移動の最中、他に人が森の中に居たとして雲雀とすれ違う事があっても突風が起こった程度にしか認識はしなかっただろうし、その人物が動体視力の優れていた人間なのであれば今まで見たことのない形相の彼を如何に友好的とはいえ改めて怪物だと恐れ怯えていたに違いあるまい。人間にはない湧き出る魔力とは威圧の力にもなり得るのである。それはまるで殺意のような尖ったものだと感じる者もいるだろう。視認できやしないのに一刻も早く息を止めこの場から逃げ出してしまいたいと自ら生命を絶つ者だってそう少なくはない。魔力とはそういうものである。上級魔族が随時魔力を解放していればその地域は生き物どころか植物ですら生えぬ荒れ果てた土地となるほどに、心の底から恐怖を煽るのだ。
 魔族として上位種に位置する吸血鬼である雲雀とて例外ではない。平常時、雲雀は溢れんばかりの魔力を抑えているがそれはどちらかと言うと無理にというよりは息をするように自然と、誰に習うこともなくそれが当然の定めであると何とはなしに理解していたからだ。他人に、特に魔力量がさほど多くはない他の魔族にはこの感覚を教えることは出来ないだろうが、ともかくそれをしなければならぬという力が働き今日にまで至る。

 しかし今は別だ。
 これまでどれだけの強敵─とは言っても雲雀と同格の魔族には出会ったことがないのだが─と戦う羽目になってもこんな状況にまで陥ることはなく、怒りのままに抑えていた魔力を解放したもののほんの僅か、心のどこかで困惑している自分がいるのは確かなことであった。今までに感じたことのない身体の軽さ。重みなどは一切認識出来ず、まるで己が風そのものになったかのように足一本を動かすだけで数メートルも前進する。人間で言えば火事場の馬鹿力なるものと殆ど同じ感覚であったのだろうが当然ヒトではない雲雀にそれを知る術はない。
 そして、次いでこんな時であるにも関わらず感じられる空腹。これの理由は分からないでもない。魔力とは普段は抑えているべきもの。普段は溜め続けているもの。使うべき時に使うだけ取り出し利用するべきもの。恐らく魔力とは己の生命力にも直結しているのだろうと雲雀は感覚的に理解し、早くコントロールし再度抑圧しなければならぬというところまで考え始めていた。そうしなければ次にやってくるのは魔力の暴走、及び空腹による暴走だ。後者ならばまだ良い。精々大人一人、或いは二人の血を飲めば死者は数名現れるだろうが腹は満たされ落ち着くことが出来るであろう。だが前者は雲雀の生命どころかナミモリ全域を巻き込む事態にもなりかねない。荒野に成り果てる可能性が非常に高い。まったくもって人間離れ―否、元々人間ではないのだが―した力だったのだが残念ながらそれは真実であり、それが雲雀恭弥という男に秘められた強さであった。

「その子から離れろ」

 僅か数十秒。

 部屋の窓から飛び出し、森を駆け、泉に到着し、屠るべき敵をその目で捉えるのに要した時間である。本来ならば少し歩かなければならない距離なのだがふと気がつけば既に泉へと到達していた。赤くなった瞳は夜であっても細部まで見逃すことはなく、思っていた通り宵を地面に押し付けた狼人間が突然現れた雲雀を睨みつけている。

「…グ、ルル」

 喉を鳴らす獣の咆哮。数は6、決して少ないわけではない。普段の雲雀であればむしろ少ない人数だとも思えるのだが何しろそこに彼女がいる。ピクリとも動かない様子に狼狽えたがよくよく見れば肩は浅く上下していてどうやら意識を失っているのだと把握した。血は腕、足から数箇所。さほど酷い怪我ではなく、どうやら道中で襲いかかっていた狼人間から逃れる為に森の木々で傷を負ったのだろう。絶賛空腹中の雲雀にはどうやらそれが過剰に感じ取れたらしい。普段であればたかだかそれぐらいの傷から流れる血の程度ではこれほどまでにクラクラと酔いそうになったり、はたまた口内を唾液で溢れさせることはないのだが今回ばかりは異常だった。いや、それを気にしている場合ではない。早く彼女を救わなければ。

「聞こえなかったかい」

 狼人間は動かない。例の泉付近にある結界の中であればこのような行為は起こることもなく彼らの身体が不思議な力によって千々に引き裂かれていただろう。が、その辺りは流石に恐ろしさは理解していたのかこの少し離れたこの場所を狙う程度には知能もあるらしい。下位種に位置する狼人間は肉体の強靭さが売りではあるのだが如何せん知能はさほど高くはないとされている。基本的には山奥に生息するとされほとんど見やることはなかったのだが最近は餌にありつけることもあり町へと下りてきてしまったのだろう。まさかこんなヒトの住む界隈に吸血鬼が住み着いているなど予想することもなく。

