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▼その男、不運につき


『―――私の荷物が、なくなっています』

 その言葉にまさかと後ろ…己の部屋の中側へと振り向くとそこには間違いなく響のものであろうキャリーケースが持ち主を待っていた。
 確かに朝、出かけるときにスクアーロに一応念の為と響の荷物を渡したのは間違いなかった。それは当然ながら響も覚えていただろうが夜になれば返すのが筋であろう。確かにスクアーロだって帰る頃には戻しておくなどと言っていたはずだ。
 しかし彼の姿は依然として見えないし先ほどから連絡がつかない。…何だか嫌な予感がしているのは、気のせいだろうか。

「あ、よかった私の荷物まだそちらにおいてあったんですね」
「…ああ」

 響はその先の部屋へと視線をやり安堵の笑みがそこで若干固まったのをXANXUSは目の当たりにした。
 部屋が覗き見えるその襖は開け放たれており時刻が時刻なだけに既に布団が敷かれているのは昨夜と変わりはなかった。が、今までと様子が違うのは間違いなくその敷かれた布団のサイズが昨夜よりも一回り以上大きなものであったこと、そして

「私の部屋、布団がなかったんです」
「…そうだろうな」
「これってもしかして、」

 お邪魔します、と呟いた響がXANXUSの前を通りもう一度その光景を目にした後こちらを振り返った。その顔に浮かんでいるのは疑惑の眼差しではなく、困惑のそれ。
 当然ながら響といる間誰とも連絡をとってはいなかったのでXANXUSの仕業であるとはさすがに思わなかったらしい。「スクアーロさん…ですね」と小さな言葉にXANXUSは静かに頷かずにはいられなかった。

 襖を開けたその部屋に広がっていたものはとてもシンプルであった。
 大きなサイズの布団、その上には二対の浴衣がきちんと折り畳んで置かれている。そこ二つ仲良く並んでいる枕まで見るとまるでどこぞの違ったことを楽しむ場所に見えないこともない。XANXUSが使用するであろう横並びにある枕の少し大きい方のその下に避妊具の端が見え隠れしていたがこればかりは彼女に見えていないことを願うばかりだ。何かを言われる前に早く片付けねばならない。

「…カスが」

 当の犯人はアンブラの何か手がかりを発見したらしい。その旨のメモと、良い思い出をなんて要らぬお節介と問題ごとを置いて出て行ってしまったあの鮫には後程制裁を加えなければ気が済まなかった。
 ――通常であれば。 
 普段であればこんな事をされなくとも間違いなく初日には抱いていただろうしそれでなくとも2日目、あの僅かにフラついた状態で睦言を並び立てればついてこない女はいなかった。だが残念ながらこの一宮響という女は違った。色気がない訳でもない。彼女に対し食指だって動く。だというのにとんだ問題事ばかりがこの女には舞い降りてくるし何よりタイミングだって全てにおいて悪かった。それは響にとってではなく、XANXUSにとってだったが。

 そんな状態でこのスクアーロの無駄な善意は果てしなく邪魔でしかなかった。何しろ此方は既にこの目の前の女に対し紛れもない好意を抱いてしまったことは今日のことで露わになっているというのに、これでは生殺しを強要されているみたいではないか。
 それに少なくともこの女、XANXUS自身を信用はしているだろうがそれ以上の感情は全く読み取ることが出来ないのだ。現に今だって布団を目にして顔を赤らめることもなければ逃げようとする様子も、慌てる様子もない。ただ唖然として、見ているだけ。
 仕方がない。もう眠ってしまいたい気持ちでもあるが今晩はこの女の無事を約束してやろうと思ってしまったのだから、あの口煩い女将にでも内線で話し掛け新たに布団を用意させようと備え付けられてある電話に手を伸ばした時だった。

「…あの、XANXUSさん」
「何だ」

 それはまるでXANXUSの行動を引き止めるかのように、と思ったのは流石に自惚れすぎかと内心自嘲気味に笑いながら振り返る。
 響は胸元の荷物をぎゅっと握り締め、そして見慣れた笑みを浮かべXANXUSへと声をかけた。

「――おなか、空きませんか?」



 確かにスクアーロに、荷物を預けたところまではしっかり覚えている。朝は響にしては少し珍しく動揺もしていた所為でその辺りの記憶は若干曖昧ではあったが夜の帰る頃にはその荷物も部屋へ戻しておくと彼が言っていたことも記憶していた。
 なのに部屋を開ければ何もかも無かった。それどころか昨夜までは夜にはしっかり敷かれていた布団だって無くなっている。確かにここは響が借りている部屋であるのに間違いはないというのに。

