amber | ナノ


 仕事はとても充実している。
 新人の時には何が何だか分からないままに指示された内容通りをこなし無我夢中といった具合ではあったが、入社後数年経過もすれば自分のやってきたことの全貌が読めてきて前もって準備したりだとかが出来てくれば達成感なるものも感じ始めてもいた。
 ただそれが功を成したというべきなのか、響のいる部署が評価されたと同時に仕事量が前よりも格段に増えてしまいゆっくりする時間が取れなくなったというのが現状で、そうなると一日は二十四時間であるという覆すことの出来ない現実がある以上は何かを削り調整するしか方法はなかった。
 一人暮らしで週末になれば帰り道にあるバーにふらりと立ち寄る程度の小さな楽しみしかなかったこれまでの響であればそれは何ら問題はなかったがほんの少しだけ困っていることがある。

 今日も今日とて例外ではなく仕事が定時に終わる事もなくタイムカードを打つのも随分と遅くなり、電車でもうつらうつらしながら最寄りの駅のアナウンスで飛び起き夜道を歩いていた時分であった。
 鞄の中に入れてある携帯が震え、ハッと画面に目をやるとそこには見慣れたXANXUSの文字。履歴を見れば数日に一度の割合で増えていく彼からの着信履歴が残っている訳で、いつもの間隔で考えれば今日が大体その日であったことを思い出しながら電車の中に居る時に掛かってこなくて良かったなと響は内心ホッとしていた。

「はい、もしもし」
『……どこにいる』
「えっ」

 彼は今、イタリアに居る。
 つまり時差を考えれば恐らく向こうでは平日の昼過ぎといった時間帯で彼も仕事の合間に電話をかけてくれているに違いないと分かっていた。合わせてもらっているのは自分の方だ。例え何時でも掛けてきて構わないと言われようとも、もしも響が出れなかったとしてかけ直しタイミングが悪い事になるのは申し訳ないし気が引けてしまうというのが真面目な性分である響の本音であった。
だからこそ相手の名前を画面で確認し、そういったやり取りにならないようすぐさま出たというのに電話の向こうの彼は数秒間何も話すことはなかった。それでいて彼の第一声の意味がいまいち、分からなかったから聞き返したと言うのに。

『そっちじゃ夜中に出歩くのが普通なのか』

 思わず足を止め、電話越しから聞こえてくるXANXUSの言葉に目を丸くする。何処かで見られているのではないかと思ったもののそんな訳はないと頭を振った。
 そんな簡単に来れる距離ではないのだ。
 イタリアに来れば宿などは手配してくれると言われて「その時はお願いしますね」と返したことはあっても実際行ったことはなかった。だけどちょっと時間が出来たから、等という感覚で行き来できるような場所でないことぐらいは調べていたし知っている。しばらくは纏めて有休なんて取れそうにもない。だからといってこの気持ちに簡単に諦めがつくようであれば彼と今もこうやって縁が繋がったままである訳がなかった。

「何で分かったんですか」
『止まんじゃねえ、歩け』

 …やはり近くにいるのだろうか。
 「はい」と年下である筈の彼の声を聞きながら頷くと言葉通り歩みを再開する。駅から徒歩十五分、いつも週末になれば寄っているバーのある建物を越えてしまえば一気に風景が変わりその先は住宅街となっている。
 時間帯も手伝い帰路を急ぐ人間が数人見えるぐらいで、ここまで帰ってこれたならもう着いたも同然だった。そういえば明日は休みである。XANXUSの細かな仕事は聞いていなかったけれど、彼も休みは自分と同じタイミングなのだろうか。

 そうだ今日はそういうことも聞いてみよう。XANXUSと話をする内容と言えば本当に他愛もないものばかりであった。そもそも出会ったきっかけだって唐突だったものだし彼の事を何一つ知らなかった。酒が好きな、優しい人。たったそれだけの情報からのスタートであったからこそ何を知っても新鮮で、嬉しいもので。聞いたことは大体答えてくれるし、質問だって尽きない。仕事もオフも全てが充実していると言っても過言ではなかった。ただ、ほんの少し忙しくなったが故に、オフの時間が減ってしまったぐらいで。

『通勤はヒールだっつってたろ』
「え」

 次に返された言葉は響の思っていた疑問を解決してくれるものであった。それはもしかしなくとも通話の向こうでその音が聞こえたからなのだろうか。
 確かに響は無駄な事を嫌う。
 面倒なことを嫌う性質であったので旅行やらショッピングなど元々歩き回ると分かっている時は見た目よりも機能性を重視しスニーカーで出歩く事も多い。通勤の時はスーツにヒールな訳で、別にそれも嫌いであるというわけではないんですけどね、なんていつかの通話の時にそんな事を話したような気がするがそれをまさか覚えていてくれたのだろうか。であるならば先ほどの件も分かる。響が立ち止まった時は勿論、ヒールの音だって止まるからだ。

