amber | ナノ


▼チェックアウト-04


 どこまでが夢で、どこからが現実なのか響には分からなかった。
 ただぼんやりとしながらも響をこの知らない場所へ連れ去ったのは何故だか女将であるということ、彼女がXANXUSに対して何やら恨んでいること、昨夜響を運びながら走っている最中に彼が銃撃を浴びその足を負傷していること、それと自分自身が何かとの取引材料にさせられようとしていることだけは周りの男達や女将のやり取りを聞いていてどうにか理解する事が出来た。
 怪我をしてもスピードが衰えないだなんて恐ろしい男ね、ところころ笑う女将は一体何者なのだと問いかけたくもなったが如何せん響の身体はずっと動かぬままだった。

 彼女に何かが出来たわけではない。
 彼女に何か抵抗する術があったわけではない。

 ただただ身体が重く目が開かず、それでいて寒く、よくわからない心地に晒され思考が鈍くなりつつあっても自分の所為でXANXUSが怪我をしたというそれだけがやけに重くのしかかっていた。やはり彼は普通の人ではなかったのだ、と納得したところもある。
 だけど彼と出会った数日間、確かに自分は守られていた。助けてくれていた。それだけが響の判断材料で、しかしそれが全てだ。それなのに彼の足を引っ張ることになってしまっていることに後悔していた。何故勝手な判断でドアを開いてしまったのかと。どうして彼と、スクアーロがあれだけ自分の身を気にかけていたかをあの時考えもしなかったのかと。

『てめえの魂胆はもう分かってんだ。諦めやがれ』
『…それはどうでしょう』

 考え込んでいる間に少し眠ってしまっていたらしい。
 ふと何か温かい空気と誰かの悲鳴が聞こえ目が開かないもののゆっくりと浮上する意識。気がつけばXANXUSと女将が何かやり取りをしているところだったが響の意志はそれを聞き取ることが出来ず全てが右から左へと流れていく。ようやく目が開いたというのに本当に自分の身体なのかと思いたくなるほど身体は重く、自分の意志とは裏腹にXANXUSの元ではなく隣の女将の元へと歩んだ。

 こちらに向けられたXANXUSの視線は、…否、正確に言えば響ではなく女将に向けられたそれは見たことのない鋭さを持っていて身体が少し震えてしまったが自分の身体の主導権は響に戻ってくることはなかった。
 何を話しているのだろう。何を言っているのだろう。聞き取ろうとしても全てがぼんやりとしている。もうこのまま眠ってしまいたいとさえ思えるほどに重く、重く。

『取りに行きなさい』
『……はい』

 それなのにしっかりと聞こえたのは奇しくも女将の声。そして、自分の口から漏れたのだろう彼女の命令を従うための、是の言葉。
 XANXUSの手にある黒い物体を取りに、覚束ない足取りでふらりふらりと彼の元へと歩んでいく。身体は自分の言うことを一切聞かなかったが意識はしっかりと響のもので、だというのに口は響の意志ではない言葉を紡ぐことが腹立たしい。

 XANXUSの前へ来るとピタリと己の足は止まった。このまま一歩、二歩、前へと歩めたならば。この事態をどうにかしてほしいと、助けて欲しいと思わなかったわけではない。だけどそれ以上に彼の手に触れられたならば少しはこの震えは落ち着くのではないかと。
 手を差し伸ばしたのは彼に触れるためではなく、その物を受け取るために。この黒い物…メモリーデータの為にXANXUSが怪我をしたというのか。自分も、利用されたというのか。

『似合わねえモンつけやがって』

 目の前に立つXANXUSはほんの少しだけ視線が和らいだ気がした。
 何かついていたのだろうか、手が伸ばされ響の口元を拭うと彼の指に似合わないアンバー色が付着していて、これもまた気がつかない間に塗られていたことに気付く。女将につけられたものなのかもしれないがその色は確か先日、自分のポーチに入れられていたあのドロリとした液体に似ているような気がした。
 …つまり、最初から? あの時には、既に? ちらりと疑念が過ぎるもののそれ以上の反応を響が取ることはなかった。

