「この部屋はなんですか?」
「昔は親の部下が住んでいたみたいだね」

 彼女は相変わらず帰ることはなかった。どころか敷地内から出ようとする素振りすらなく、外に出て例の花壇の所へ向かう以外は雲雀の言葉を素直に受け、部屋で大人しく滞在している。それですら雲雀からの了承を得てからというありさまだった。当然ではあるが主従の契約を結んだつもりはない。できれば、と外出することを控えるよう前もって頼みはしたがあまりにも律儀に守るので始めはそれについて少し不思議に感じたものの、敢えてその理由を聴く必要はないとさえ思っていたのだ。しかし彼女の行動をよくよく観察してみれば、彼女は屋敷の外へ出ること自体を避けていることに気付いてしまう。そこで、先日狼人間に襲われたことが影響しているのではないかと今更ながら思い至ったのであった。―――外が恐ろしいのではないか、と。
 ヒトと魔族は一生分かり合うことはない。いくら姿かたちは似てどもその常識は根本的に違うのである。魔族にとって当然とも言える弱い者が淘汰される世界は人間にとって恐怖でしかないだろう。欠片も理解できないに違いない。ヒトは生き抜くために群れ、共通のルールを作り、武力ではない他の解決方法を編み出す。人間は基本的に争いを好まない性格であるということは雲雀もよく知っている。
 しかし魔族はそうではない。彼らは全般的に武力を好む。力を好む。上位、下位の区別があり種族ごとの埋まらない戦力差というものがあるが、その種族内の中でも格付けというものは存在し、暴力的なほど力があるほど、残虐であるほど序列は高い。そんな生き物なのだ。なので力弱き人間を格下だと見下すのである。魔力を持っていない以上、一部怪物づかいの人間を除けばやはり戦う能力は下位の魔族にも劣ってしまうからだ。人間は魔族を厭い、魔族は人間を弄ぶ。心を、時には生命をも弄ぶソレは強者に許された娯楽だった。

 あの夜、彼女はその娯楽に巻き込まれたようなものだ。

 狼人間たちが彼女をどうしようとしていたのかは結局分かっていない。ただ、癒しの泉から出た彼女を複数で追い回した行為。あの時はよくもまあ運良く逃げられたのだと感心してもいたのだが、相手は大きな身体に見合わぬ俊敏さと異様なほど発達した嗅覚、鋭い爪を兼ね揃えた狼人間の群れである。そんな彼らから逃げられるような素早さも隠れられるような術も宵が持っているわけがない。つまり、宵はその生命を弄ばれた形だったのだ。あの中にはまだ若い狼人間もいたので獲物を追い立てる狩りの練習をさせていたのかもしれない。腹を減らしているようにも見えなかったのでただ遊んでいたのだけかもしれない。彼女に彼らから受けた怪我がなかったのがその証であり、ならば運良く生き残ったのではなく、あの時はまだ殺すつもりではなかっただけなのかもしれない。しかし、それは追われた側にとってどれほど恐怖だったことだろう。雲雀はその立場になったことはないので理解は難しかったが、ただ彼女を失っていれば狼人間たちを殺すだけでは済まなかったことだけは間違いない。
 だが、一方で彼らの行動を責められず、そういうものなのだと分かっている自分がいるのも確かなことだった。

 吸血鬼が人間の血を吸うことを誰が咎めよう?
 血を吸う相手を選ぶことの何を悪と言えよう?

 何事も、所詮は受け取る側の話である。誰の主観であるかという話である。血を吸うことは確かに生きるために必要であるが、その相手を選別するのは娯楽のようなもの。それを雲雀は悪いとは思っていないし今後も誰かに注意をされたとて止めることはない。それは狼人間にとっても同じと言えよう。人間を追い、狩りをすることを悪だと言うのであればなるほど、魔族は『怪物』であり『残虐』であり『恐ろしい』生き物に違いない。しかし人間は人間で動物を殺し、解体し、その肉を食らうが、それと何が違うのか。動物が人間と同じ言葉を発するのならば、彼らにとってヒトこそが『怪物』だと叫ぶことだろう。
 弱肉強食という、とてもわかりやすい言葉がある。
 強さを持たぬすべての種族は抗うことができない。いつだって弱者は強者の都合に振り回され、なぶられる立場なのである。なので弱者は弱者で牙を剥くか、或いは受け入れるしかないのだ。……とここまで考え、やはり例の狼人間共はすべて八つ裂きにしておけばよかったか、と思うのも何ら不思議ではないだろう。狼人間はヒトより強いが、吸血鬼には劣る。例えそれがきっかけで宵が自身の屋敷に住まうようになったとしても、だ。狼人間にとってヒトがそうであったように、雲雀にとって彼らもまた、自身の機嫌ひとつで簡単に塵にも成り得る存在なのである。

