多くの休養を必要としない雲雀はほんの数刻の睡眠のみで普段の疲れなどすっかり取り除かれるものなのだが魔力を放出し続けた故に訪れた疲労は尋常ではなく、宵を屋敷へと連れ帰った後の記憶はほとんどない。それどころかどうやって帰ってきたかすら覚えてはいなかったのだが、しかしその時点で雲雀は非常に満たされた気持ちであった。欲しいと思ったものをこの腕に抱きとめることが出来たし、誘導したとは言え彼女の口から自分のところへ行きたいと言わせることが出来た。求めているもの全てを手に入れることが出来た。今なら多少の悪事を働いた人間や魔族を見逃すくらいの余裕はあるし、男の血を─もちろん例えの話だが─吸っても構わないとすら思えるほどに全てがどうでも良いことのように感じている。高揚し、満足し、しかしそれでいて未だ足らず。例えばそれは喉の渇きにも似ているし、それなりの強さの敵を屠った時の感覚にも似ている。この感情を何と名付けようか。この気持ちをこの世の誰が理解しようか。逸る気持ちを押さえつけ、空いていた部屋に宵を寝かせ、──かろうじて思い出せたのは、そんなおおよその流れまでだ。

「……っ、」

 記憶をゆっくりと辿りやがてそこまで行き着くとハッと勢いよく目を開き上半身を起こす。既に部屋の中には陽光が差し込み、夜の冷え込みとは正反対に少し暑い。珍しくも半日程度は寝込んでいたのだろう。おかげで身体の疲れはすっかり取れていたが、如何せん記憶の欠如はどうしようもない。だからこそここがいつもの部屋であることが分かった後はまず昨夜の事がすべて夢だったのではないかと疑い、だからこそ窓辺に求めた存在を確認したことで雲雀はすっかりかける言葉を忘れじいっと魅入ってしまったのである。

 昨夜の喧騒が嘘であるかと思えるほどに、静かで穏やかな時間だった。
 彼女の姿を見るのは何も初めてではない。が、基本的には夜や曇った日、或いは営む花屋の中でありそういえば日中彼女のことを見るのはそうなかったなと今更ながらに思う。昨夜雲雀が怒りでヒビを入れてしまった窓の手前で日の光を浴びた花瓶に活けられた花々を世話する彼女はいつもとはまた違って見えたのだ。目を覚まし、雲雀の部屋に入ってきたものの自分がぐっすり眠っていたので起こすことは叶わず、花を見つけてしまったというところだろうか。今なら例え屋敷のどこへ居ようとも彼女の位置が分かるだろうに部屋へ入ったことにすら気付かないほど深い眠りに入っていたことが驚きだったが。最初はあの怪物づかいのそばにいた人間なので同種なのかとも思っていたが昨夜の件でその可能性は限りなく低いことが判明した。彼女は例の男、骸とただ知り合いなだけ。……否、関係性を問うたことはないのでよく分かってはいないのだが一般人であろう。
 ただ花が好きな、至って普通のナミモリの住人。そういえばそこに置いてある花は彼女によって選ばれたものである。慣れた手つきでより分け、恐らく枯れてしまったのであろう花をするりと抜き取る作業。細い指は器用に動き続け、そうして彼女の表情はどこまでも穏やかだ。これが天職というものなのだろう、心の底から楽しく作業をしているのが見て取れる。

 嗚呼、ずっと見続けていたい。

 きっと宵がそうやって飽きもせず作業をしているのを自分もまた飽きることなく見続けられていれるだろう。夢ではなかった。昨夜の出来事はすべて、夢などではなかったのである。彼女が狼人間に襲われたことも、それを自分が救ったことも、彼女が望んでこの屋敷へやってきた事も。もうすぐその細く白い首に牙を突き立てることが出来ることも。ぞくりと沸きあがる暗い感情の根底には満足感、充足感といったものが根付いていたのだが、歪められた口端を見る者など誰も居るまい。

