耳を澄ますと感じられる木々のざわつき、生温い風。見逃してやった狼人間達はとっくにこの場を離れ、敵どころか生物の気配が欠片も感じ取れなかったのだが間違いなく雲雀が先程まで放っていた魔力の影響なのだろう。すべては雲雀の力に怯え、逃げてしまった所為で此処に居るのは意識を失ったままの彼女と空腹の自分の2人だけ。何をしようとも何を話そうとも喚こうとも逃げようとも誰も来ることはない。

「……生殺し、か」

 ちらり、視線を落としてみると彼女は相変わらず目を覚ますことなくただ静かに眠りについている。規則正しく上下する細い肩、あまり日焼けをすることのなかったのだろう白い肌。この体勢では手足の傷を確認することはできなかったのだが、濃厚な血の香りが何よりも雄弁に物語っている。別段飲まなければ死んでしまうところまで陥っている訳でもないのに彼女の血は雲雀の吸血鬼としての欲望をこれでもかと刺激し、思わず月夜に照らされ顕になる首筋に視線が釘付けとなった。
 先程までの穏やかさはどこへやら。ゴクリ、唾を飲む音が彼女に聞こえてしまうのではないだろうか。ドクン、ドクンと人間と同様、人間と全く同じ位置にある心臓が早く鳴っていくのを感じながらそこから視線を外すことが雲雀はできなかった。
 吸血鬼として生を受け数十余年、幾人もの人間の血を吸ってきたがどれもこれも不味いと思ったことはあれど格別美味いなどと感じたことは一度もない。しかし所詮は生きるために必要なことでしかなく、そんなものなのだろうとその程度にしか認識していなかった。だがこの腕の中にいる彼女は例外であると本能が告げている。格別美味いに違いないと悟っている。飲んでしまえと本能が求めている。どうしようもなく彼女を欲している。しかしその欲望のまま動けば最後、恐らく幾度も夢で見たような悲惨で、空虚な結末が待っていることもまた分かっていたからこそ雲雀は何も動けずにただ立ち尽くす。

「…っはァ、」

 耐えろ、
 耐えられない、
 堪えろ、
 堪エられなイ、
 飲むな、
 飲みたくない、
 飲みタイ、
 飲マせロ、

 ――飲まなくてハ。

 自分の口内の皮膚を傷付け、血でいっぱいになるがこの味では駄目なのだ。自分のものでは意味がない。彼女のものでなければ。彼女の、生きた彼女に流れるあの血液でなければ意味がない。理性と欲望が何度も激しくぶつかりあい、その都度雲雀の口の中には吸血衝動が起こった場合に突出する牙がガチガチと鳴り響く。宵の無事を安堵している自分、この柔らかな肌に牙を突き立てたいと願っている自分、めちゃくちゃにしたいと思う自分に、あの取り留めもない会話をまたしたいと期待している自分、もうどうなっても良いから宵の血液を啜ってしまいたい自分…矛盾しきったそれらの願いは悲しきかなどこまでも拮抗し続け雲雀を苛んでいく。
 魔族とは欲望のままに動く生き物だ。
 欲しいものは奪い取り、願ったものは必ず叶える。それが他者を傷付けようが殺そうが気にすることはない。しかし今回に限ってはそのどれもを叶えることは物理的に不可能であり、何かを選び何かを捨てるということをしなければならなかった。しかしながら雲雀はその方法を知らない。妥協という言葉の存在すら知らなかった。その傲慢までの力で欲したものを余すことなどなくすべて手に入れてきた強者が初めてぶつかる、果てしなく高き矛盾の壁。衝動を落ち着かせようとしてみても肉体はどこまでも本能を優先させるよう出来ており我慢は最早限界に近い。このままでは不味い事態に陥ってしまうのは時間の問題である。
 だが、それだけはどうにか回避しなくてはならない――かろうじてそう考えることはでき、のろのろと顔を上げ、雲雀は重い身体を叱咤しゆっくりと前へ進んでいく。彼女の軽い身体には何も弊害にはならず、落とさぬよう、また傷付けぬよう慎重になりながら前へ、前へ。

