何度も何度も夢を見る。彼女の柔らかい皮膚に牙を突き立てる夢を。何故と悲しい顔でこちらを見遣る夢を。
 小さく華奢な手を己の手で包み込み逃げようとする肢体をかき抱き未だ尚抵抗する首筋に噛み付いた。血の匂いに反応し突出した鋭い牙は彼女の柔らかな皮膚をいとも容易く突き破りやがて本能のままに吸い上げる。痛みに呻く声や湧き立つ甘い匂い――それら全てが雲雀の理性をことごとく奪っていき、彼女が逃げぬようにと掴んでいた手にどんどん力が籠もっていく。

 どろり。

 まるで現実かと見紛うほどに自分のすべての感覚が再現された夢の中、舌で味わう血は、喉を通り過ぎる血はこれまで感じたことのない破格の美味さを持っていた。血の美味さは個々の生活環境によって異なっている上に吸われる側の感情の分が甘さに上乗せされる。痛み、恐怖、憎しみなどといったものであれば苦く、快感、好意、憧れといったものであれば甘く。吸血時に牙から分泌される特殊な唾液が人間の血液と交わった際、ヒトの感覚器官はたちまち麻痺し痛みを感じるどころか性行為時並の強い快感に襲われ、即ち食される側は快楽を、食す側は極上の甘い血液を得ることが出来るのだ。しかし如何せん彼女にはそれが通じなかったのか暗い表情のままどうにか雲雀の拘束から逃げようともがき続けている。にも関わらずこの血の美味さ。もしも万が一これで感情が伴っていたのであれば己はどうなってしまうのだろうとむしろ恐怖するほどの美味さを持ち合わせていたのである。

 彼女はいつまでも嘆いていた。苦しみ、今にも死にそうな顔で喘いでいた。整えられた桜色の爪が肩に食い込む。手首に、腕に、頬に伸びた指が雲雀から距離を取ろうと抗い続け、そして最後にはひやりとした目でこちらに訴えかけるように見るのだ。まるで嘘つき、信じていたのにと詰るように。嗚呼、その濡羽色の瞳からこぼれ落ちた大粒の涙は見たくはないと思っていたのにどうして今はそれを見ても何も感じないのだろう。涙を拭うために雲雀が何かする事はなかった。ただ目を閉じ、それを見なかったことにするだけで。
 しかし雲雀の欲望は止まらない。飲むたびに満たされ、そして枯渇する。飢える。満たされる。飢える。飢える。飢える。もっともっとと全身が彼女の血液を欲していた。ごくり、ごくり。そしてその欲望に逆らえることなど出来やせず。腹はとっくに膨れているというのに一滴たりとも他の奴らにくれてなるものかと啜り続け、それでいて彼女の瞳から輝きが失われるまで、その瑞々しい肉体がすっかり乾涸びるまで血の美味さが損なわれることもなくやがて、──

「っ、!」

 バッと目を見開き上半身を勢いよく起こす。ハア、ハアと熱く荒い息のまま先ず確認するのは己の手であった。血に濡れていない汗ばんだ手は空を掴み、彼女の骨を折ってはいない。次いで触れる牙は彼女の血を一切吸ってはいない。それらのことを一つずつ否定し、且つ周りから血の匂いが一切していないことまでを確認すると大きく息を吐き出す。

 それを悪夢と呼ばずしてなんと呼ぶ。

 ここ連日雲雀に襲いかかる質の悪い夢だ。見ている最中ですら夢であると分かっていてもそれをどうこうする力は雲雀にはない。自分に恨みがあるのではないかと思えるほど悪質な夢魔の類が近くに潜んで居るのかとすら思えるほど頻繁に見る夢は日に日に生々しさを増して雲雀を追い立てていく。まるでそれがいずれ近い未来で現実になることを象徴しているようだった。
 しかし不思議な話でもある。食す側と食される側、──吸血鬼と人間はそもそもそのような関係のはず。少なくとも雲雀はそう思っていたしこれからもそうであると信じていた。だのに何故このような夢を見る必要があるのだろうと首を傾げずにはいられない。恐らくは無意識なところで彼女の血を吸いたい自分とそうあってはならないと押さえつける自分がせめぎ合っているのだろう。現実では理性が勝ち、夢の中では己の欲望が圧倒する。至って自然の摂理、当然ではないか。だがそれは果たして夢にまで見るほどのものなのか。己の中ではそれほどまでに思い悩んでいたというのだろうか。鈍い思考を払い除けるべく首を大きく横に振るう。どうやらひどく魘されていたらしくぽたりと汗が垂れ落ち、シーツに深いシミを作った。

