amber | ナノ


▼チェックアウト


 カサリ、と鳴ったような気がするのは何だっただろうか。
 ゆっくりと浮上するその意識、目を開けばやはりあの精悍な顔立ちが思ったよりも近い位置にあったが何もこんな体験は今日が初めてではないことに、そしてあまり驚きもしなかった自分自身に対し自然と笑みが零れてしまうことも仕方のないことだったのかもしれない。

「……」

 これで身体の関係が無かったとは言え、二夜目を迎えたことになる。
 だがしかし前回と比べれば、彼と初めて朝を迎えた時はすべてが偶然でしかなかったこと、そして何よりも響の意思がそこに含まれていたか否かという大きな違いがある。

 自分の意志で彼と共に居たいと思ってしまった。
 触れたいと、触れられたいと願ってしまった。

 いつもの控えめな彼女では考えられないほど大胆になれたのは大して酔ってもいなかったが酒の力を借りたのだと思うことにしていた。だけど今日でそれもおしまい。終わりだ。
 言葉をかわさずとも、少なくともXANXUSは響自身のことを多少なりとも気に入ってくれていると分かっただけで良かったと思えた。その証拠と言えるのかはわからなかったが気がつけば響の背にしっかりと回されていた彼の鍛えられた腕が自分の心を擽る。あまりにも自分の身体を疎かにした行為であると普段の彼女であれば己の行動に対し叱咤していただろうが夜が明けた今となってでも昨夜の一連の行動に関しては何一つ後悔をしていなかった事こそが問題であった。

 たった三日だ。

 否、彼と言葉を交わした時間を思えばそう長くはなかった。だというのにどうして彼はこうも自分を強烈に惹きつけてやまないのか。きっと響でなくても魅了されていたに違いない。
 それでもまるで夢のような数日間だった。今日の昼にはチェックアウトし、また数時間かけて家へと戻ればまた現実が自分を待ち受けていることであろう。そこに今日までの事の残り香は一切持って帰るつもりはなかった。自分のことはこれ以上話すまいと決めていたし、連絡先を自分から彼に伝えることもないとも、そして昨夜飲み干したあの酒もXANXUSへと渡せなかった場合は自分でここで飲み干すか、捨ててしまおうとも思っていたのだ。
彼にまつわる何かを持ち帰ったとしたらきっと見る度に思い出してしまいそうだったので。彼のことはここで終わり。おしまい。いい思い出であったと終わらせるために必要なことであった。
 そうは思っていても身体がなかなかこの布団から離れまいとしているこの矛盾さが虚しくも正直で、物悲しい。

 同僚の一人に恋に生き、恋に死ぬであろうと思えた友人のことを思い出す。
 彼女の生き方は万人受けするようなものではなかったがそれでも自分の好きなように、後悔のないようにする生き様は響にはとても好ましく感じていた。
 けれど響自身にその勇気はない。許されるような年でないのも十分に理解っているし、何より彼だって自分自身のことをどう思っているのかさえ分かったものでもない。ただ旅行先でたまたま酒の飲み友達が出来て、昨夜は酒が入っていたから一夜の関係を持とうとしただけなのかもしれない。本当のところはどうなのか彼に聞かなければさっぱりわからないが答えが怖くて聞くことすらできない。
 一種の逃げに近いかもしれない。だけど、これぐらいがいい。この距離であれば、まだ、傷は浅い。

「…どうした」
「ちょっと、頭が痛くて。荷物の中に薬が入っているので取ってきます」
「…ああ」

 いつの間にかXANXUSは起きていた。
 間近でその赤い瞳を見ると何故だか吸い込まれそうなそんな感覚にも陥る。あまり言ってはならぬと思っていたからこそ口を噤んできていたが綺麗な目であった。それが昨夜、響達を狙った相手から逃げる際に楽しげに細められ、響を腕に抱きしめた後の熱っぽい視線だったことを思い返すと喜びに胸が震える反面、家へ帰ればしばらくはきっとその瞳を思い出す度に痛むのだろう。

 そう思うと何故だか泣き出しそうなそんな気分にもなり、慌てて玄関前においてあるキャリーケースの方へと走り寄った。
 特に頭が痛い訳ではない。どちらかと言えば、心臓が。心臓の裏の、特段名称もないその場所が疼いて、痛い。この原因はハッキリ分かってはいるけれど処方箋などあるわけもない。けれど嘘をついてしまったまま手ぶらで戻ることも憚れ、ちょうど常備してあった薬を手に持つと洗面台へと足を運ぶ。
 かろうじて、泣いてはいなかった。少しだけ潤んではいたがこれならきっと大丈夫。笑顔を作って、にっこり。――大丈夫だ、まだ笑える。

