朝、いつもと同じ時刻に目覚めた雲雀はやや陰鬱な面持ちで身体を起こす。もう朝か、と呟いた声は掠れていたがどうやら悪夢も見ることはなく眠りについたようだった。朝日は眩しく、しかし雲雀の行動を妨げるほどではない。窓枠の花が未だ枯れずに風に吹かれ揺れているのを確認すると重苦しい溜息をひとつ。普段の雲雀を知っている人物がいたとすれば珍しいものだと思うだろうがここにそのような人物がいるはずもなく、そのまま決して軽いとは言えぬ足取りで部屋を出る。まったくもって気分が晴れることは、ない。

 昨日のことを思い出すと何故彼女にあんなことを言ってしまったのかと後悔せずにはいられなかった。思い返せば先日から自分の気が逸ってばかりで計画が狂いに狂っている。こんなつもりではなかったのに。もっと用意周到に、逃げられぬよう外堀から埋めていくつもりであったのに。どうしてこうなってしまったのかと冷えた廊下を歩みながらズキズキと痛む頭をトントンと指でたたく。本当に、あのようなことを彼女に伝えるつもりはまだなかったのに。
 本来吸血鬼とはそういった策を練ることを得意とする生き物であるはずだった。餌として人間を得る際には決して自分よりも格下である彼らを拉致し吸い尽くすわけではなく、あくまで彼らが自分から望んで血を渡すよう仕向ける…そのような策をとる生き物なのである。餌を怖がらせたところでその身体は萎縮し、血が不味くなるだけだと知っているからだ。それ以外の理由を挙げるならただ暇だからと言えよう。半永久的な寿命を持つ彼らは決して生き急がない。急ぐ必要をまったく見いだせないのである。ちなみに優れているのは何も魔力だけではなく、他に頭脳、腕力、生命力。すべてにおいて秀でており、数点ある弱点さえ克服するなり隠すなりすれば上級の魔族の頂点に立つことが叶うとすら言われているほどだ。
 尤もそのうちの一つがあまりのプライドの高さに同種の吸血鬼であっても、いかに種として絶滅の危機に陥ろうとも決して群れを成すことはなく個々ひっそり暮らすという上級魔族にありがちな特徴でもあるのでそう簡単にはならないのだろうが。

 ともかく、雲雀は彼女に対し吸血鬼として生まれてから今に至るまでに培ってきたすべてを何一つ活かすことができなかった。それが何故なのか。ようやく今にして理解する。
 宵はもはやただの餌ではなかったのだ。ただ一度吸えたらそれでいい、空腹を満たすことができるのであれば、とそれだけを思っていたのであればここまで苦悩することはなかっただろう。どこかで折を見て、隙を突き、無理やりにでもその首筋に牙を突き立てて味わってしまえばそれで終わりだ。
 だが雲雀はそれを望まなかった。彼女を半ば騙すようにしてこの館へ連れては来ても無理やり吸血はしたくないと思ったし、それ以上に彼女とただ一緒に居たいと思ってしまったのだ。並び、話していたいと。悲しむ顔ではなく笑顔を、あの屈託ない笑みを己に向けて欲しいと思うようになっていたのである。すぐにでも手を伸ばさなかったのはそういう理由のせいだ。
 幸運なことに今のところすべて雲雀の望み通りに叶っている。宵が心の底でどう思っているのかは知らないがとりあえず現在は自分のことを生命の恩人であると信頼している節はあるし、だからなのかこちらに対してひどく無防備だ。あの怪物づかいである骸があれほどまでに吸血鬼避けをしていたというにも関わらず。自分に対しあれほどまでに警戒がないのだ、本人には魔族からそう怖い思いをさせられていなかったのかもしれない。ただ骸が吸血鬼を異様に嫌っているだけで。
 それならやりやすい、と雲雀は思う。骸と常に一緒にいるわけではないのだからこれはチャンスなのだ。今は骸にとっても動きにくい場所に彼女はいるのだから。だのに、…なのに、だ。

