こんな時間に再度外を出歩くつもりはなかった。
ただでさえ今夜はアンブラの連中がXANXUSと響を狙っているというのに再度わざわざ身を危険に晒すつもりなど毛頭ない。それにスクアーロが何かを掴み出て行ったとあらば恐らく収穫無しで帰ってくることもあるまい。
室内に備えられた電話に手を伸ばすことを止めたXANXUSの行動を見届けると響はその胸に抱いた袋からゴソゴソと何かを取り出しテーブルの上へと並べていく。それは今日の土産屋で購入した酒と、つまみ的なものであった。
「本当はXANXUSさんにお渡しする予定だったんです」
「…俺にか」
「はい。色々とお世話になりましたし」
結局、内線を利用することなく彼女の持ち込んだ酒とつまみを口にし、それから数時間が経過している。
トクトク、とゆっくりとグラスへと酒を注ぐ響は既に顔が少し赤くなっていた。どうやら日中探していた酒は元々明日の帰り際にXANXUSへと渡す予定だったそうだが、こうも予定外のことになってしまった結果2人で開けることになってしまった。土産用のそれはやはりそれほど容量もなく既に空になっている。
ついでにXANXUS自身が持ち込んでた酒も口にしていた為、特に酔いが回ったのだろう。それに昨夜のバーでの時よりも量的にも随分飲んだに違いなかった。
「やっぱりこれでしたね」
嬉しそうに話す響に「ああ」と静かに返すと最後の一口を呷った。
それにしてもよく飲み、よく話す女だ。大した話をしている訳でもないがそれでも話題が尽きず、しかしよくよく考えてみるとこの目の前の女は自分の名前と、そしてリフレッシュ休暇で一人で旅行に来ていたという話以外個人的な話を伏せていたことに気付く。
それはXANXUSに対しても同じで、プライベートな事は微塵も聞くことは無かった。やはり昨夜、共に酒を飲んだ時にも思った通りこの一宮響という女は一人で行動する事にも、その場限りの付き合い方というものにも慣れているのだろう。
だがしかし、ただそれだけだ。そこまで珍しい人間ではない。
聡い女など世の中には沢山居るだろうし響よりも容姿のいい女だって見てきたしこの腕で抱いてきた。なのに何故こうも欲してしまうのかは自分でもよく分からなかった。
この女を見ているとどうしても腹の底が疼く。欲する声。それは肉欲なのかすら理解も出来ぬその、燻り。不快なようで、どことなく甘美な。手を出せば崩れてしまいそうな、けれどそれを壊してしまいたいとも思うこの感情の名をXANXUSは知らなかった。
「それでももう明日なんですねえ。何だか結局、XANXUSさんとずっと一緒にいた気がします」
「そうだな」
「もうこれで御縁が無くなると思うと、少し寂しいですが」
そうして、眉根を下げる女の行動は計算であって欲しいと思わずには居られなかった。
明日で、今夜で終わる。その言葉が女の口から紡がれたことに、改めて知らされる揺るぎない事実に普段の彼が、彼としての行動が、欲求が顔を出す。
これで、この女と縁が切れるのであれば。
これで、これ以降この女と会うことがないのであれば。
響から手を伸ばすことは絶対に有り得ないだろうと何故だか分かっていた。だからこそ、
「ざ、…っ!」
己の名前を呼び切る前に手を伸ばし、その細い腕を掴んだ。
驚きに身をビクリと震わせる響の顔を見ることもなくそのまま己の腕の中に収めると思ったよりも素直に、静かに彼女はその場で身動きもとらずにされるがままとなっていた。が人間あまりにも驚いたときはリアクションを取れずにいる場合だってある。果たしてこの女はどちらのものなのか。
細すぎもしない、どちらかといえば少し肉付きはいい方であろう響は近付けばふわりとまた朝と同じ柑橘の爽やかな香りが仄かに漂っていた。抱き心地は確かに悪くはない。
少し腕の力を加えるとわかりやすく反応し、ようやく離れようと微々たる抵抗を始めるソレはXANXUSにはどちらのものか判断はできなかった。
「嫌ならもっと抵抗しろ」
「! その言い方は、狡いです」
弱々しいそれを抵抗とは見なすわけにはいかない。
それに何だかんだ一昨日、昨夜とこの女を逃し続けたのは確かなことで。どうせ離れてしまうのであれば今喰わねば金輪際そのような機会はないだろう。XANXUSは捕まえたものを手放す男ではなかった。今までも、そして、これからもそのつもりである。
どれぐらい時間が経っただろうか。
結局彼女から否定の言葉も拒絶の言葉も紡がれることはなく、やがて腕をつかんでいた彼女の手がXANXUSの衣服の裾へと移動したのを感じほくそ笑んだ。その手法はやや強引なものであったがXANXUSにしては待った方だ。もちろんそんなこと、響は知っているはずもないが。