 本来であれば雲雀は圧倒的不利な状況である。数は負けているしある意味人質もとられているのだ。しかしそうならないのがこの雲雀という男の持つ力である。言語が通じる通じないの問題ではない。ここから先はヒトでは決して理解のできぬ、その魔族間の話。そう言えば最近はそこまで自殺願望のある輩は居なかったなと思いながら雲雀はただ「そう、」とだけ呟き素直に力を解放する。

「――っ!?」
「君達は誰を目の前にしているのか、理解する必要があるね」

 吸血鬼は他の魔族に比べると人間に一番近しい容姿をしているのだが持っている力となれば他とは比べものにもならぬ地位を持った上位種となる。そしてそれは人間では分からずとも同じ魔族の者からすれば身体の内側から感じられる膨大な魔力、相対することにより抱く本能的な恐怖でもって相手がどうであるかを判断できるのである。魔族の間であっては人間のように名前や地位を名乗る必要などない。ただ己の本能に従えばよいのだ。つまるところ、――屠るべき相手なのか頭を垂れる相手なのかは己の尺事情尺に拠ればいいというだけで。
 淡々と告げた後に魔力を解放すれば狼人間は雲雀に抗えるはずもない。それは幾ばくかのプライド、或いは目の前に餌がある状態であっても変わりはない。特に狼人間という種族は襲いかかる相手の力を把握する能力にも長けているのだ。自分よりも強い相手の魔力を感じたことのない雲雀にはその感覚が理解できようもなかっただろうがこの時、狼人間に襲いかかる恐怖というものは想像を絶するものであった。自分達がどう足掻いても敵いそうにない魔力を有する相手が現れたことなど彼らにはなかったのだろうか。後ろに控えていた数匹は本能のまま雲雀を見ることもなく逃走し、また1匹は圧する力に耐えることもなく泡を吹いて地に伏せる。さらに1匹は混乱し雲雀へと襲いかかったのだが当然震える腕が雲雀を傷つけることもなく、その尖った爪が服をかすめることもなく一発で近くの大木へと叩きつけられ気絶する。力の差は歴然だった。あっという間に宵を抑え込んでいる狼人間以外は戦闘不能状態に陥り、後はかろうじて正気を保っている1匹のみ。それももう時間の問題だろう。雲雀の力に心の底から怯え、恐怖し、彼女を掴んでいる腕は離れているこちらからでもすぐに分かるほど震えているのだから。しかしそれでも彼女の手を離さないのは狼人間からしても彼女は極上の餌だと思っているのだろうか。それならば、

 ――許されないな。

 髪の毛1本たりとも彼女を譲るつもりはなかった。それどころか彼女に触れた時点で狼人間の生命を保証するつもりは毛頭ない。嗚呼、これこそが魔族の自分なのだ。彼女に触れたい、話したい、もっと知りたい。そう考えたとしてもいざ目の前にすると彼女全てを己のものにしたいという気持ちで溢れている。しかしそうしてしまっては夢の中通りになってしまう。彼の世界だけならばまだいい。だがこの世界は現実で、彼女は一人しかいない。
 未だ尚触れることすら許されることではない。しかしここで狼人間を殺してしまっては彼女が傷つく可能性がある――そう考えるぐらいの余裕が生じる程度に雲雀は少しずつ落ち着きを取り戻し、垂れ流し続けていた魔力をコントロールする術を身に着け始めていた。残る相手は一匹。人間にはこの魔力の影響は出ないというがそこの狼人間が混乱し彼女を貪り食ってしまうことだけは避けなければならない。ならばここですべきことは狼人間を殺すことではなく圧すること。屈服させることなのである。

「牙を剥く相手を間違えてはいないかい」

 果たして、全ては雲雀の思惑通りとなった。ふ、と糸が切れたかのように狼人間は腕の力を抜き宵を開放する。鋭い爪は彼女を傷つけることもなく地面に寝かせ、ゆっくりと雲雀に背を向けることなく意識を失った仲間を掴みながら後退し始めたのだ。腕力で物を言わせるタイプの彼らにしてはなかなか理解のある輩であるらしい。ズルリ、ズルリ。狼人間は泡を吹き倒れている仲間を引きずり闇に紛れながら雲雀を見やった。金色の目が爛々と燃えている。

