ヒトとは弱く、だからこそ群れる生き物だ。
その肌は牙が突き立てやすいように柔らかく、その血肉は食まれる為に甘い。当然ながら血液量が一定まで減れば死ぬし近くでうろついている化け物の類に襲われてももちろん死ぬ。そんなか弱い人間の血液が自分たちの餌であることが不思議に思って仕方ない時期もあったが今となってはどうでもいい。結局は餌でしかないことに変わりはない。
ところで一応そんな餌であっても多少の味というものがある。
例えば喫煙をしている者は血が少し苦く、アルコールを好む者は肉が若干硬く歯を立てる際にどことなく引っかかる気がする。男よりは女の方が美味な傾向があるのは誰もが知っている事実。年老いた者は色んな不純物が含まれているし、かといって子供は確かに美味しいけれど血液量が然程多くないため油断すると殺しかねない。それは吸血鬼であれば忌避すべきことであるが故に逆に子供はあまり狙われずに済んでいた、という人間の中で出回る噂もあったほどだ。そんな噂の出処がどこなのか知る由も興味もなかったがそれはあながち間違いではない。
人間を吸い殺すという動作は吸血鬼たる者の中では未熟者の証だとされている。如何に美味しい餌を、どれだけ長い期間侍らせ、楽しんで食せるか。そういったことに重きを置いている吸血鬼は多く、また矜持が高い故にせっかく食事をするのであればと美味さを求める者も非常に多かった。美食家の種族と揶揄されているほどである。
自分たちでは理解の出来ない事柄ではあったのだが、吸血の際、吸われている側である人間はまるで性的な快感に近しいものを得るという。牙を突き立てたその瞬間から人間の感覚は麻痺し、痛みを感じることはなくなる。そうしなければ吸っている間に逃げられてしまうからだろうと自分の身体の事については解釈していた。もしも痛みを相手に感じさせているのであればそれは吸血鬼の手腕がやはりこれも未熟である証であると言われているので彼らは辺り構わず人間を襲うことなく慎重に相手と場所を選び、牙を突き立てる。だからこそ人間は、そこまでして選び抜かれた餌は、逃げられることもなく哀れにも彼らに食されてしまうのである。
似ているようで、全く異なる存在。それが吸血鬼とヒトである。
最終的に食料扱いしている相手である人間の方から吸血鬼に対し吸い殺される事を望まれる程となれば自身の存在価値と、そして手腕がいかに優れていたかという己の満足感を十分に満たしてくれることになる。そして相手の感情がそこまで上り詰めた時、格別に血は美味いものなのだと聞く。矜持の高い吸血鬼はそれらを高みと称し、各々目指している故に魔族の蔓延るこの世界でも人間が滅亡しないのはその所為だろう。
しかしながら雲雀はそういう意味では異端であった。
美食家でも何でもなく、ただ腹が満たされればそれでいい。美味い血のために他人に気を遣うなんて真っ平御免だとそう感じているが故に仲間のいない、魔族の気配が無い場所へ住居を構え静かに暮らしていた。今からかれこれ十年前の話である。
それでも彼は、否、吸血鬼という種族は驚くほど恵まれた容姿をしていた。
雲雀が近くに居るだけで恍惚とした表情を浮かべる女は少なくはない。それだけで通常の血より少しだけ増して甘くなっているのだが雲雀がそんなことを知る由もない。
そもそも異端といわれる雲雀は同属であるはずの吸血鬼とさえ碌に話したこともなく一族の掟なるものなど知らず、やや本能のままに生きてきていた。
自分という吸血鬼か、その他か。
彼の世界はたったそれだけで二分されていて、ヒトの女は吸血鬼の女とそう変わりないと思っている。地位や光り輝く宝石を好み、そして美しい男とあれば喜んで擦り寄ってくる。それが異形のものだと知ったとしても、だ。
「…不味かったな」
今日はハズレの日だった。