『お前とはここで別れだ』

 彼に言われずとも、分かっていた。分かっていたけれど、こんな風に終わってしまうだなんて。
 自分がどうなるかなんて分かってはいないがこんな形で彼と終えてしまうのか。私は死んでしまうのだろうか。XANXUSさんや、スクアーロさんは無事でいられるのだろうか。
 そんな自分の中での心の叫びを後押ししたかのように「悪かったな」と、その彼の言葉を聞いた時、何かが弾け飛んだ気がしてそうじゃないのだと叫びたい気持ちに陥った。

 自分は好き好んで彼の隣に居たいと思ったのにXANXUSはまるでこの事態を招いたのは自分自身の所為だと言っているようで。否、もしかしたら本当にその通りだったのかもしれないがここまでになってしまったのは自分にだって責はあるのだ。
 本当は逃げようと思ったらいつでも逃げられたのだ。

『嫌ならもっと抵抗しろ』

 昨夜言われたように、離れようと思えばいつだってXANXUSの手を、好意を突き放すことだって出来たし、本当に怖かったのであれば、恐ろしければ今すぐ温泉街から出れば済むことだったのだ。
 彼が守ってくれるだなんて甘え、驕った結果彼を傷つけてしまうつもりだなんて思いもよらなかった。
 恐らくはプライドも高い彼のことだ、今まで謝ることなんてすることもなかっただろう。だというのに響に対しての言葉は確かにそれは謝罪であるに違いなかった。

「……」

 XANXUSの手から女将が命じていたものを受け取る。
 それはとても小さく軽く、こんなものの所為で皆が振り回されたのかと思うとまた彼女の中で苛立ちは募っていく。この手で握りつぶせたならばどんなことでもしただろうと響は思った。が、そんな彼女の意志とは裏腹にゆっくりと受け取った自分の手はそれを大事に包み込んだ。

 彼に一言でも何か、返したかった。謝らなくて良かったんです、私の方もごめんなさいと。迷惑をかけてごめんなさいと。そう返しておきたいと願うのに身体はくるりとXANXUSに背を向けて歩み出す。
 彼が話している最中、視線をじっとりと背中に感じていた。振り向いて勝手に歩む先はまた女将の元だった。早くこちらへ帰ってきなさいとその顔が言っている。早く帰ってきて、響が持っているものを寄越しなさいと。

『アレさえ取り戻せば、私たちはまた始められる』

 これを渡した後の事はXANXUSがやってくる前に女将が楽しげに言っていた。
 彼女は逃げるつもりである。女将がどこかに隠し持っているらしいあるボタンを押せばこの建物は粉砕し、その間に彼女は地下通路から出ていくつもりなのだ。つまりこの取引は最初から無駄であるということだった。
 どうせXANXUSはあなたの身体を優先するから私は逃げられるでしょうと。どこまでも響を、彼を振り回すつもりだった。

 それが分かっているから故の沸々と湧き上がる苛立ち。怒り。
 先程よりもグン、と歩む速度が遅くなったその原因が彼女の心の内にあるそれらが響を操っていた薬を上回っていた所為だなんてこの時誰が思っていようか。

(こんな、ものの所為で…)

 自分を狙ったその銃口の所為で彼がまったく身動きをとれないのであれば。
 自分を人質にした所為で彼が再度傷付いてしまうのであれば。


 ――バシン!

