人を抱き抱えて走る速度とは到底思えない。
流石ヴァリアーの人ですね!なんて軽口を言える状態でもないことは流石の私も空気読んだ。どうしてスクアーロさんがあの場所に来てくれたのか気になるけどそれも今は聞き難い。
どれぐらい経ったのだろうか。ようやく屋根から屋根へと渡り走るという普通の人間じゃ考えられない移動が終わり地へと着地する。どこかのアパートメントだ。
足音も荒く、私を抱えたまま私が借りているところとは格の違う建物に入る。ガチャガチャと大きな音を立て、大胆にも足で開けるとそこに広がる部屋はいつかこういうところに泊まれればいいなーなんて本で調べたことのあるような広々とした一室。
つかつかとそのまま歩みを進めようやくソファに降ろしてくれたと思うと、そのまま真正面に彼は中腰になり背もたれのところに手を押し当てジロリと強く睨んだ。
「…あの、スクアーロさ」
声が、かすれた。
彼の事を怖いと思ったのは初めてだった。ここまで一言も発さなかったスクアーロさんはそのまま私の頬にふれたかと思うとそのまま顎をつかまれ彼と視線を合わせられた。灰色の瞳は、怒りに燃えている。その薄い唇は、ギリリと噛み締められていた。
怒りは、他でもない私に向けられていた。
見られている。見透かされようとしている。その目に耐え切れず押し黙った。「…何で、」やがて小さく呟かれたその意味がわからず彼の顔を見返していると、それ以上言葉は発せられることもなく無言のまま噛み付くようにして唇を重ねられる。
(な、…っ!)
いきなりのことに頭の中が真っ白になる。驚いて身をよじろうとしても彼の力強い腕から逃れることもできなければ、顔を逸らすこともできない。
スクアーロさんから受けるこのキスは一体何の意図が含まれているのかと考える余裕すらない。
「っんん!」
ドンドンと広い胸板を叩いてもびくともしない。
座らされたこのソファは引き倒すとベッドになるタイプのものだったことに気付いたのは器用な事にキスをされながら自分の視界がスクアーロさんだけではなくゆっくりと天井も映し始めたからだった。
どうしてこうなっている。
抗議の声をあげようとした口はいつのまにかスクアーロさんの舌が侵入し絡み取られている有様で、逃げようにも執拗に追いかけ、吸われれば甘い痺れに体が震える。
いつのまにか彼の手は私の身体を這っていた。愛撫というよりは、撫ぜるというよりは、そこに私の身体があるかどうかと確認するようなそんな強い手つきだった。
「っん、ふ…ぅあ」
口付けの合間、息を継ぐことすら侭ならず乱れる呼吸とどうしてこうなってしまっているのか分からない恐怖に身体に触れるスクアーロさんの腕を握った。
ハッとするスクアーロさん、突然入ってくる新鮮な空気。
キスで殺されるかもしれないなんて思ったのは生まれて初めてだった。ドクドクと心臓の大きな音、触れられた感触がまだ身体にある。小さく「悪い」という言葉に、もう怒りは含まれていなかった。
スクアーロさんの骨ばった指に掬われ、初めて気付く。私は声もなく泣いていた。
「…どうしたんですか、スクアーロさん」
ベッド以外で泣かせるつもりはないんじゃありませんでしたっけ? なんて軽口、言おうとしたけど空気は読みます、私だって。ソファベッドで寝転がりながら私の拘束は解いたものの未だに退こうとしない彼に問いかけると灰色の瞳は僅かに揺れ動いた。
「――何で俺に、言わなかった」
その苦しげな表情の意味をようやく理解した。
私は自惚れなんかじゃなく、彼に想われていることを。そして、さっき私が思っていたようにこの気持ちが深くなる前に、大きくなる前に離れなかったことを悔いた。
スクアーロさんは知ってしまった。
恐らく明日のパーティの件を、聞いたのだろう。そうだ、彼は今日で私の護衛は終わるんだった。最後がこれか、なんて思ってもいられない。悪いのは全て、私なのだから。
しまったなあ、なんて思いながらくしゃりと自分の髪を掴むと不意に自分の手が赤く染まる。ああ、さっきの血。
あれから私は自分の顔を鏡で見ることはなかったけど結構髪や顔にさっきの人の血がこびりついていたらしい。そんな私の視線に気がついたのかスクアーロさんは背中の下に手を差し入れ起こしてくれた。
「先に血、落として来い。…それから話がある」
「…わかりました」
「……一緒に入るかぁ?」
「っ結構です!」
私の大声が面白かったのかくつくつと笑うスクアーロさんを放って、タオルを受け取ると浴室に直行した。
バンッと大きく閉めて、それからずるずると床へと座り込む。
心臓の音が、痛い。バクバクと大きな音はさっきのキスのときとはまた違う意味で鳴り響いている。
これは逃げられ、ないなあ。黙っているつもりだったのに。
シャワーを浴び自分についた血がゆっくりと落ちていくのをぼんやりと見ながら色々とフクザツになってしまったこの現状をどうしようかと乾いた笑みを零す。
どうしたらよかったのか。どうなっていたらよかったのか。
私にしては珍しく、めんどくさいの一言で片付けることなくそんなことを考えていた。
――ごめんなさい、なんて思わず小さく呟いた声は幸いにもザァァと大きな水音にかき消されていった。