 『忙しいのか』淡々としていたがそれでももう幾度も彼と話をしていれば分かる。きっと電話の向こうの彼の表情はいつもと変わらず無表情だろうけど、それでも響に向かって投げられたこの言葉は少なからず自分の身を案じてくれているものであると。それは自惚れではない、そう思ってしまえるほど、言葉を紡いだ声は響にとって安心のできる、優しいものだと感じ取れるのだ。だからこそ響だって電話の向こうの相手が見えないと分かっていても、笑みを浮かべずにはいられない。それがさっきまで仕事尽くしで疲弊した身体であっても、ほんの少し目元に隈ができようとも、また週明けにはどういう配分で仕事に取り掛かるか考えていたとしても。
 彼に強がる必要はない。甘えようと思ったこともないけれど、嘘をつく必要もない。だって響はそれを求めてはいないし、それが分かっているからこそXANXUSだって響を甘やかすことはない。「そうなんです」と、そう返したところで何かが変わる訳ではない。それでいい。気軽で、気楽で、気を張ることもない。それが一番居心地が良いのだ。

「だからしばらく帰る時間が遅くなりそうなんです。あ、でも今日は週末だってことで特別遅いだけでいつもはもう少し早いんですよ」
『…そうか』
「はい。だから電話はこの時間でも、問題ないです」

 伝えらたいことを伝えられたらそれでいい。
 夜道を歩く時間に彼の声が聞けるのであればそれがどれだけ心強いか。彼と共に歩いたあの温泉街、知らない人達に追いかけられるあのスリル以上のものは二度と体験することはできないだろうけどそれでもやはりこればかりは何年経とうが慣れるものではない。
 『分かった』という答えが返ってきたのをしっかりと聞き、間もなく見えてくる我が家の為にほんの少し歩く速度を緩め器用に耳と肩で携帯を固定しながら鞄を漁る。このまま鍵を開けて今日はご飯も何もかも後回しにして彼と話していたい。そう思えたからだ。

 けれどその予定は失敗に終える。
 今日の天候はどんなものだったか、本部のミスの所為で走り回ることになったXANXUSの不憫な部下の話、そんな話で盛り上がっていればちょうど家の前。鍵を片手に近付いていけば珍しくこんな時間に人影がひとつ。『やっと帰ったか』電話の向こうの、心なしか楽しそうな声。また靴音で判断したというのだろうかとそんなところまで分かってしまうような名探偵っぷりを披露されるとは思わず何故かと問おうとしていたのにその理由が先に分かってしまって足も手も、それから紡ぐはずであった言葉ですら全て固まってしまった。
 そこにはある意味随分と久しぶりな、そして居るはずもないと思っていた人物がいたからである。


『「飯」』
「…うそ」

 電話から、それから携帯を当てていない方からの耳から聞こえるXANXUSの声。
 まさかそんな。あの温泉街での件以降会ってはいなかったというのに先日教えた住所を頼りに来てくれていただなんて誰が思っただろう。

 あの時とは季節は違い冬の寒い季節である。
 この風も凌げぬ場所でずっと待っていたのだろう、表情は最後に見たあの時と全く代わりはしなかったがほんの少し鼻先が赤い。言ったところで否 定されるのがオチであることは分かっていたのだけれど。
 探偵には到底なれそうにないなと響は思った。だって今も目の前にXANXUSがいても驚きのあまり何も声が出ないし、その前に彼はイタリアにいると思っていたし、住所を聞いてきたのも手紙かなにかを送ってくれるとばかり信じていたのに。

 これはとんでもなく、最大級のサプライズであるに違いなかった。やがてふふ、と笑うと訝しげな表情を浮かべXANXUSがこちらを見返してくる。
 嗚呼なんて幸せなのだろう。隣に彼が居る。最後に会ってから随分と日にちが経過していたがそんな事が嘘であるかのように埋められていく。
 XANXUSと出会ってから自分は驚き、幸せばかりでいつか空から槍が降ってくるかもしれない。随分急な来客ではあったけれどさっきまでの疲れが一気に引いてしまったのだから彼はやはり只者ではなかった。

「こんばんは、XANXUSさん」
「…ああ」
「御飯、すぐに作りますね。嫌いなものはないですか?」

 魚はあまり好物ではなかったらしいと新しい情報を手に入れた事にひっそり喜びながら週末の為に買いだめしておいてよかったなと今、心の底から安堵している自分がいた。もっとも無かったら無かったでこのまま彼と夜道を散歩することになるだけだったのだけど。

 待たせるわけにはいかない。さて何を作ろう。
 冷蔵庫の中身と相談しながら考えなければならない。そうだ、この前奮発して買ったお酒も開けよう。彼との再会の記念に。洋酒を好んで飲む彼の事だ、恐らくきっとあの琥珀色の酒を気に入ってくれるに違いない。疲れていたはずなのにそんなことをすっかりと忘れ去ってしまうほどに響は珍しく浮足立っていた。

「XANXUSさん、今日はいいお酒があるんですよ」
「そうか」
「あの時の味覚えていますか?あれに似ていて、…」

 週末はまだまだこれからだ。
(2018.2.27)

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