 吸血鬼は、魔族は深い眠りを必要としない。
 ヒトのように群れる生き物であるならともかく彼らは個々に生きるため、生き残るために最低限必要な休養のみを本能で感じ取る。ヒトとは違い彼らの中に時間なるものはなく疲れたら休息を取り、腹が減れば喰らい、欲したものがあれば奪う。ある程度の常識や社会があるとはいえ自由気ままな生き物である。雲雀もまた例外なくそれに当てはまり、私室のベッドで横になっていたところであった。
 がらんとした部屋は特段真珍しいものもない至って普通の、寝具以外何もない場所である。一人で暮らすには十二分過ぎるほどの広大な面積の屋敷の中、空いた部屋は多数あったがどこに何があるかは把握しているもののそれに用事があり手を伸ばしたことはない。稀にお節介な彼の配下が雲雀の見回り中に掃除をしにやって来る時もあったがどの部屋も雲雀の部屋とそう変わらず、ただただ何もない無機質な部屋に埃が積もるだけなのであった。かつては自分の生みの親である吸血鬼夫婦とそれに忠誠を誓う魔族が住んでいたという話であるが雲雀にとんとその頃の記憶はない。もっとも自分以外の他人をここで住まわせるつもりなど考えたことはなかったのだが。

 現状の把握を終える頃には乱れた呼吸も整っていた。くしゃりと髪をかきあげ、一連の流れが夢であったことに安堵する。どうやら既に夜になっていたらしい。半刻ほど眠れば十分な休養がとれたようだが如何せん夢見は最悪だ。ぐっと力を込めてひんやりとした床へ足を伸ばすとギィと床の軋む音が部屋に響き渡る。視線を僅かに逸らし窓辺を見遣るとそこには配下によって飾らせた花が活けられていて雲雀の昂ぶった感情を穏やかにさせていく。宵の包んだ花束だ。この部屋は雲雀の体質上あまり日の当たらない場所となっているのだがこれらの花にとっても悪くない条件だったらしい。今は月光を浴び美しく咲き誇った花の数々は柔らかな香りを部屋に充満させていた。

「…宵、」

 そこに薔薇の花はすでにない。吸血鬼を拒絶するあの忌々しい赤の花は宵によって取り除かれ代わりに―数段見劣りはしたのだが―鮮やかな花が添えられている。触れてみればそれらは瑞々しく生きているのだと実感させられる柔らかさを持ち得ていた。それでいて芯もあり、尚強い。少しでも手に力を込めればへし折れてしまうというのに凛と佇み続けるそれらはまるで彼女のようだ、などと思えたのはやはり宵が自分の知っているどの女性とも違ったように感じ取れたからだし、そうでなくても惹かれる何かがあったのだとここ数日で知らしめられたからだ。

 だからこそ先程まで見ていた夢は夢であらねばならない。
 実現させてしまってはならない。

 思い出すのは夢の中の彼女の成れの果てである。当然ヒトから血を過剰に吸った場合、ある一定の量を超えれば簡単に死んでしまう。人間の関節の可動域を超えた拘束は簡単に粉砕してしまう。そう、夢の中の自分は逃すまいと彼女の肢体を力の限り拘束し関節をことごとくへし折り、死んだあとも尚一滴残らず吸い上げてしまおうと食らいつき彼女を吸い殺してしまっていたのである。夢の中とはいえ何度も何度も己の腕の中で殺してしまっていたのである。最後に残ったのはかろうじてヒトであったと判別できる程度の萎びた皮。雲雀を魅了してやまない濡羽色の瞳は光を失いすっかり削げ落ち、苦しかったのであろう雲雀の腕には幾千ものひっかき傷ができていたのだがそれも吸血の影響で数瞬の間に癒えてしまう。この手には何も残らなかったのだ。この心は極上の食事を得たというのに何も残らなかったのである。何とも言えぬ後味の悪さ、そして空虚さが居座る場面を幾度見せられてきたことか。吸い殺してしまいたいと思ったわけではないのは確かだったはずなのにあれを見れば何が本音なのかわからなくなってしまう。