とはいえようやく抵抗の手が止まったのだ。ならば合意であるに違いないという彼の中での常識に則りその柔らかな肢体を堪能すべく、強烈に惹きつけてやまない唇を食むべく頬へと手を添え響と視線をあわせた。束の間の静寂。女の目は潤んでいた。先程までとは違う、やけに艶めかしい表情をしていた。やはり自分の目に狂いはなかった。この女は、どうしても、欲しい。
「…あ」
まさにそれを食もうと近付いたその時、響の口から小さな声。そこに気が付かない振りをしようと思えばできたというのにそれを目にしてしまったXANXUSは身動きを取ることができなくなってしまっていた。
朝の瞳だ。
不安げにXANXUSへと助けを求めた、自分からXANXUSの腕へと入ってきたあのときの瞳と何ら変わりないではないか。その表情を見たかったわけではない。
僅かの間であったがXANXUSの中で自分の欲に正直で在ろうとする欲求と、言葉では説明も出来ぬ何かが葛藤していた。
それは所謂この女の悲しむ姿や、不安げな表情を己の手でさせてしまったという後悔をも含まれていたがXANXUS自身それに気付くことはできなかった。ただただ、先程まで夜道を走り杯を交わし楽しそうだった彼女を思い出すと何故だかストンと湧き上がっていた情欲が鳴りを潜める。諸々の葛藤の結果だ。
それは即ち己の感情や欲望よりも彼女を選んだことに違いなかったがやはりそれですら認めたくはなかった。――この俺が。
静かに手を下ろすと「冗談だ」と静かに相手へと告げるも響はどうやら身体が緊張して強張ってしまったらしく未だに身動きをとることはなかった。どうしたものだかと思いつつこんな状態になったことはなく少しだけ戸惑いもしたが響の後頭部をポンポンと軽く叩きながら己の腕へとまるで幼子をあやすかのように押し付けるとようやく彼女は少しだけ息を吐く。
「そんな顔すんじゃねえ」
「…ごめんなさい」
女の心情を思えば当然の反応ではあったかもしれないが何分XANXUSの前で、これから抱かれる男の前でそんな表情を浮かべる女なんていなかっただけに余計気になってしまったのだろうと己の言動を思い見た。
よりによって何でこんな普通の女なんだと自分に問いかけたくもなる。もっと便利なものがいただろう。もっと楽なものが居ただろう。
よりによって一般人で、しかも明日切れる縁の女。
面倒くせえと心の中で呟きながらXANXUSは側にあった布団に横になった。
もう酒を飲む気にもなりはしない。ついでにスクアーロが用意した避妊具が視界に入ると一気に不愉快な気分になり響の側にあったゴミ箱へと投げ捨てる。何を投げてきたのだと思わずゴミ箱へと入り込んだそれを一瞬目で追った響はすぐにソレが何なのか理解し元々赤くなっていたその顔を赤らめXANXUSを見たがどうやらこの布団自身XANXUSが手配したわけではないことを思い出したらしい。「…スクアーロさん」犯人の名前を呼び顔を覆うその様子は少しだけ物珍しく思わず口元が歪む。
別にそういう意図があったわけではないが結果として響に対し何もしないと安心させた訳だが最早何もする気も起きない。
「布団が欲しけりゃ電話でもしろ」
「…わかりました」
内線でも勝手にすればいい。
それでも一応響の身は守ってやるつもりではあるが動く気力はない。今日ばかりは無駄な感情が体力よりも余程己の精神を削ったに違いなかった。
「…おい」
ゴソリと音がして何事かと薄目を開けると何故か手放すつもりであった響が布団へと入ってきているではないか。「私も面倒になっちゃいました」何もかも面倒臭くて放り投げるという行為はある意味一番XANXUSらしい姿だったが響にとってはそれがまた安堵する要因となりまた初日の豪胆さが垣間見える行動に出たらしい。
思わずお前は馬鹿なのかと口に出してしまいそうにもなったが、またXANXUSの肩からずり落ちた布団をまた被せに自分へと少し近付く彼女の姿は先程までの不安げな様子は一掃されXANXUSの知っているいつもの響であることにほんの少しではあるが安堵したのは確かだった。
「あの日みたいですね」
「…そうだな」
この女を読み解き抱く事は出来るのだろうかと思ったがこの女のタイムリミットは明日だ。結局、手を出すことが出来なかった。この俺が。
完敗に違いない。――もう何も言うつもりもない。たまには悪くねえ。
そんなことを思っていることなど露知らぬ響はにっこりと笑みを浮かべ、
「おやすみなさい、XANXUSさん」
「…ああ」
柑橘系の例の彼女の芳香が再度鼻腔を擽り、やがて聞こえる寝息。
どことなしにやはり無理矢理にでも抱いておくべきだったかと早くも後悔しながらもゆっくりと時は流れていくのであった。
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