「たくさん部屋があって迷子になりそうですね」

 彼女はあの夜のことについてどう感じているのだろうと思ったことはあれど、雲雀からそれを聞くことはなかった。聞けば最後、ようやく落ち着かせた苛立ちが復活して見逃してやった狼人間を屠りに行ってしまいかねないし、そうなると後々やかましい怪物づかいである沢田が皮肉なほど爽やかな笑みを浮かべて文句を言いに来るなんて分かりきっているからだ。彼のことは何も怖くはないしむしろ戦いたい気持ちはあるのだが、如何せん今回の件に関しては宵のことも絡んでいる。連れ帰るなどと言われたら迷惑だ。
 なので、雲雀はこうやって珍しくも自分の欲望を最優先することなく彼女の望み通り部屋の中を案内しているというわけであった。屋敷の中はまだ明るく、灯りの必要もない。暗くなると何かと怖がらせてしまいそうだし、彼女も動くなら明るいうちがいいだろうと思っての配慮である。

「冒険しているようでワクワクします」

 何しろ部屋の数は無駄に多い。最低限必要な場所を教えようにもやはり移動に時間がかかるのである。雲雀が抱えて移動するのであれば話は別だが宵はきっと怖がるだろう。本人も楽しそうにひょこひょこと歩いているので、その隣をのんびりと歩いているというわけである。
 ガランとした廊下に、幾つもの空き部屋。かつて両親が自分達に仕えていた者を住まわせていたと記憶しているが彼らは全員雲雀個人にではなく、あくまでも両親に従っていた魔族である。幼い頃の記憶を辿るとそれこそ多種多様の魔族がこの家にいたような気もするが正直あまり覚えてはいない。それに両親がこの土地を離れた時に共に全員ついて行ってしまったのだ。その時ばかりはさすがに突然一人残された雲雀もなかなか日々苦労したが、おかげで今も気ままに暮らしている。もしかするとこんな苦労をしたくなければさっさと魔族の配下を作れという最後の教育だったのかもしれないが…。
 ともあれ、今はこの屋敷に雲雀一人。住処を変えるからと言って人間と同じように家具ごと持っていくのではなく彼らはその身一つで出ていった為、どの部屋にも最低限の家具やら何やらが置いているはずだった。あまりにも興味がなかったので中身をひとつひとつ確認したことはなかったがまとめればそこそこの量になるだろう。

「迷ったら、……そうだね、大きな声で僕の名前を呼ぶといい」
「見つけてくれます?」
「気が向いたらね」
「まあ!」

 宵をこの屋敷に連れてきた翌日、雲雀はそんな興味のなかった部屋を全て、念の為に見回った。魔族の種類にもよるのだが場合によっては魔力の残滓があったり、酷いと瘴気がこびり付いていたりする。雲雀にとってはただの塵屑のようなもので何も関係はないのだが、人間の身であれば話は別だ。少々の魔力や瘴気であれば人間も抗う事が出来るだろうが、そうでなければ毒となる。残滓が他の生き物に乗り移り襲うことも、その毒に倒れることだって有り得るし、悪夢を見ることだってある。宵がどれだけそれらに対しての抵抗値があるか定かではないが用心するに越したことはない。人間とは、とてもか弱い生き物なのだから。
 雲雀が思ってもいないところで傷付き、たやすく死んでしまう。そんな生き物であることを、雲雀はなんとなく知っている。気にかけてきた訳ではないが、彼女の命はひとつだけ。柔らかいそのひとつだけしかないのだ。やり直しは当然効かず、失う訳にはいかないのである。

(君は、気付いていないようだけど)

