綺麗な部屋だなあ、と響は満足そうに案内された部屋から外の景色を見た。
電車とバスを乗り継いでおおよそ四時間。紅葉時期ともありなかなか見頃だが平日ということで値段も週末に比べるとかなり安い。海外旅行の資金にと考えていたのだからこれぐらいは贅沢しても罰は当たらないのだと自分に言い聞かせ、いつもよりも奮発して良い宿を選んだのも間違いなかったようだ。
女性の一人旅と知った親切な宿の女将がマップを持ってきてくれて観光場所や、とっておきの場所をマーカーで印をつけていくと今度はマップが印だらけになってしまって困りましたね、と二人で笑った。とても色気のある女性である。
こんな風な人間になりたいものだと同性として女将を見ているとおや、と彼女が顔をあげた。響もそれに続き同じ方向を見ると何やら隣でガタンガタンと音がしていることに気付く。隣は、確かもう一つ部屋があったようだが。
「…隣が騒がしいのね」
「すいません、海外のお客様がこられていまして。よろしければお部屋を交換いたしましょうか?」
「いえ。私も外に出てのんびりする予定ですので」
やはりこういう気遣いは有難い。
申し訳なさそうに話す女将ににこりと微笑んで響は目的地である温泉へと早速足を向けた。
温泉は心も体も両方癒してくれる。
こういうとき日本人でよかったな、なんてのんびりと浸かりながら身体を伸ばすと朝からの長時間の移動で強ばっていたものが緩やかに解れて行くのがわかった。
リフレッシュ休暇というものは本当にありがたいものだと思うがそれでもせめて同僚の誰かと少しでも被らせてくれればいいのにと、紅葉を見上げながら思う。
旦那は疎か恋人すらいない響がもし一人旅も平気だというのでなかったら今頃はまだ部屋にいて、何の変化もない一週間を過ごしていただけだったろう。
「…生き返るなあ」
ちゃぷんと湯を手で遊びながら響はほっと息をついた。
仕事は充実しているし、同僚にも恵まれている。
最近では色々なことに目を配ることが出来るほどには余裕も出来て帰り道にあるバーに寄る程度には鍛えられているとでもいうのだろうか。誰とでも朗らかに話し、波風立たさずに人付き合いをしてきた響の、他人にはなかなか無い長所の一つだった。
人と話すことも嫌いではないが一人で動くのも気楽で昔から好きだったこともあるのだろう。今になってそれが活きているのはありがたいことだと思う。
逆上せてしまう前にさっさと温泉からあがり、髪の毛も乾かす。その際にもすれ違う人達に話しかけたり話しかけられたりして、何だかんだと旅を楽しんでいる感じがする。これもきっと醍醐味の一つなのだ。
響の宿泊する部屋は2階の、奥から二番目。絶景ポイントは勿論奥の部屋に当たるがそうであったとしても側面から見ても十分に美しい。
「綺麗…」
ライトアップされた紅葉の美しさに、部屋に入るのをやめて廊下の奥の窓にぴったりと寄り添った。
この素晴らしい景色を、一番奥の部屋の人間は部屋にいながらにして満喫しているのだろう。それでも、今この見ている景色で十分だった。
寧ろ一人で見ている方が少し寂しいかもしれない、なんて少し感傷的に思ったりもして。
子供のようにぺったりと窓に張り付いていると真後ろでギィと音がする。思わず振り向くと手前の部屋の扉が開いたところだった。
「あ、こんばんは」
「……」
ひょっこりと顔を出し響の挨拶に僅かに礼をしたこの銀髪の人が、昼間煩かった人間なのだろうか。色素といい確かに外国の旅人なのだろうが、それにしても女性ともとれる美しい男性だ。
響の今立っている場所は窓の前であり、そして彼の部屋の前である。もしかすると響の声が聞こえて気分を害してしまったのかもしれない。
そう思って頭を下げようと彼を見るとどうやら様子がおかしいことに気付く。
よろめきながらも歩こうとした彼に、大丈夫かと声をかけた瞬間だった。
部屋の中から何かが飛んできて、それが彼の後頭部に直撃するのを間近に見てしまった。
「ぐぁっ」
「きゃあ!」
ぐらりと男の身体が傾げ、こちらに向かって倒れてきた。
つい反射で手を伸ばすが当然のことながら響の細腕で支えきれるものではなく、
「…っ、おい!お前大丈夫かぁ!?」
揺れる視界と背中の痛み。そして誰かの慌てる声が遠くに聞こえたような、そんな気がした。
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