙が、爪が彼女に向いた場合を考えるだけで自身の血が沸き立ち、一斉に頭に上っていくようなそんな感覚に陥ってしまうのだ。
 何故1人の人間に対して此処まで思ってしまうのか。それはもう花屋からの帰り道、薔薇の花を枯らしてしまった時点ですでに気付かぬ振りはできなかったのだが、やはり彼女を他の誰のものにもしたくないという欲望が根付いてしまっていた。例の泉で数言話しただけのほんの数瞬、されども数瞬。そもそも雲雀のものではないと分かっているにも関わらずこの欲望を突き動かした彼女が如何に魅力的であるかということを物語っているのだが、果たしてそう感じ取れてしまったのが自身だけなのか否かすら判断することも出来ず。
 ならば雲雀が取る方法はたった一つだ。宵の今置かれた状況など気にする必要などあるまい。

 屋根の上を歩き、彼女の部屋であろう場所を見つけると大きく息を吐きだした。人間と同じ機能をする心臓は彼らと同じ場所にある。多少の運動ぐらいでは乱れることもない鼓動も今日はほんのわずか早い。まるで初めて人間の血を吸う時のようだと雲雀は思った。失敗する訳にはいかないと入念に準備をした幼少期、僅かな緊張をし人間に声を掛けたことも随分昔のようにも思える。何故その時の事を思い出してしまったのかはよく分からなかったが兎にも角にも雲雀も今はあの時のように緊張しているということなのだろう。そんな馬鹿なと一蹴しようにもこの鼓動は自身の意志などお構いなしに早まっていくのだ。

 ――…コン、コン。

 本来は階下のチャイムを鳴らすのが妥当ではあったのだがそれであると花屋は閉められていることだし彼女はきっと降りないであろうと思ったところはある。ならば2階からかと言われればそれは人間としての常識からは少し外れていたのだがそもそも雲雀は人間ではない。そのような事などに気を回すこともなく、ただ彼女を呼び出す為に窓を小さく叩いた。
 やがてその音に気付いたのか白いカーテンがゆっくりと、警戒しているかのように開けられる。寝ているかもしれないと懸念もしたがどうやらそうではなかったらしいとしっかりした足取りと目付きで理解した。そこから顔を出したのは思った通り彼女である。部屋着を纏った宵は怪訝そうな顔をして突然の訪問者に声が出ないのか目を丸くさせる。その薄着に白い首筋に目を細めると窓が閉じられているにも関わらず「こんばんは」と声をかけ、例によって赤く輝く瞳を、牙を隠し笑んでみせた。
されど切望
 bkm 

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