 そよそよと僅かに風の通る部屋の中は少しだけ寒い。今朝方割られた窓はすぐさま新しいものに変えられていたが何だかそこがまた開いてしまっていたり、誰かがまたこちらを見ていたらどうしようという少しだけ恐怖もあった。
 そうだ、自分はとても運が良かったのだ。隣にXANXUSがいて、助けてくれた。今日だって良く分からない連中に追いかけられていたら彼が横抱きにして走ってくれた。早々ない経験をし、確かに怖い思いはしてきたのだがトラウマになるほどでなかったのはその腕がやはり温かく優しかったからなのかもしれない。ドラマみたいな展開ですね、と笑った響に対し怒る訳でもなく呆れたように口元に笑みを浮かべた彼は怖い人ではなかった。

「…うーん、」

 黒服の連中はどうやらその朝方の人間の一端ではあるらしいという想像は安易についた。けれどそれならばどうして響の部屋に入ってきたのかとも思ったけれど真相は分からないままで、それは聞けそうにもなかったので口にはしなかった。謎は深まるばかりである。
そして先程、一応答えは彼がくれた。追いかけてきた黒服の人間は全てXANXUS達を狙っていたと言っていたが何故だかそれだけではない気もしないでもなかった。だって彼らは最初、並んで歩いていた響の方も指さしていたのだから。それからはずっとXANXUSに抱かれての移動だったので後ろを見る事はできなかったのだけど。

「…ううん、考えている場合じゃない」

 とにかく自分の荷物を回収しなくてはならない。
 すぐにそう判断した響はすぐに廊下へと出て彼の部屋をノックする。すぐさま出た彼に、まだ玄関先にいたのかと驚いたものの荷物がないことを伝えれば彼の部屋の中に自分のキャリーケースが置いてあることに安堵した。が、

「…」

 その己の荷物の、奥を見てしまえば響の身体はぴしりと固まった。ひくり、と自分の頬が引きつったような気もする。
 奥に見える部屋の中には何故だか枕が二つ並びだ。そして一昨日、初めて彼と対面したあの時よりも明らかに大きい布団。一瞬誰か相室の人間でもいたのかと思ったがよくよく考えればこれは、もしかしなくても。
 お邪魔します、と呟いてXANXUSの前を通る。明らかに彼は、動揺していた。彼の事を何も知らない状態であったらただ無言であるだけでそうは読み取れなかっただろうが今は違う。今日一日、そして数日彼と一緒だったからよく分かる。彼は間違いなく、この予想もついていなかっただろう事態に困惑していた。

「私の部屋、布団がなかったんです」
「…そうだろうな」
「これってもしかして、」

 とうとうこの布団は自分とXANXUSの為に用意したものであると理解せざるを得なくなってしまった。
 思い当たる節はある。もしかしなくともスクアーロの仕業だろう。あの荷物を預けた時の悪戯を思いついたような愉しげな笑みが今更になって蘇る。何てことをしてくれたのだ、彼は。眩暈を覚えるもののもう過ぎてしまったことは仕方ない。

『お前、あいつのこと気に入ったか』
『XANXUSさんですか? ええ、とても素敵な人だと思います』
『そうかぁ…なら、いい思い出を』

 その会話だって深い意味なんて考えることもなかった。
 今日の買い物やらの一日のことだと思っていたのに銀髪の彼はどうやら違う意味合いだったらしい。スクアーロの、響の心を汲んだ優しさだったのかもしれないがしかしそれを隣で無表情に佇む男へ説明する勇気は流石に、ない。

「…あの、XANXUSさん」
「何だ」

 とうとう動き始めたのはXANXUSだった。恐らく内線でも使ってスクアーロを呼び出すつもりか、はたまたこの布団を取っ払って響の部屋へと再度敷くように頼んでくれるつもりだったのかもしれない。
 声をかけてしまったのは反射に近い。訝しげに此方側を見るXANXUSに、女としてはしたないと思われたくも、ない。それならば、

「――おなか、空きませんか?」

 響は胸元の土産品をぎゅっと握り締め、ありったけの勇気で声をかけたのだった。
 「何か持っているのか」と電話へと伸びた手が止まったことが答えだった。

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