20 故郷

 両腕でしっかりと自分の胸を抱きこむようにして、石のように動かず、彼女は湖のほとりに立ち尽くしていた。月がない夜だった。ホグワーツの窓からあふれた明かりが、湖面に触れたところで揺れ、自分たちの背後に聳え立っているものの存在をひしひしと感じさせた。ここが、彼女の行き止まりだった。
 スネイプが追ってきたのには気づいたはずだが、彼女はそんなふりさえ見せなかった。
 「“許されざる呪文”は、本気で唱えないと効力を発揮しない」スネイプは言った。「本気で相手の死を願う必要がある。我輩には、おまえがだれかを、ましてや自分の母親の死を本気で望んだとは思えない」
 「私じゃない」
 「なに?」
 「私が望んだんじゃない」彼女は振り向きもせず、繰り返した。
 さほど難しい問題ではなかった。戸惑いはするが、消去法でスネイプは答えに近づけた。ふたりのうち、どちらかが望んだ死なのだから。

 彼女はある街の名前を口にした。マグルの街だ。スネイプにも聞き覚えがあった。暗黒の時代、一夜にして街が半壊したという痛ましい歴史をもつ。落雷による火災の延焼か、または地震だったか、マグルの向きの報道をなんとしたかまでは思い出せないが、実のところ、そこはいくつかの不運な巡り合わせのために闇の陣営と闇祓いが真っ向から衝突する戦火に呑まれたのだ。
 捕えられた死喰い人は少なく、闇祓いの犠牲は甚大だったと聞く。そこに暮らしていた住民たちがどうなったかは、言うに及ばずである。
 彼女はそこで、その戦いの最中、再会を果たした。誰と。記憶もない母親と、だ。
 「私には、あの人が“服従の呪文”の犠牲者だったのかどうか、いまもわからない」と彼女は言った。「平気で嘘を吐く魔法使いを何人も見てきた。助かるためなら、人はなんでもする。でも、あの人は、ちがった。ほとんどの死喰い人がするような命乞いもなかった」
 「アズカバンに連れていかれるくらいなら、粛清を望んだというのか」
 暗闇を吸い込んだかのように彼女の瞳は暗い。記憶から蘇る、吐け口のない陰鬱さに怯まぬように、前だけをじっと見つめていた。

 夜が明けたはずだった。戦況などなにもわからない。ただ彼女はまだ生きていた。阿鼻叫喚をきわめていたのに、街を逃げ出せたか、巻き添えを食うかして、悲鳴をあげる人々ももういない。静かなものだ。粉塵の中から音もなく現れた死喰い人の仮面に、彼女はもはや反応できなかった。自分より消耗しきっている、その死喰い人が自ら仮面を脱ぐのをただ見ていた。彼女より動揺しており、聞き取れる言葉はそんなに多くなかった。日本語も混じっていた。そして、疲弊と驚きのあまり動けない彼女の杖腕を掴んだ。距離を詰められていたことに気づかぬほど完全に気圧されていた彼女も、さすがに振り払おうとした。戦場で杖は命綱だ。が、相手は彼女の杖を奪おうとしているのではなかった。杖先を、自分の心臓がある位置に向けようとしていた。そして、“死の呪文”を繰り返し唱えた。何度も、何度も。お願い、と。

 「母親が生きていて、闇の陣営に関わってるらしいことを知ったときから、いつか会うんだろうと思ってた。だから、闇祓いにもなった」彼女はそこで一瞬、言葉を詰まらせた。「でも、こんなことになるって、どうして想定できた? 私は自分の母親を殺すために闇祓いになったんじゃない」
 「それでもおまえは、母親のためにそれを与えた」
 彼女は頷いた。最初で最後の親孝行だ、とスネイプは思った。彼女のしたことは、たとえば母の日に花を贈るよりずっと簡単ではなかっただろうが。
 「アズカバンで長く苦しむよりはマシだっただろうとは思う」彼女が言った。「いずれにせよ、あの様子では、長くは保たなかったと思うけど」
 どちらからともなく、口をつぐみ、しばらく沈黙が流れた。彼女は物思いに耽っているようだった。スネイプも彼女がここまで語ったことを考えていた。
 「アンブリッジ先生は、当時の報告書を見たのかな」やがて彼女が、思い出したようにぽつりと言った。
 「あのときだけは、クラウチさんが全部、後始末をしてくれたんだ。当時の風潮もあって、大義のために任務を果たす闇祓いが必要だったんだと思うけど」
 「闇祓いの“許されざる呪文”を合法化した張本人だ。手際もよかっただろう」
 「私のこと、軽蔑したよね」
 スネイプは彼女を見た。彼女は俯いていた。髪で横顔はほとんど見えない。が、スネイプの反応に怯えているような気さえした。
 「あのときは、ああするのがあの人のためだと思ったし、いまもそう信じてる。だけど、私が闇祓いだったとしても、命の価値は変わらない、でしょう? しかも相手は自分を産んだ母親。あんなふうに知られたくなかった、とくにスネイプには」
 彼女の様子をじっくりと観察したあとで、「おまえには酌量の余地がある」とスネイプは言った。
 「酌量の余地?」彼女が顔をあげる。そうしてスネイプは、やっと彼女の顔を見ることができた。
 「おまえの母親は、理由がなんでも、自死を選んだ。おまえは運悪く居合わせ、凶器になっただけだ。自害した人間のロープを責める者はいない」
 彼女は目をぱちくりさせた。「ちょっと暴論じゃない? 私はロープじゃなかったし……」
 「ロープは例えだ」
 「もしかして」と彼女は少し困惑した。「スネイプなりに慰めてくれてる?」
 「単純な殺人ではない、と訂正したんだ」
 「そっか」
 「それでもアンブリッジの誘導のせいで、事情を知らない生徒たちの中には、おまえを冷酷で無慈悲な人間だと考える者もいるだろう」
 「そうだね」と彼女は肩を落とす。
 「しばらくは学校中で噂になる。保護者から手紙が届くかもしれん。もちろんおまえを非難する内容だ。いつものことだが、ダンブルドアも叩かれるだろう」
 「も、もういいよ、わかってるから」
 「だが、そうして騒ぐのは、おまえのことをよく知らない者たちだけだ」スネイプは続けて言った。「おまえが過去にしたことについて、なにかを言うつもりは、我輩にはない」
 そんな資格などないとさえスネイプは思った。卒業とともにホグワーツを離れ、暗黒の時代を生き抜くうえで、どちらがより非道なことをしてきたか、審判できる者がいるとしたら、迷わず自分が選ばれるはずである。スネイプ自身が審判だとしてもそうだった。聖人とは言えなくても、曲がりなりにも彼女は、あの時代に闇祓いをしていたのだ。人を傷つけた数より、救った数のほうが多いに決まっている。

 「我輩は、昔もいまも、おまえの判断を尊重するつもりだ」

 たとえばいつか、スネイプが犯してきたことをすべてを知ったとき、彼女もきっとそうするのではないだろうか。願わくばそうあってほしいと思う。彼女自身を苦しめることになるとしても。

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