「同胞よ」

 それはしゃがれた、唸るような声であった。彼らは彼らの言語があり、基本的には魔族共通の言葉を話すことはない。不要な戦闘は基本的に避けるために他種の匂いを過敏に嗅ぎ取り他の魔族と遭遇することはほとんどなかったからである。話す力も残っていることすら珍しく、流石頑丈さが特長の種族なだけあるようだった。もっとも今の雲雀にそれを聞く余裕まではなく、彼らが後退する分だけ雲雀は前を進む。威圧し続ける。一定の距離をとり、やがて宵の前までやってくるとしゃがみ込み彼女の顔を覗き込んだ。気を失っているだけなのだろう、穏やかな寝息を見遣ると華奢な身体を横抱きし立ち上がる。
 これまで幾人ものナミモリを襲った連中を掴んでは投げてきたがこのようにして人を持ち上げたのは初めてのことだった。有り余る力で壊してしまいそうだと思えるほど触れる肌は柔らかい。すう、すうと息をするたび身体がわずかに上下している。嗚呼、彼女は生きている。血の匂いは相変わらず雲雀の理性を刺激するが今はそれよりも彼女の生存が確認できたことへの安堵が勝り先程までドロドロと己の中に巣食っていた感情が解けていくようであった。こうなればもはや狼人間達に用はない。宵を起こさぬようそのまま彼らを睨みつけ下がるよう命じると彼らはその対応に狼狽する。

 当然のことであった。

 魔族の社会とは即ち力が全てであり、今回の状況で言えば狼人間は間違いなく全員が殺されても仕方のない事態であるのだ。このナミモリ一帯に張られてある魔具の類を、この嗅覚が優れた種族が気付かない訳がない。つまり彼らはここが自分達よりも強い魔族の所有物、或いは支配域であるにも関わらず目溢しを狙い立ち入った。が、残念ながらそれは許されることなく当人がやって来てしまった。これは許されることではない。恐らく他の魔族であればこの辺りに住まう狼人間達全員を滅ぼすことすら有り得るほどの禁忌なのである。普段の雲雀でもそうするところだったであろう。しかし今はそれよりも優先すべきことがある。ただそれだけの単純な理由だったのだが狼人間達はそれを知るはずもない。未遂とは言え彼の所有物に値する地域のヒトに手を出してしまったというのに、目の前まで彼は姿を現したというのに彼は自分達をこれ以上咎めない。それがどれほど異質なのか雲雀は知らない。だから、なのだろう。狼人間は自分よりも格上の相手である雲雀へと敬意を表し声をかけたのは。

「同胞よ、その女は貴方の手に余る」

 その意味を推し量ることはできなかった。彼らは同じ種族で群れを成し生きる種族。生死に関わる事柄ではない限り、他種族と交渉するような種ではない。彼らは彼女を知っていたのだろうか。彼らは何故彼女を狙ったのだろうか。確かに彼女は自分の魔具を身に着けていないとは言えここは雲雀の住んでいる場所に最も近い。危険度で言えば一番軽んじてはならないところに居たというのに敢えて手を出したのは彼女が何者なのか知っていたからなのか。――否、そのようなことはどうでもいい。問題は宵に手を出したということなのだから。
 不思議と不愉快な気分にはならなかったのは恐らく彼らが決して雲雀を騙そうとしているような声音ではなかったからなのだろう。それどころかむしろ、――むしろ、同じ魔族の雲雀の身を案じるような様子まで伺えたのだからこちらもそれ以上責め立てる訳にはいかなくなってしまう。興醒めにもほどがある。これが狼人間達の手法だというのならばなかなかなのものなのだがそうではないと理解るからこそどうしようもない。宵を抱いたまま傲慢な様子で話しかけてきたリーダー各の狼人間を見下ろす。

「君達には関係ない」
「──いずれ殺しておけばよかったと悔いるだろう」

 彼らの言いたいことはいまいち理解できない。まるで宵を殺すことが自分の為のように言う理由が理解できない。大方、あの怪物づかいである骸の匂いがしているからだろう。嗅覚の優れた彼らは恐らく自分よりも嗅ぎ取っているはずなのだ、彼女が身につけずとも部屋の中にいる限り身体に、服にこびりつく例の吸血鬼避けの呪具の匂いを。雲雀はそう解釈すると一刻も早く立ち去れと言わんばかりに手をひらりと振るう。その傲慢な態度が許されるのは強者だからこそであった。数瞬の後には頭を垂れた狼人間達が全て撤収し、また森には静寂が訪れる。

「…宵、」

 危機が去ったのだと肌で感じ大きく息を吐いた。それと同時に赤い瞳も、尖った牙も、鋭くなった爪もゆるゆると平常通りに戻っていく。魔力はいつの間にか抑圧できるようになっていた。目的が達せられたからだ。指で彼女の頬を撫ぜ、やがて雲雀は歩き出す。

 人間の生命を、血を摂取し生きる魔族が1人の女の生命を守るために他の魔族を威嚇し、しかも自分の邪魔をした相手を殺すことなく逃す――それは魔界ではとんでもない事態であったのだが他の魔族事情に興味のない雲雀が知るはずもなく。ただ穏やかに、緩やかに。宵の寝顔を見つめる彼の柔らかな表情を目にした者は誰も居なかった。
 bkm 

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