「あら、恭弥さん。今日は遅かったんですね」
「……まあね」

 宵は今日も今日とて例の花壇にしゃがみ込んでいた。ここに彼女の興味を引くものなどせいぜいこれぐらいしかないということは分かっているのだが、まさにこれが、この今の状況が雲雀を困らせているだなんて露知らず。

 少なくとも雲雀にとって昨日の言葉は雲雀なりの意思表示であった。紡いだものは呪縛めいた言葉だと思ってすらいた。もし他者にあんな言葉を告げられれば雲雀だったら面倒であるとその場をさっさと去っただろう。大して知りもしない相手に繋ぎ止められようとするなど真っ平御免だ。だから彼女もきっとそう感じると思ったのである。だから今日の彼女の言動には気をつけようと思ったのだ。
 もしかすると次に雲雀と会うまでに逃げようとするかもしれない。どこかへ隠れるかもしれない。そう思っていたというのに。逃げるようであれば捕まえることも、隠れるのであればこれもまた見つけて囲うことも致し方あるまい。そう思っていたのだが。
 だというのに宵ときたらまるで昨日のことなどなかったかのように振る舞うではないか。もしかして昨日の記憶を失っているのかとも疑ってしまえるほどに、にこにこと笑みをたたえて。部屋の中で彼女の居場所を察知できたときの感情など彼女は知る由もないだろう。がっくりと項垂れるのも仕方のないことなのだ。昨夜抱いた負の感情を返してくれ、と。

「ごめんなさい、やっぱりここの花が気になって」
「君が興味あるなら好きなものを植えてもいいよ」
「…いいんですか?」

 どことなく嬉しそうな宵の表情からはこれっぽっちもここから去るような気配は感じ取れない。雲雀もここに宵を幽閉するつもりはなく、もちろんそう本人が望むのであればそれに越したことはないのだが現状そこまで望んではいない。そう、極端に言えば向こうの住居に帰っても構わないのだ。他の人間や魔族のものにならないのであれば。
 はたして、昨日雲雀が伝えようとしたことを宵は理解しているのだろうか。理解した上でこの行動なのだろうか。そう思わずにはいられない。
 これまで人間の女と会話をしたことが少ないとはいえ皆無ではない。餌の確保のため、と考えるのであれば男と話すことよりも多かっただろう。そこで女の関心を引くような話題などはしたこともなかったし気を遣う必要などもこれまではなかった。むしろ直近で血を吸った相手との会話すら覚えていない有様。つまりーーそう、雲雀は他人に無関心であったし、人のために、誰かのために会話を続ける努力などしたこともなく、自分の意見や要望を戦闘分野以外で話したことはなかったのである。となれば彼女の反応が気にならないわけがなく、また肝心の宵はこの様子。はたして雲雀の言葉は正しい意味合いで届いたのだろうかと疑ってしまうのも仕方のないことなのだ。

「…あ、あの、昨日のことですけれど」

 こちらの疑念が伝わったのだろうか。ふと宵は声色を変えながら雲雀を見上げ、雲雀も考えを止め、彼女を凝視する。

 視線が絡み合った。

 まるで時が止まったかのよう。初めて会ったときも確かそうだった。思えば出会ったあの日から全ては始まっていたのである。
 自分と同じ配色の髪色と瞳は何故こうも違うのだろうか。人間と魔族では違うように出来ているのだろうか。彼女の黒い瞳はいつまでも見飽きることがない。くるくるとよく変わる表情はいつまでも見ていたくなる。今だって雲雀に向ける言葉を考えているようだがそれもまた珍しく、思わずじっと見入ってしまう。不思議な魅力を持つ人間だと雲雀は彼女をそう評す。もしかするとそういう能力を持つ魔族なのかもしれない。自分を惑わす、魔族。むしろそうであったらどれほど良かっただろう。それなら雲雀は単に相手の術中に嵌っていただけであり、もちろんそれに関しては腹立たしく思うだろうが納得もできたのだから。
 しかしどうやら彼女の言動を鑑みてもその可能性は限りなく低い。
 自分より強い相手には手を出さぬと有名な狼人間に追い詰められる種族など数えられるほどしかないし、その種族だってもはや人型ではない。例の怪物づかいに特別な庇護を受けているだけあり恐らく他の魔族にとっても多少狙われやすい体質をした人間、とその辺りの位置付けであろうと雲雀は踏んでいる。