「……ん、」

 息苦しかったのか、はたまた雲雀から溢れる魔力が少し影響を及ぼしたのか腕の中の宵が眉根を潜めながら少し身じろいだ。ジワリ、体勢を変えたことにより垂れて雲雀の服を少し染めた赤を舐めるぐらいは許されるだろうか。否、それを味わってしまったが最後物足りなくなり恐らく喉に噛みつき瞬く間に血を啜りきってしまうに違いない。それでは駄目なのだ。夢の続きをここで見るわけにはいかないのだ。
 雲雀の理性を揺らがす、唆す声を全て封じ込め、色んな思考を綯い交ぜにさせながらそれでも前へと確実に進んでいく。砂を踏む自分の足音のみが聞こえ、あとはそれだけだ。周りを見渡しても相変わらず他の生物の気配を感じ取れず、代わりに研ぎ澄まされた嗅覚が宵の血の匂いを確実に選り分けていく。スン、と鼻を啜ってみればまだまだ森の奥からも嗅ぎ取ることができて、恐らくはそこから逃げてきたのだろうと思われる。あの狼人間相手によくぞここまで逃げられたものだ。彼らは狩猟能力には優れているし人間如きが敵うはずもない。こればかりは幸運としか言いようがなく、本来ならば今頃彼女は彼らに食われていただろう。否、あの狼人間の言動からしてただ殺されて終わりだったのかもしれない。
 何にせよ捕まっていれば彼女の生命はなかった。雲雀が生きた彼女をこうやって抱き上げることすらできなかっただろう。そう考えると抱きとめる腕に自然と力が入る。彼女は誰にも渡すつもりはない。誰にも食べさせる訳にはいかないし誰のものにもさせる訳にはいかない。狼人間にも、あの忌々しい怪物づかいにもだ。

 ――ジャリ、

 やがて立ち止まったのは彼女が逃げてきたであろう場所。例の”癒しの泉”と呼ばれるところに辿り着くと雲雀の頬からつ、と汗が垂れ落ちる。宵の流した血の匂いを追っていくとちょうどこの辺りで途切れていたのだが、やはり雲雀の想像した通り宵はこんな夜中であるにも関わらず人気のない泉にまで足を運んでいたらしい。初めて出会った時に一人歩きは止めておくよう忠告はしたのだがすっかり忘れていたのか彼女がその時に答えたようにまさか自分が魔族に襲いかかられるとは思ってもみなかったのか。何にせよ狼人間は泉の付近に張り巡らされた結界を抜けるまで待ち伏せし、彼女がそこを出た瞬間に襲いかかったのだろう。結界の中に逃げ戻ってしまえばよかったのだがそう思いつくこともなく離れてしまった結果がこれだ。
 目に見えぬ結界――この”癒しの泉”の中で悪さを働こうものであればたちまち泉の怒りに触れ今までそこで恩恵をあやかってきていた者達の分の傷を一身に受けるという謂れがあり、実際それが機能しているのを見たことがあるのだが現状自分がそれを受ける可能性は非常に高い。誰かの術式なのかもしれないし本当に神なるものが居るのかもしれないが気にしている暇はない。しかしそれ以上に優先すべきことがある。宵をこの中へ運ぶ以上に大事なことなどあってたまるものか。黙って空を見上げた後、躊躇なく雲雀は宵を腕に抱いたまま結界へ向けて一歩足を踏み出す。

 はたして雲雀はそれらを受けることはなかった。
 その身を空から降ってくる雷によって身を焼かれることもなければ全身を鋭い痛みで襲われることも、また、氷漬けされることもなかった。近づいた際に爪先がチリチリと火花を放ったが結界による拒絶はせいぜいそれぐらいで、その後は何の妨害もなく結界の内側へと身を滑らせる。なぜ見逃されたのか、そもそも自分には例のシステムが適用されなかったのか、はたまたこれが人間の救助のためだと向こうが把握していたか定かではないが侵入できたということが事実。雲雀の行動は認められた。雲雀は結界の内側へ入ることを許されたのである。
 1歩踏み入れるとその先はいつも通りではあるものの違う世界のように感じられた。同じ空気、同じ酸素、同じ木々──結界の外側と環境は全て同じはずだと言うのに清浄化されているかのよう。もっとも本当に聖域であれば己のような魔族はたちまち身体が灰になってしまっていただろうからそうではないと分かっているのだが。