まったくもって美味しくない餌だった。身体にだって情欲が湧いたわけではなかった。何の欲も満たしてはくれなかったけどとりあえず小腹だけはどうにかなった、なんてそんな程度。
別に腹いっぱいに飲みたいとも思わないし自分の身体が満足に動くぐらいであればと必要最低限しか人間の血を欲することはなかった。生きていくためとは言え牙を突き立てるために自ら動き嫌いな他人に話しかけなければならないこの生活も嫌々ながら続けてはいるが気に入らないのは確かである。面倒臭いので彼の支配においているナミモリで荒ぶった男たちを倒した後に彼らの血を吸ったこともあるが死に掛けていたことも相俟ってもう一生男の血なんて飲むものかと決めていた。ならば自分の食指はやはりヒトの女になっていくのは極めて自然だったのだがそれでもやはり、気に入らないところはある。自由のようでなかなか制約のある身体だと忌々しげに呟きながら屋敷のある森の中へと足を運んでいる、その最中だった。
「こんばんは」
ナミモリの奥の森の中、つまり雲雀の屋敷のある近場には人間が”癒しの泉”と呼んでいるところがある。どれだけ雨が降り注ぎ、逆に日照りが続いたとしてもそこの水だけは滾々と湧き続け、そしてその水を浴び続ければやがて傷も癒えると魔族―吸血鬼もこちらに分類されることになる―も人間も恩恵をあやかることができ、そこだけは誰の支配下にも置くことはできないという不思議な結界のある場だった。
その結界の中で悪さを働こうものであればたちまち泉の怒りに触れ今までそこで恩恵をあやかってきていた者達の分の傷を一身に受けるという謂れがある。
伝説だ、伝承だと鼻で笑う人間の輩が実際そうなったことを雲雀は見たことがあった。激しい雷撃と共に焦げ付いた身体。どういう仕組みか分からなかったが成程、これは確かにそういうシステムであると覚えていたほうが良いようだと認めざるを得なかった。
別段彼処で誰かと戯れることもなければ特にそういった衝動に襲われることもない故に魔族である己の身ではどうなるかなんて試したこともない。結局群れることを厭う雲雀ですらそこを把握し手中に収めることはせず、だからこそ人間が利用するのも止める事はできない不思議な場所で在り続けている。
彼女と出会ったのは隣の地区に住まう魔族との喧嘩の帰りであった。
少しだけ傷を負っただけと思いきや切りつけられた刃物に毒が塗られていたらしい。止まらぬ血液に苛立ちながらもその泉へと向かうと久々にかけられる声に素直におや、と不思議がった。
――…これは、
この匂いは間違いなく人間だ。しかし何と珍しい。
自分から餌と見初めた獲物には声をかけるが掛けられたのは初めてのことだった。何しろナミモリにおいて雲雀が吸血鬼ということは誰もが知っていることであり人間は吸血鬼を、魔族を恐れる人種であると雲雀自身思い込んでいたのだから。魔族に抗う術を持たぬのだ、当然だろう。故に彼らは魔族とは呼ばず上位から下位種に至るまでの、人間以外の、人間を餌として屠ろうとする生き物を総じてこう呼ぶ。
怪物、と。
「…こんばんは」
彼女は衣服を纏っていなかった。何てことはない、この泉の恩恵をあやかりたければ水の中にその箇所を浸たす必要がある。そうであるならば確かに服を脱ぎ潜ってしまえば全身の傷も癒えよう。
女はこの森を出たすぐに住むナミモリの人間なのだろうか。
全員を把握している訳ではないし雲雀の行動時間は決まって夜だ、見知らぬ人間だって多い。だからこそそういう反応を示したのであろう。それが雲雀にとってどれだけ衝撃的であることか知らず。
思わず彼女にかけられた挨拶をそのまま返すと女は黙って岩陰へと身を移動させた。雲雀から逃げるというよりは身体を見せた事を少し恥じているようにも見える。年頃の女だ、それも致し方ないことだと言えるが、やはり此方が人間を屠る吸血鬼だと気がついてはいないような反応だった。
「…」