 ならばこそ、やはり雲雀は焦るのだ。他の人間や魔族の手に渡る前に、と。
 望むのは彼女の隣。それも、自分が飽きるまで。それが明日になるのか一年後になるのか、はたまた数十年先までなのかは分からない。だが不思議とそれでも彼女を一度自分と同じ魔族にしておきたいと思ってしまったのである。そしてそれは彼女の意志ありきで。宵が自分から望むことを、雲雀は望んでいるのである。
 魔族として、吸血鬼としての力を行使すれば宵の意志など簡単に操ることができる。そうなれば魔族へ転換させる儀式も今すぐに行えるのだがそれでは意味がない。彼女が己の意志で是と頷くことが大前提なのだ。

「昨日のこと?」

 答えは聞きたくないような気もするのだ。何故ならば、何だかんだ気が逸っていたとはいえ今の生活もそう苦ではなかったから。確かに自分のものになるかならないかと悩むのも好きではなかったがある意味自由な彼女を見るのもまた、嫌いではなかったのだ。
 だから雲雀はなんてことのないように彼女の言葉を繰り返す。何かあったっけ、と。それはある意味、宵にとって最後の逃げ道。もしも返事をすること自体が難しいようであれば無かったことにするではないが期限を伸ばしてやろうとも思っている。もちろんここで拒絶するようなら話は別だが彼女の雰囲気からそのようなことは感じ取れない。期待しても構わないのでは――そう思えるほどに、好意的に見えたのである。
 しかし宵は「よく考えましたが」と言葉を続ける。

「恭弥さんが寂しいのなら、しばらくここにいます!」
「……ん?」
「私もちょっと探検させてもらって思ったんですよ。ここは一人で暮らすには寂しすぎるし、恭弥さんの気持ちが分かった気がします。だから私でよければ、ぜひ。…あ、もちろん迷惑なら家から通いますので!」

 あまりにも突拍子な、斜め上の提案にさすがの雲雀も言葉を失った。しばらく花屋を営む必要はないと、少なくとも後一週間は他の人間があの花屋の面倒を見ると沢田が伝えたせいだろうか。
 ああ、なるほど。彼女はそう勘違いしたのか。確かにこの館は無駄に広い。掃除も最低限配下にさせているがところどころ修繕しなければならない程度に古びている。使ってもない部屋など雨漏りもしているかもしれない。そんなところで一人暮らす自分が本当に寂しいと感じて彼女に昨日の言葉を告げたのだと思ってしまったのか。
 それはある意味宵らしい…否、人間らしい考え。しかし納得しているかのように頷く彼女にここは幼少期から一人で暮らしてきたこれ以上ない快適な空間であるなんて今更言えるはずもなく。ああ、昨日あれから逃げるように彼女の前から立ち去ってしまった自分が憎らしい。こんなことになってしまうのであればきちんと自分の思ったすべてを話しておけばよかったのだ。そう考えたがもはや後の祭り。

「…そう、だね」

 しかし自身から自然と漏れる笑みと言葉。何故だかそれでもいいと思えたのだ。離れないようにするためには手段など厭わない。それに彼女は思ったよりもここを、或いは雲雀と過ごすことを嫌っていないのであればまだ伝え直す機会だってあろう。

「よろしく頼むよ」
「ええ、任せてください。恭弥さんが寂しくならないよう、花をたくさん植えてみせますから」

 そうだ、彼女はこんな人だった。忘れていたのは自分の方だ。
 いつだって他人のことばかり優先で、そして人の好意はまったく気付かない。今回もまさにそうだ。結果的に雲雀の望んだようにはなったのだけれど。

 …振り回されているのは自分の方なのかもしれないな。

 そう思ったが不思議と、それが嫌ではない。何故だか自信に満ち溢れた表情を浮かべる宵に雲雀はもう一度「よろしくね」と伝えるとすぐさま草壁に連絡を取ることを決めた。とりあえずは彼女が利用するであろう場所の修繕をさせるために。それも可及的、速やかに。
 bkm 

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