「……きょ、やさん?」

 宵が意識を取り戻したのはちょうどその時だ。もしかすると彼女もその空気が変わったことを肌で感じ取ったのかもしれない。ぴくりと瞼が動いたかと思うと闇色の瞳が次第に光を取り戻し雲雀を見上げるまで、雲雀はその動きに釘付けとなっていた。狼人間達を追い払ってからそれほど時間は経っていないはずなのだが、しかしそれがどれほどまでに長かったことか。また彼女が目を覚ましてからのその動きはもっと短く、瞬き程度の時間でしかなかったはずなのだがそれがどれほどまで長く感じられたことか。しかしその動きがあったからこそ雲雀は先程までの高揚していた感情、欲望がたちまち消え去ったのは確かである。

 もしもあともう少し彼女の目が覚めるのが遅かったならば。
 もしも目を覚ました彼女がいつもと違う雲雀に怯え逃げるような素振りを見せたならば。

 もしかすると結末は変わっていたのかもしれない。己の内側からの欲望に抗いきれず首筋に牙を突き立てていたかもしれないし、逃げようとするものなら逃すまいと本能的に彼女を抱きしめている腕に力を込め捻り殺していたかもしれない。
 しかし彼女はそのどちらの行動も取らなかった。ハッと目を開けたもののそこにいるのが狼人間ではなく雲雀であると理解れば安堵したかのように息を大きく吐き出し、しかしそれだけであった。余程彼らに追われたことが恐ろしかったのかもしれないし、或いは今、吸血鬼らしい特徴を出してしまっている雲雀のことが夜であったせいで見えなかったのかもしれない。どちらにせよ彼女が無意識だったとは言えとった選択は最良で最適であったことに違いはない。

「…あの、人たちは」
「帰ってもらったよ。もう大丈夫」
「そう、ですか」

 声は少し硬い。雲雀がそう言い宥めても周りに視線を走らせ確認する程度には恐ろしい出来事であったに違いない。やはり見逃すことなんてせずに殺しておいた方が良かったのかもしれない、などと不穏なことを思いながらも結界は雲雀に対しそれ以上威嚇してくることはなくただただ泉に向かって歩み続けていく。
 やがて目的の場所にまで到達するとそのまま宵を側にある岩場へと彼女を下ろす。やや不安げな瞳がこちらを見上げるが自分は何もするつもりはないと示すために宵の柔らかな頬に触れ、少しだけ口端を持ち上げてみせた。「待ってて」小さく呟き、宵が頷いたのを確認するとするりとそのまま手を引き、背中を向け泉に向かって数歩、わかりやすいぐらいまでに彼女の視線がこちらに注がれていることを感じながら泉の端にしゃがみ込んだ。
 水面は一切波打つこともなく静かなものである。そこに映っているのはやはりいつもよりも魔族らしい見栄えをした自分であった。爪は獲物を逃さぬよう尖っているし、薄く開いた口からは今すぐにでも吸血できるよう牙が突出している。目が爛々と赤く妖しく輝いているのは言わずもがな。こんな状態でも彼女は狼人間を恐れるのだ。まったく不思議で変わっていて、それでいて惹きつけてやまない存在――厄介だとは思えどそれは決して排除すべきであると警戒する類のものではない。むしろ逆であるからこそ悩ましい。

「……悪くは、ないかな」

 ピチャン、手を泉に差し入れると何とも冷たく心地よい感覚。雲雀自身は一切怪我を負っていないのだが手指に付着した宵の血液がサラサラと流れていき、匂いが薄まっていく。完全にそれらがなくなったことを見届けた後、持ち運んでいた小瓶を懐から取り出しそれにとっぷり汲んでしまうとゆっくり立ち上がる。もちろん目的は彼女の怪我を治すことだ。身体ごとこの泉に浸してやった方が良いのかもしれないが如何せんこの冷たい泉は彼女の疲労した身体には負荷がかかる。

「少し冷たいけど我慢して」

 早々と彼女の元に戻り、手前で跪きながら告げればいくら目を覚ましたばかりの彼女でも何をされるか嫌でも分かる。言葉はなかったが小さく頷く気配を読み取ると岩場に腰かけた彼女の細く白い足へ容赦なく水を振りかけた。
 前もって宣言していたがいざそうなるとその冷たさに驚いたのか反射的に引っ込めようとするも雲雀がそれを許すはずがない。まるで小動物を追う肉食動物さながらの速度で足首を引っつかむ。ビクリと揺れた足をほんの少し気の毒に感じないこともなかったが彼女の快・不快を優先するわけにもいかず、小さな悲鳴には聞こえなかった振りをし、小瓶に満たされた水がすっかりなくなってしまうまでかけてしまうと足にあった細々とした傷が確実に癒えていくところをしっかりと自分の目で確認する。自身の傷ならば見向きもしなかったし他人の怪我を癒すことなんてしたこともなかったので改めて不思議な恩恵、不思議な現象であると思わざるを得ない。