 結局のところ自分は魔族なのだ。吸血鬼なのだ。しかし欲望だけが先行してああいった夢を見るものの何も彼女を喪いたいと思っているわけではない。いずれ当初の目的通り血を啜りたいと狙ってはいるのだが今はその時ではない。それだけで果たして満ち足りるのかと初めて疑問を抱いたのも雲雀には経験したことがない事であった。だからこそ彼女を魔族に引き上げる方法をちらりと考えたのである。尤もそれが叶うか否か、その辺りに関しては雲雀自身経験したことがなかった上にほぼ流れの魔族から聞き及んだ程度でしかない知識しか有していないのでどうなるかは分からなかったのだが。

「……これは、」

 ふ、と思考を停止し目を細める。異変に気が付いたのは何気なく窓を開けた時にぶわりと雲雀の嗅覚が嗅ぎ慣れた匂いをとらえたからだった。生温い風が頬を撫で、半月が雲の切れ間から顔を出す。湿気を多く含んだ嫌な風だった。例えばこういった日を最近ナミモリの付近に出現するらしい狼人間は好むのだがまさに適した日と言えよう。満月の日となれば彼らの力ももっと強くなるが所詮は下位種、雲雀の敵となるものではない。しかし人間からすれば同種族以外は全て強敵たり得るのだ。
 とは言え雲雀が以前配った魔具が人々の住居に括り付けられているのであれば自殺志願者かはたまた自分の力の強さを見誤った愚かな魔族が現れない限りナミモリを襲うことはないはずだった。何度か人間が襲われたことがあったもののそれは全て雲雀があらかじめ伝えていた決まりを守らず魔具も身に着けずに出歩いてしまったからだ。それを除けば雲雀がこの町と契約して以来家の中へ侵入し人間を襲ったなどと言った大事件に至ったことはない。唯一例外と言えば宵の住まうところであったが腹立たしいことにあの怪物づかいである男の力は本物で、あれなら吸血鬼に特化した結界であってもその辺の魔族程度では傷一つつけられることはないに違いない。

 口惜しいが、力はあるのだ。
 雲雀の魔力を込めて作られた魔具はそれを身につけた人間、或いは物品が自分の所有物であることの証明となり、手を出した瞬間に雲雀自身へと伝わることとなる。魔族は地位より領土より何より力がものを言う分かりやすい社会だ、吸血鬼とあれば上位に組み込み、つまり雲雀の魔具は人間には分からない領域ではあるものの最強のお守りとも言えよう。メリットとしては雲雀よりも強い魔族が現れない限りそれは恐怖の対象となるので半永久的に効果は得られるのだがその半面、奴らが手を出した瞬間にはいくら雲雀も反応しきれない。その点で言えば怪物づかいの結界は防御に特化している。持続時間は短く、壊されればそれまでだ。しかし自分の力の他にも薬草だの呪具―あれの場合は三叉の槍である―を頼ることも可能なので結界を作るその瞬間に練り高めた魔力は一時的に雲雀を上回ることだって難しいことではない。つまりその時、その場を守るという点であればあの男の作り出す防御結界が適していると言えるのである。しかしそれが未だに動いているのであれば今の事態は有り得ない。

 何故、彼女の血の香りがここまで色濃く匂ってきているのか。

 怪我をせずとも血の匂いは理解る。宵のものであるならば尚更理解している。実際目の前で流れた血を見たのは2度、どちらも理性が雲雀を押し留めたが次は抗えきれるか否かと思えるほどの甘く濃厚なそれに目眩がしそうだったほどだ。しかしこの香りは彼女の血としか有り得ない。嗅ぎ間違えることなど有り得ない。例の怪物づかいが自分を誘き寄せる為の罠かとすら思えるほど、そこまで遠くない場所からのようにも感じられる。
 ゾワリ、ゾワリ。震えたのは先程まで見た夢の所為か或いは怒りからなのか雲雀には判別できなかった。高ぶった感情に反応し目が赤く爛々と輝き牙がギチリと鳴る。何にせよ彼女に手を出すならば許すつもりはない。トンファーは真後ろに置いてあったのだがそれを手にすることを考える余裕すらなく闘気がガラスに罅を入れる。

「――殺す」

 普段は抑えている魔力を解放すれば場所の特定など容易い。そして拮抗状態だった雲雀を突き動かしたのは一際高く聞こえた近頃ここいらで蔓延っていると噂の狼人間の遠吠え。耳障りなそれと、一層強く感じられた彼女の血の香り。そのどちらもが同じ方角であることを理解したと共に窓枠へ足を掛け、雲雀は屋敷を飛び出した。

さすれば嗔恚
 bkm 

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