――カサリ。

 音がしたのはやはり気の所為ではなかったらしい。
 もしかするとスクアーロかもしれないと思ったが部屋の主は響ではない。どうしたものだかと思ったがドアを開けずに覗くだけならば問題はないだろうと判断し、ドアの真ん中にある覗き窓からそっと目を当てた。

「…あ」

 そこに居たのは女将の姿だった。どうやら朝から掃除をしていたようでその音が響の耳に届いたらしかった。やはり綺麗な女性である。初めてここへと泊まりにきた時に色々と教えてくれた、優しい女将。チェックアウトの際にはいい場所を教えてくれたおかげでXANXUSと会えたことを、素敵な出会いと思い出をくれた事を改めて彼女には感謝の言葉を告げたいと思った。

 ――XANXUSにはあんな、女将のような女性が似合うだろう。と同時に考えてしまう自分もいた。
 きっと自分は彼の世界には居ない人種だったのかもしれない。物珍しさに、構ってくれていたのかもしれない。そう卑屈に考えてしまった自身に少しだけ戸惑いながら彼女の優雅な所作を見ていると、窓を拭いていた彼女は突然胸元を抑えその場に蹲ってしまった。
 何かあったのかもしれない。そう思うと居てもたってもいられず半ば反射的に響は扉を開く。
 そして、

「!」

 鍵を開けた瞬間、響の意思とは関係なく扉が大きく開かれる。
 何事かと思う暇もなくガンッ、と衝撃が走り首筋に痛みを覚え、それと同時に意識が急激に薄れていくのを感じた。足に力が入らなくなり前のめりに倒れる自分の身体。

 視界いっぱいに廊下の床が広がり、それでいてふわりと上から香るのは何処となく嗅いだことのある優しい匂い。ドサリと大きな音は恐らく自分が床に倒れ落ちた音だっただろうが痺れた状態の彼女はそれすら認識も出来ず、ただ耳には静かに何処かで聞いたことのある女の声が響くのであった。

「確保完了。今から向かうわ」

 ――XANXUS、さん。
 静かに緩やかに、響の目が閉じられる。



 静かにドアの開く音がした。それは本当に一瞬のことで、静止の声を出す暇もなかった。
 そうか、今がその最適のタイミングだったなとXANXUSは思いながら目を開く。思ったよりもあちら側は執念深い奴らが生き残っているらしい。忌々しいと思う前にいい加減にしろと呆れる割合の方が大きかったがそれでもXANXUSがスクアーロのみに任せなかったのは彼女が関わっていたからだろうともう認めざるを得ない。
 一宮響。偶然にも自分と、自分たちと出会ってしまった不運な女。アンブラに気に入られターゲットにされてしまった女。不思議な女であることには違いないが厄介事の数々に好かれた不運さはXANXUSが見てきた中で一番といっても過言ではない。

「…良かったのか」

 寒いぐらいの風が流れ視線を窓へと移すと丁度そこからスクアーロが入ってくるところだった。しばらく待機を命じていたことだ、さぞかし長い時間外に居たのだろう。寒い寒いと演技がかった様子で中に入ってくるとどうやら情事がなかった雰囲気に気づいたのだろうか少しだけ不思議そうな顔をしていたが今はそれに言及している時間はない。
 スクアーロの言いたいことはよくわかっている。
 昨日まで、否、何なら先程まで気に入って側においていた女を突然アンブラの手に渡るような隙をわざと見せたことを述べているのであろう。昨日、XANXUSがスクアーロに告げた当初の目的とはまるで正反対の彼の行動は流石の彼にもわからなかったらしい。

「囮は必要だろうが」
「昨日までは巻き込まねえようにしてたくせにどういう変化だぁ?」

 その問いに答える必要はなかった。
 コキリと首を鳴らし静かに枕下に入れておいた銃を定位置へ仕舞う。それから響の懐へと忍ばせた発信機を一瞥し、方角を、そして大体の位置を特定するとスクアーロにそれを投げつけ窓から飛び降りたのであった。

「……まあ俺には関係ねえけどなあ」

 クツクツと喉を鳴らしながら笑いスクアーロもその後を追う。
 目指すは彼女の場所へ。

 今後の彼女に一片たりとも危険が及ばぬよう全てを掻き消す為に。

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