「立てるかい」
「…だいじょう、ぶ」

 スカートから覗く膝から足先まで怪我が癒えてしまったことを確認すると今度は宵を立たせ、共に泉へと向かう。立ち上がった瞬間はぐらりと傾ぎ雲雀に寄り掛かったもののそこからはしっかり自分の足で歩き、雲雀が見守る中、泉の真ん前でしゃがみこんだ。細い指先で水面をなぞり、そうしてゆっくりと指、手首、腕と少しずつ水の中へと突っ込んでいく。雲雀の立っている位置からでは彼女がどのような表情をしているのか見ることができずただその傷の治療具合だけを確認するだけだ。
 まるで、魔法。逃げている最中、恐らくは木々で傷つけてしまったのだろう細々とした傷は元々ふさがり始めていたのかすぐに生々しいまでの血の匂いが掻き消えていく。泉は血に染まるわけでもなくやがて宵の動きはピタリと止まる。

「…宵?」

 ひょいと覗き込んでみるも闇色の瞳はしばらく放心した様子であった。すでに傷は治りきっているというのに泉から手を抜くことはなく、雲雀が半ば強引に立ち上がらせるまでぼんやりと湖面を見つめ続けており冷たくなってしまった手を己の手で覆うとようやくぎこちなく宵は笑みを浮かべてみせた。

「…迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
「怖かったんだね」
「……は、い」

 ふるりと長い睫毛が震える。気が付いた時には目尻に涙を浮かべてはいたのだがなかなかどうして彼女は気丈であった。これ以上心配をかけまいと思ったのかもしれない。しかし他人に興味のない雲雀ですらそれが強がっているのが手に取るようにわかる。一人ではないということに安堵したのかもしれないし、それが見知った相手であれば尚更というところだろうか。もっとも相手は人間ではなく吸血鬼というれっきとした魔族であったのだが。

 このまま帰す訳にはいかない。

 人間に向かって儚いだのと感じたことはなかったのに今捕まえておかなければ彼女が消えてしまうような錯覚にまで陥り雲雀はそのまま腕を伸ばし、宵の後頭部へと手を遣り、己の胸に押し付けた。まったくの無自覚であり、だからこそ危うく、目が離せない。夜の色をした髪の間から見える細い首に思わずゴクリと生唾を飲み込み、そして雲雀の中にも存在した僅かばかりの良心が彼女の安全を確信したと同時に底へと堕ちていく。そう、まるで彼女とは正反対だ。危険だった自分を助けてくれた相手に対して感謝し、感情を素直に曝け出している宵とは。ドロドロ、どろり。何なのだろうこの感覚は。心地良いこの感情は。今なら何でもできそうだ――先ほどまでとは違った高揚感に襲われ、そうして先ほどまで宵の身を案じていた自分の代わりに顔を出したのは。

「…一緒に来るかい」

 それは優しさに満ちた響き。一人では帰ることもできやしないだろうと心配した声音に感じられたのかもしれない。先ほどまで恐ろしいことに巻き込まれていた人間が誰かに助けられたとして、その誰かを信頼しないはずがない。その相手は自分に危害を加えるはずがない、とそう考えるはずだ。その相手は信頼できると感じるはずだ。
 果たして彼女は気付くことはなかった。彼女の恐怖心につけ込んだ甘い甘い響きを悟ることはなかった。また優しく頭を、頬、首、背中を心配しているかのように撫でた手が危険に満ちているなどと思うこともなかった。一切躊躇もなく雲雀の腕の中でしがみつくように抱きついた宵は雲雀を見返すこともなく静かに頷いたのである。目を爛々と赤く輝かせ、弧を描く口から牙が覗いていることに気付くこともなく。

「おねがい」

 宵の返答を聞くや否や雲雀はそのまま彼女の願いを叶えるべく地を蹴った。
 次の瞬間、その場は誰もいなくなる。
 bkm 

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