 本来魔族の残り香などよりも自身の隣にいる男が一番危険である。吸血鬼は快楽主義者だ。美食家を自称する者も数多く存在するほどに独自の美意識から餌の選出にはことのほか気を付ける生き物であり、そして見つけた獲物にはとことん執着する怪物である。またこれはベクトルが違うものではあるが、不老不死であり長い生を営む間でもそれを共にする番いは生涯一人であった。誰がそうしろと決めた訳ではないのだが一途とも呼びかえていい。それが良い意味でも悪い意味でも、である。
 雲雀はその相手にと宵を選んだ。まだ生涯だとか何だとか途方もない先のことは考えていなくとも、今はそれがいいと思っている。雲雀自身でも持て余すほど彼女に対し執着し始めているその感情は食欲を抑えるのに役立っていたのだった。幸運なことに、先日沢田綱吉が持ってきた血液製剤もある。アレで満腹になることはないが、それでも宵の香りを目の当たりにしても一応理性は保っていられているのは僥倖であろう。相変わらず美味そうな匂いがするのだ。

 ―――食べてくれと言わんばかりの誘惑する匂いが。

 基本的に人間を見て美味しそうだと思うことはない。
 あまりにも雲雀が傷を負って腹を減らした状態であれば話は別だが、そうでなければ無力ゆえに群れて生活する難儀な生き物という認識ですらある。雲雀は群れるのが嫌いだ。生きる為に仕方なく吸血をするが、しなくてもいいのであればしないに越したことはないと、本気で思っている。何も人間の血を好き好んで飲んでいる訳ではなく、あくまでも生存のため。そして、まあせっかく飲むのだから味はそれなりにマシなものを、と思い対象は年頃の女のものになる。その程度だ。
 なのに彼女は特段惹かれるものがある。グッと堪えておかねばいつの間にかその柔らかそうな肢体を抱き寄せ、その細い首に牙を突き立ててしまいたいほどに。もちろん本人にその意図はない。これは血の匂いなのか、はたまたそうではないのか。彼女を自分のものにしたいという欲望と、彼女の健やかな笑みを見ていたいという欲望が綯い交ぜとなり、こうやって廊下を歩き続けている。まったくもって、自分らしくない。

「…ああ、そうだ。この屋敷には鏡はないよ。君には必要かな」
「……鏡が?」
「吸血鬼は映らないんだ。だから必要はない」

 探せばどこかの部屋にはあるかもしれないが、魔族が使っていたものを人間に使わせるというのも全く不安が無いわけではない。それならばナミモリの商店に出向くか彼女の家にあるものを持ってくる方が遥かにマシだろう。

「本当に、吸血鬼なんですねえ」

 はた、と宵は足を止めて不思議そうに雲雀を見上げてきた。
 彼女はあまり魔族と出会ったことはないのだろうか。対吸血鬼に特化した魔族避けの呪具の類がたくさん部屋に置いてあったことから、少なくとも吸血鬼とは会っていそうなものなのだが。宵の目に自分はどう映っているのだろう。彼女がもし他の吸血鬼を知っていたとするならば、その吸血鬼と自分はあまりに違うのだろうか。…そのような、無防備な表情を浮かべるほどに。
 気にはなったがそれを聞いたところできっと自分には面白くない話題になるだろうと簡単に予想がつく。怪物づかいである骸と宵が話しているのを見ていたあの時と同じような感情を抱くことになるだろう、と。
 「そうだよ」と雲雀は一言だけ返す。今はまだ余計な情報を耳にしたくはない。今はまだ、ただ彼女との他愛もない会話をしていたい。

「油断してると血を吸うからね」
「…ふふ、そんな優しい目で言われてもあんまり危機感抱きませんよ」

 冗談のつもりでは決してないのだが、それでも宵が微笑むものだからそれ以上何も言うこともできなかった。よくもまあ、自分を前にして落ち着いていられるものだ、本当に吸ってやろうかと考えないこともなかったがここで怖がらせてしまっては元も子もない。結局雲雀は面白くなさそうな表情を浮かべ、フンと顔を背け、また歩み始めるのであった。

「あ、ちょ、ちょっと待ってください!」

 後ろからトタトタと慌てて駆け寄ってくる音を聞きながら、先を進む男の顔はいつもと比べ、やわらかい。
 bkm →

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