この結界内において殺生は厳禁。分かっている。その手を伸ばし白い肌を傷つけようものならば以前自分が見たような事に陥るということも。
しかし何故だろう、この内側から湧き上がる強烈な感情は。この、飢えに似た何かは。が、それは目の前の彼女に悟られてはならなかった。何故だか雲雀はそう判断し欲望のままに生きる魔族らしからぬ理性でもってそれを押さえつける。そんな葛藤があるだなんて露知らず大きな古い傷を背中に持つ女が岩陰から衣服を纏い、此方へと歩いてくるのを確認すると思わず尖る牙も、夜に赤く光る瞳も隠し突っ立った。
見れば見るほど、ただの人間である。
その黒い瞳、黒く長い髪は確かに同じ質のものであったが戦う力も持ってなければ今、雲雀に手を掴まれても逃げることなどできそうにない非力な女。
鼻腔を擽るのは甘い甘い匂い。
その目と目があった瞬間、囚われたと感じたのは何故だろうか。今すぐ手を伸ばし思い切りその細い首に牙を突き立てたいという欲望と共に湧き上がるちりりと胸を焦がす痛みは。
生唾を飲み込み彼女がどう出るかと視察した。このまま結界から出ていくようであれば吸ってしまっても良い。眷属とするも良い。そう思える程にきっと彼女は美味しいに違いないと雲雀の脳がそう判断した。初めてのことだった。
「こんな時間に出歩いては危ないですよ」
「…君もね。吸血鬼は若い女を狙うから」
「大丈夫ですよ、こんな傷だらけの体の女なんて向こうがお断りしますから」
女はあくまでも自然体で、雲雀を疑うことなど無かった。
「はい」静かに渡されるその白いハンカチには泉の水が含まれていて雲雀の利き手である側の、袖のシャツを捲りあげるとそこへ静かに被せる。
じゅう、じゅうという音が無言の空間を埋めていく。
元々魔族であり動力を人間の血液とする吸血鬼は傷などすぐに塞がるし吸血さえしてしまえば無かったかのようにもなるが今回のそれは魔族の血によって傷つけられたものであり治癒が遅かった。
だからこそ余計彼女は自分を人間と疑ってかからなかったのだろうか。そんな事をぼんやりと思っていると女はゆっくりと傷から雲雀の顔へと視線をあげる。
彼女の大きな瞳には魔族の自分の顔がしっかりと映っていた。今にも目の前にいる女を襲いかからんとギラギラとした瞳をした自分が。しかしそれでも何故、彼女は。
● ◆ ▲「それではさようなら。お怪我、お大事になさってくださいね」
彼女が去るまでそれから自分がどうなっていたか正直覚えてはいなかった。その場には誰の血液も残されてはおらず取り敢えず彼女に手を出すこともなかったというそれだけしか把握できていなかった。
ふわふわ、浮遊している気分とでもいうのだろうか。経験もしたことなかったが酒を呷りすぎて足元が心無い人間の状態に似ていると雲雀は思った。
「…っは、ァ」
彼女の気配も、他に誰の気配が無い事を確認してからようやく隠していた尖る牙を出現させる。その漏れた声がどれほど官能的で、切なげであったか。聞いた女は皆が皆恐らくそれだけで興奮してしまう程の色気を含んだそれはただただ闇夜に吸い込まれていく。
珍しく自制が利かなくなりそうなほど興奮していたのが分かる。
気が付けば口内は生唾でいっぱいになっており、あの細い首筋に夢中になっていた。目を瞑ればいつだってそれは細部まで思い出すことが出来る。その皮膚の下、赤い赤い血はさぞかし美味いだろう。ドロドロとした欲望が己を苛ませ無自覚に行動させようと働かせたのも初めての事で、だからこそ分かったことがある。
極上の、餌だ。
間違いはない。あの首はきっと柔らかく、牙を突き立てれば己の内へと取り入れられる血も甘いに違いない。逃すつもりはない、今度は彼女にしよう。
――…彼女をこの手で。
そう思いながら雲雀は名も知らぬ女の服が立てかけていた場所へと座ると仄かに花の香りがした気がした。
夜は出会うために出来ている