「身体はもう良いのかい」

 しかしいつまでもそうしている訳にはいかず。機嫌よく作業しているところに水を差す行為はあまりしたくはなかったがまず最優先は彼女の身の安否だ。あまり驚かせることのないよう声をかけたもののやはり宵は身をビクリと震わせ、それからゆっくりと雲雀の方を振り向いた。
 細められた闇色の瞳、さらりと流れる夜の髪。雲雀と全く同じ色彩なのに、しかし自分とは全く違う雰囲気である。柔らかな笑みはいつもの通りで、「おはようございます」と挨拶する様子も雲雀が知っている普段の彼女と何ら変わりがない。いっそのこと昨夜のことは忘れてしまっているのかと思えるほどの態度におや、と思いながらも挨拶を返し至って自然に、且つ頭から爪先まで素早く一瞥する。別段違和感も感じることがなく、また血の匂いも新たにすることはなく昨夜の怪我はすっかり治ったようだった。人の理性を刺激する肌の下を流れる血の香りも相変わらずだったのだが如何せんそればかりはどうすることも出来まい。それにこれを感じているのはあくまで自分のみ。彼女は何もせずその場に立っているだけだし、そんな事を相手から思われているだなんて思ってもみないだろう。

 そうして雲雀もゆっくりとベッドから起き上がる。昨夜の狼人間に対する威嚇や大幅に身体能力を上昇させた時に用いた分の魔力はある程度回復しているようだがコントロールがあまり出来なかった為に消費した量は凄まじい。空っぽとまではいかないがそれなりに飢餓を覚えるほどに魔力を消費してしまっていたようだ。もっともこれが他の魔族であれば2、3日は眠りっぱなしでも不思議ではなかったのだがこれは流石魔力貯蔵量がトップクラスの吸血鬼と言えよう。
宵は雲雀が立ち上がったのと同時に花から手を引っ込め、雲雀の元へと駆け寄った。己よりも頭一つ分低い背、2つの何も知らない瞳がこちらを見上げている。ほんの少し腕を伸ばせば肩を掴める距離だ。その気になれば一瞬で彼女の人生を思うがままにできる距離。逆も然りだ。もちろん彼女にそのようなことを考えるなど出来るはずもなく、むしろこちらに関して感謝しているのはもう疑いようもない。

「昨夜は本当にありがとうございました」
「ただ通りすがっただけだよ」
「…だとしても、本当に私は助かったので」

 視線に怯えは見当たらず浮かべられているのは相も変わらず柔らかな微笑み。もちろん昨夜はほとんど彼女も意識を失っていたし、その間どのようなことが起こっていたか知るはずもない。狼人間に襲われ、気を失い、目を覚ませばそこに雲雀がいて、傷を癒し、休息のために自分の屋敷へと連れてきた…と、それぐらいの認識であろう。狼人間達とのやり取りをもし見聞きしていれば如何に何に対しても物怖じをしてこなかった宵でも自分に恐怖していたに違いないのだから。雲雀が放った威圧のための魔力を人間が真っ向から受けた場合、もれなく彼らは意識が飛ぶか最悪気が触れる可能性も有り得るほどなのだ。
 とはいえ、雲雀にとってこれ以上なく好都合だった。全ての事実を話す必要などなく、また、彼女が何かしら誤解して自分にとって都合の良いように解釈してあってもわざわざ教えてやる必要もない。極上の餌を他の魔族に横取りされることを許さなかっただけだよ、などと口にする必要はないのだ。

「花、ずっと世話してくれていたんですね」
「……ああ、僕はこういうのに疎くてね。結局草壁がやってるんだけど」
「くさかべ、さん」

 聞き慣れない人名だったのだろう、雲雀の言葉を繰り返すその姿に思わず笑いそうになったがきっと怒られてしまいそうだったので―それはそれで魅力的にも見えたのだが―グッとこらえる。人名を出すのは選択ミスかと思ったが言ってしまったものは戻らず、宵は知りたそうな顔をしているのがよく分かるし逃れようもない。取り戻しのつかない失言だ。
 では、さて、どうにもならないのであれば彼女にはどう説明しようか。並盛に住んでいるのならば恐らく草壁の姿は目にしたこともあるはずだ。雲雀の命令により見回りを欠かせたこともないし、気配りが上手い。誠実さに関しては従属させた魔族よりも遥かに優れているあの男のことだから雲雀と同様この並盛の風紀を守るという目的があったとしても他の町人にも知られていることだろう。もっともいちいち名乗るようなこともしてはいないに違いないが。
 しかしここで問題がひとつ。雲雀は他の人間と、否、魔族を含めたとしても他者とはあまりにも接してこなかった。他者に命ずることはあれど、雑談に花を咲かせた試しもない。敢えて言うならば宵と話すために近付いた程度だ。つまり雲雀は他人と会話すること自体が非常に稀であり、煩わしく感じ、だからなのだろう彼を形容する言葉が一句たりとも思いつかなかったのである。容姿の説明でもすればよかったのだろうがその言葉すら思いつかず、ほとほと困り切った挙句「人間だよ」と答えるのが精一杯であった。案の定キョトンとした顔をされたのだがこればかりはどうしようもない。

