20 故郷

 「そう」と彼女は言った。「ありがとう」
 「ああ」
 「“昔もいまも、おまえの判断を尊重するつもりだ”」
 「なんだ」
 「それってつまり、“いつもおまえの味方だよ”って意味?」
 「好きに解釈すればいい」
 「ちょっとはっきりさせたいかな」
 「おい、じゃれつくな」

 彼女はスネイプの腕に絡みつくと離れなかった。わざとふざけて、くすくす笑っている様子にスネイプも少し安堵を覚えた。それに、寄りかかってくる彼女から穏やかな懐かしい匂いがして、スネイプの抵抗する気を失せさせた。

 「どうして私の母親は、死喰い人になったんだと思う?」
 「我輩が知るわけないだろう」
 「一応、ほら、スネイプは経験者だし、どこかですれ違ったり、わからないけど集会とかで顔を合わせたり、しなかった?」
 「生憎、おまえの母親の顔を知らない」
 「知らなくても、見ればわかると思うんだけどな、たぶん」
 「おまえは親子だから、相手がだれかわかったのだ。そもそも死喰い人が、いつか裏切ったり裏切られるかもしれない相手に素顔を晒して、身の上話で親睦を深めていると思うか?」
 彼女は笑い、「それもそうだね」と言った。
 「母親が、どうしてその道を選んだのか、知らないのか」
 「お祖母ちゃんは教えてくれなかったから。でもまあ、母親が生きていたことも話してくれなかった人だから」

 夜の湖は絶えずさざ波を寄せている。それは必ず浅瀬で前のめりに崩れ、滑り込むように湖岸で薄く広がり、引いてはまた、次の波がやってくる。ふたりの靴先に届きそうで届かない。

 「日本に帰る気は?」スネイプは訊いた。「家族が待っているだろう」
 「うーん、どうかな」と彼女は自嘲した。
 「知っているとは思うが、大切なひとに会える時間は限られている」スネイプは言った。「もう結構な高齢だろう。ダンブルドアは未だ現役だが、魔法使いや魔女がみな、彼のように長寿というわけではない」
 「お祖母ちゃんはダンブルドアより若いよ、たぶん」
 「高齢には変わりない。先送りにしていたら、いずれ永遠に会えなくなる」
 スネイプはそこで、隣の雰囲気が急に変わったように感じられた。あたりの空気が湿気を吸った紙みたいに弛んだのだ。スネイプは顔を向けた。彼女もスネイプを見上げていた。彼女は、泣きそうなほど眉を歪めるけれど、寸でのところで絶対に泣かない、悲しみに耐える子どものような顔をしていた。それでも、抱きしめさえすれば、簡単に泣き出しそうだった。

 「ひどいことを言う」
 「事実だ」
 「私だって、会いたいよ。私の家族はお祖母ちゃんだけなんだから」
 「相手もそう思っている」
 「どうして訊くの? スネイプは私に帰ってほしいの?」
 「帰りたがっているのは、おまえだろう」
 スネイプは、急に肌寒さを感じた。彼女がスネイプの腕から手を離したのだ。「そんなことないよ」
 「意外だな。自覚がなかったのか。ホグワーツに入学した日から、おまえはそうだ」
 「そんな昔から? いや、絶対、いい加減なこと言ってるでしょ」
 「おまえが空を眺めるのは、日本の空も青いからだ」スネイプは、はっきりと言った。
 彼女は一瞬、口をつぐんだが、すぐに、「あの家に私の居場所はない」と言い返してきた。「それに……」
 「それに、なんだ」
 「それに、好きなひとのそばにいたい、から、帰らないよ、私は」

 今度はスネイプが口を閉ざす番だった。胸の底がむず痒い。不快な熱に掻き立てられる。気づけば、ため息をついていた。スネイプは踵を返した。「おまえはそこでもう少し頭を冷やしてから戻ってこい」
 「一緒に戻るよ」慌てたような足音と共に、彼女は追いかけてきた。スネイプの肩にぶつかる。今夜はやけに距離が近い気がする。彼女が顔を覗き込んできて、遠慮がちに言った。
 「私に好かれてるという自覚を、もう少し持ってくれるとうれしいな」
 スネイプが睨んでも、彼女は微笑んでかわしてしまう。
 彼女は日本に帰らない。そのつもりがない。自分の母親にしたことで、罪の意識ゆえに家族から遠ざかっているのか。そうして法には裁かれなかった罪を自ら断罪しているのか、本当の理由は彼女にしかわからないが、しかし……。
 もし彼女が日本に帰ったら、とスネイプは考えてみた。とてもよい考えだと思った。彼女が海の向こうに行ってしまったら、たとえば彼女が感情的になって寒空の下へ飛び出すようなことがあっても、スネイプは追いかけなくていいのだ。彼女の懐かしい匂いを目一杯、抱きしめたいという衝動に駆られずに済むし、求めてくる手を掴み、引き寄せてしまいそうになることもなくなる。とてもよい考えではないか。

 『きみになにを頼めばならないのか、もうわかっておろう』

 ダンブルドアにそう言われたとき、鈍く光る、鋭利な剣を握り、ついに持ち上げるような心持ちだった。十四年間、暗い地下で人知れず、毎日欠かさず研いできた。自分がなすべきことのためならば、なんでもする、この使命感は、ほとんど捨て身になった人間の動じなさと似ている。スネイプの“仕事”には、どんな小さなミスも許されない。唯一、難点になり得るのが彼女の存在だ。ダンブルドアの千里眼があれば、そこまで見抜いているはずなのに、彼も彼女はホグワーツにいるべきだと言う。
 スネイプは考えるのをやめた。腕の内側に、彼女の腕が滑り込んでいた。さっきみたいに、ぴったりとくっついてくる。が、歩きにくいほどではなかった。スネイプは少しだけ歩調を緩めた。


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