 それは渾身の、力だった。

 響を動かしたのは積もり積もった怒りと後悔である。とはいえ少しの間薬の塗布により拘束されていた彼女が繰り出したそれはそこまで強い力でなかったに違いない。
 だが目の前の女将は油断した。メモリーカードを手にすることに、その大事な情報が入っていた小さな物を落とさないことに全ての神経を使ってしまっていて、それでいて完全に勝利を確信していた。

 メモリーデータを彼女の手に置いたと同時に力の限り手を振るうと思ったよりも大きな音が建物内に響いた。それでも女将は弾かれた銃を拾い上げ彼女を撃つことよりも先に手から落ちそうになっていたメモリーデータに気を取られてしまっていた。

 それが、合図。
 それが、決め手だった。

 バリンと聞こえる何かの音。
 無理やり身体を動かした反動で後ろへガクンと身体が倒れ掛かったが背中に温かい感触。見ることも確認することも叶わなかったが響は口元に笑みを浮かべ、そのまま目を瞑ったのだった。


「!」

 動いたのはスクアーロでもXANXUSでもなかった。
 誰が操られていたはずの一般人の女が抵抗し、女将の手に持つ銃を弾くと想像できただろう。彼女に塗布されていた薬はアンブラが他の一般人の女を拉致する時にも常用していたもので今まで誰も逃げられることはなかった。恐らく例外はなかったはずで、だからこそ隙が出来てしまったのだろう。
 それを見逃す訳はなかった。
 その突然の行動に驚いた女将が次の行動に入るよりも早く、ガラスの破れる音と共にスクアーロが倉庫内へと侵入する。

「覚悟しろぉ」

 アンブラのボスである女将は呆然としていた。
 この一般人に、自分が隙を見せた所為で、捕まる? 首筋にスクアーロの剣がヒタリと押し当てられ整った顔が絶望に歪んでいくその様は見ていて寧ろ気持ちのいいものであったに違いなかったがXANXUSはそれどころではなくグラリと傾げた響の身体に手を伸ばし腕の中へと閉じ込めた。
 そこから彼女の顔を覗き込むと彼女は少しだけ、口元に笑みを浮かべていた。この女は何てことをしてくれたのだ。その薬を無理やり解除しようものであれば恐らく何らかの影響が身体に来たすだろうというのに。

「響」

 ――響。

 呼ぶと小さく反応をする響は無事なのか。ガクガクと震えている割に、体温は温かい。副作用か、何なのか。彼女は無事なのか。
 医療班も居ないこの場所で彼女が死んでいくことだって、先ほどは何故か拘束を振りほどき抵抗をしたものの洗脳が解けぬままになることだって十分に有り得るのだ。
 もう一度力を込めて抱きしめながら彼女の名前を呼ぶとうっすらと響は目を開く。その目はトロンとしていたものの濁ってはいなかった。己を不安とさせるそのまっすぐとした瞳は間違いなく己を見て「XANXUSさん」と呟いた。そして、

「……て、」
「何だ」

 小さく、聞こえる声。
 スクアーロが一瞬まさかと最悪の事態を想像しこちらを振り向いたが彼女から紡がれた言葉はそれを大きく覆す。

「…手、捻ったみたいで、」

 痛いんです、と。
 確かに彼女の手は少し腫れ上がっていた。否、確かにそれはそれで痛いであるに違いないだろう。
 だがもう少し、他に、何か言うことはないのか。お前の所為で酷い目にあった、と恨み言を言え。お前に会わなければよかったと後悔しろ。もう見たくもないと拒絶しろ。そう思っていたはずであるのにそれらの言葉が一切出なかったことに安堵している自分に気付く。何故この女は自分の記憶通りの笑みを浮かべ、人を傷つけるためにあるXANXUSの腕で安心しきったように今にも眠ろうとしているのか。心を乱すだけではなく落ち着かせもするこの女は何なのだ。
 視界の片隅でスクアーロが見てはいけないものを見てしまったかのように顔をわざとらしく背けていたが構いやしない。最早言葉も出なかったがXANXUSはそのまま響の身体を真正面から抱きしめ、

「…痛いんですってば、XANXUSさん」

 やがて彼女の手も彼の背に回ったのだった。


 ”一般人の勇気ある抵抗によりアンブラのボスを無事に拘束。”
 後日、謎の報告書がボンゴレの本部に送られることになった上にその一般人が誰であったかは明かされることは無く、解決はしたものの詳細は一切不明の不思議な事件として本部で保管されることになったのだが勿論響がそれを知ることはないだろう。

 こうして事件は呆気なく結末を迎えたのである。

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