「会えば分かるんじゃない」
「そうですね、ではまた紹介してください」
「……気が向けばね」

 それが社交辞令なのかそうでないのか、雲雀には見当もつかないことであったがとにかく少し面白くないと思ったのは確かだ。何しろ今目の前にいるのは草壁ではなく自分だ。彼女を助けたのも、ここまで連れてきたのも、草壁が関与したことなんてひとつもないというのにただ彼女の花を少し世話したと言うだけで彼女の興味が自分以外に注がれてしまうのはたいそう面白くない。しかし彼女は何一つ他意はなく、それが分かっているからこそどうしようもなく。せいぜい雲雀ができることといえば話をそこで切り上げるぐらいで、そのまま窓を大きく開け放つ。

 天気は非常に良い。
 そよそよと風が雲雀と宵の髪を悪戯に撫で、部屋の中には窓先に置いてある花と、屋敷の外には勝手に咲いている花々の香りが部屋を満たしていく。彼女は昨夜のことをどれほど覚えているのだろうか。ふと、そんなことを思いつつ宵のことをちらりと横目で見た。雲雀につられるように屋敷の外へと目を遣った宵は敷地内に咲いている花を興味深そうな表情で見下ろしているので盗み見し放題である。自分のことを己とは違う種族の生き物であり、性別も異なるのだと知っているだろうにあまりにも彼女は無防備すぎて、他の人間の雄の前でもこんな感じなのだろうかと疑問さえ浮かぶ。ああ、そういえば例の怪物づかいにもこんな表情をしていたっけ。もっとも彼は危険な力を有しているものの彼女と同じ人間なのだけれど。

 ……否、今はそのようなことどうでもいい。

 せっかく連れて来ることが出来たのだ、今はそれだけで良いことにしよう。問題はこれからなのだ。彼女を引き止め続ける理由を作らなければ。引き止め続けさせられる理由を探さなければ。
 モヤモヤと腹の底に燻った暗い感情を押し留めながら雲雀は己にしては随分と友好的な笑みを作る。これまで食事と称し女性を探していた時ですら浮かべることのなかった表情だがはたして彼女に効果はあるのかどうか。

「とりあえず、食事にしようか」

 腹が減っては戦は出来ぬ。そんな言葉が人間にあるように、自分達吸血鬼も腹が減れば色々と都合が悪い。なので話はそれからにしよう。隣で宵が頷いたことを確認すると雲雀は彼女に背を向け歩き出す。慌てて窓を閉め後ろからついてくるその様子がまるで雛のようだなと感じ、ほんの少し口元を歪め雲雀は笑んだ。

「ま、待ってください恭弥さん!」
「早くしないと迷子になるよ」

 半ば冗談ではあったがそれなりにこの屋敷は部屋数が無駄に多い。彼女にあてがった部屋は陽の当たる、雲雀の部屋とは正反対に位置する場所であったがここまでやってきたのだから彼女だって確かに屋敷の主についていかなければどうなるかわかっていることだろう。
 当然のことながら彼女に意地悪をしたいわけではない。もちろん放っておくはずもないしただちょっとからかってみただけだ。思ったよりも元気そうな反応があったので何よりである。そういえばよくこの部屋までたどり着けたな、なんてそんなことを思いながらも雲雀はドアを開く。半ば楽しんでいることには違いあるまい。何しろ、――何しろ、人間と食事を摂るなんて生まれて初めてのことなのだから。
 bkm 

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