1:予感

何処からか、聴こえた鳴き声。






未登録は思わず足を止めた。

見れば、道の小脇に数匹の野良猫がたむろしている。
その中に見覚えのある黒い猫が居た。

先日、買い物帰りにパンを千切ってやった猫だ。


今日は行き掛けだから何もあげるものが無いんだけど。
そう思いながら彼らの方に近づいてゆく。
すると、黒猫の側にいた他の猫達は未登録に気づくなり、いち速く数メートル向こうへ逃げて行った。


その場に残った黒い猫は、僅かに身構えながらじっと未登録を見上げている。


彼女は思わず苦笑した。

警戒を解いて欲しくて。
下からそっと、おいでおいでと猫の前に指を差し出す。




「あ」

瞬間、黒猫は威嚇するように唸ると、そのまま仲間の猫達の方へ行ってしまった。


自分は知っている猫のつもりだったが。
いや、確かに餌をやったのはあの猫なのだ。

しかし未だ何かされやしないかと遠目に此方を窺っている黒い猫は、自分との繋がりをあっさり否定した。




「…薄情者」

そう呟いて腰を上げると、未登録は再び来た道を歩き始めた。







随分と冷える。


服の繊維の隙間から浸透してきた冷気が肌に寄り添ってくる。

色とりどりの看板が見えてきた頃、ふわりと濃密な芳香が掠めた。
歩みを止めぬまま横を少し振り返ると、
やはり其処には小さな橙黄色の花が沢山咲いていた。

金木犀だ。

季節はとうに移った筈なのに。
秋に間に合わなかった花達が、今日もこうして香っている。



だからだろうか。
この花はいつも、自分をこんなにも懐かしく、切ない気持ちにさせる。








買い物を済ませ、食べ物の詰まった紙袋を抱えて帰路につくと、連なる街の屋根の合間から小高い丘が見えた。

丘の上にぽつりと生えた一本の木は、今はもう身を固くして黒茶色の枝を晒しているだけだった。



「……」

小さく影絵のように浮かぶその細かな枝々の先から、高く広がった空を仰ぎ見る。

強烈な茜色に染められた雲が無言のまま散り散りになってゆく様を東から西へ見送ると、
やがて大きな屋根の一部が西空の明るい景色を覆い隠して見えなくした。

夕方の家々の灯りが、今日は目の前に大きく輝いている。
其処に暮らす人の息遣いも届きそうなほど確かに。
ざわめきや子供の笑い声、夕食の匂いや熱までもが零れ出している。

あの壁の向こうに、様々な人が居て、色々な形の家族が居て、それぞれがたった一人しかいない事を慈しんで。
明るく照らされた暖色の壁紙や温かい食卓があって。



昔はこの夕方の街に苦しいほどの憧憬を抱いていた。
今こうして近くで眺めると、何かにつけて気づく事が多過ぎて、只どうしようもない心地がするだけだった。

肉眼で見えない所まで写し込んでしまった写真を見るように空虚で、心が寒い。









「未登録」


はっとすると、帰るべき道の先から、エドが白い息を吐きながら歩いてくるのが見えた。
帰りが遅いので心配したのだと言う。





望むなら、自分も、あの光の中に入っていけるだろう。
みんな、どうしようもなく優しいのだ。


優し過ぎて困ってしまう。
帰りたいと思う気持ちが生まれる事を自分に期待するほどだ。







それでも愚かな自分は、彼と二人影を並べて戻る道中にも、
あの黒い猫の姿を探してしまうのだった。

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