=追加=


君に捧げた一番初めの贈り物


パーンダヴァ五兄弟の末の双子は、この世で最も美しいと称される弟。
幼少期から共に育ち、ずっと側で成長を見届け、まごうことなく真実であると知ってはいた。
幼心に、美人なのだろうな。と感じる程度で、だからどうしたということもなかったのだが。
あの日、初めて、ビーマが知ったのは視覚が判じる美しさではなく、精神、魂のレベルで痛感した美しさ。
見目の愛らしさは当然ながら、立ち振る舞いに声、そこにあるだけで心奪われ惹かれる魅力。
身にまとう宝飾品や衣類装飾になど負けない、唯人の存在感。
ドリタラーシュトラ王とガーンダーリー妃に並び、良く似た大勢の弟達の先頭で眩しい紫水晶の瞳を真っ直ぐにビーマへ向けてきた王子。
性別も立場も関係なく、ビーマに届いたのは彼の名前だけ。

「ドリタラーシュトラ王、百王子が長兄。第一王子、スヨーダナ」

父と母の一人を失った、五兄弟達を迎え入れてくれた王宮。儀礼的に喪に服す期間を設けてもらえた後、王宮への帰還を祝福する宴が開かれた。
大勢の従者達が王宮内を華やかに飾りたて、招待客を呼び集めて。それはそれは豪勢に。
森の中でささやかながらも穏やかに生きてきたのとは、格段に違う世界としてひろがる眼前のの光景。圧倒され、居心地の悪さを覚えていたビーマが目にしたのは王宮内を飾る、至る所に設置された花瓶。
鮮やかな彩りで咲き誇る花がそこに。

「森でも見た事ない花だ。似合うだろうな…」

誰に、と口にする必要もなく、一輪の花を花瓶から引き抜いた。
掌に乗せた花をしばらく眺めてから、周囲に首を向ける。距離を置かず設置された花瓶が並ぶ廊下を見つめ、ふらりと足を向けていた。
たくさんの花瓶の中から一輪だけを引き抜いては、別の花瓶へ移動する。黄色い輝きが見当たらない花瓶には目もくれず、ビーマの腕の中に一輪ずつ花が増えていく。
片腕いっぱいに抱えた花束になる頃、五王子に与えられた部屋へと駆け戻った。
ちょうど宴に参加する為、王宮から与えられた上質な衣と宝飾品に身を包む末の弟が、新しく増やされた従者達に身形を整えられている。神聖な美しさと気品すら感じられる姿に、皆が見惚れている横をビーマが平然と通り過ぎて。
チラと横目で気にすることもなく、抱えた花束を絨毯の上に広げ。一本一本の長さや花の位置を確認しながら、選りすぐって編む。

(きっと、綺麗だ。早く見たいっ)

末弟に劣らぬ美貌で白い衣を着こなすアルジュナと、パーンダヴァの長男であるユディシュティラが、ビーマの様子に興味を持って近づいて来たけれど。熱心に手元を動かし花冠を編む姿に声をかけずに微笑み合うだけ。見慣れない物への力加減は難しくとも、何度も練習した花冠だけは壊すことなく綺麗に作り上げる事ができるようになっていた。力の入れ具合だけでなく、花のバランスや色味まで繊細な気遣いを細部にまで発揮して。葉も茎も見えない、花に溢れた花冠を作り上げ、やりきった充実感にを紅潮させる。
夢中になって作業に没頭するあまり、かなり時間は経過してしまっていた。未だ終わらぬ宴の喧騒が、離れたこの部屋の中にも届いている。直接届けようにも、多すぎる似通った百の弟達が邪魔。多くの招待客も、警備に侍る従者達も邪魔。

(せっかく作ったのに…どうやって届けたらいいんだ?)

完成した花冠を壊さぬように両手の上に乗せ、今更ながらに渡し方など何も考えていなかったのだと思い至った。宴の主催たる王と王妃はすでに会場から引いているが、招待客達への対応等を担うドゥリーヨダナはきっとまだ宴会場の中。
招待客への形ばかりの面通しを終えて宴会場から早々と逃げ出したビーマ以外、主賓であるクンティーとユディシュティラはともかく、アルジュナや双子の弟ですら、パーンダヴァに与えられた部屋へは戻って来ていない。
主催の王と王妃以外はまだ宴会場だろうとわかれば、花冠を掌に乗せたまま部屋を飛び出した。
百王子との顔合わせの日に、お互いの部屋の場所は教えられている。不用意に近付くな、という大人からの無言の圧であったとしても、体格はともかく、頭はまだ純粋な子供のままのビーマにそこまで完璧に大人の思考を理解できるわけもない。
広い王宮内で迷子にならずに一直線に向かった百王子の部屋は、パーンダヴァの五兄弟へ与えられた部屋とは比べるべくもなく広々とした空間。

「スヨーダナは…たぶん、むこう」

九十九のそっくりな弟達の見分けなどつかなくとも、たった一人、目を惹かれた彼だけはしっかりと判別出来る。大きなベッドにたくさんの装飾品が幾つも並ぶその中で、直感と微かな薫香を頼りに脚を進めた。

「ここ。絶対に、ここだ」

知らないはずの部屋だというのに、確信があった。
花弁ひとつすら落とさないよう運んできた花冠を、そっとベッドへ。
自室へ戻ろうと、踵を返しかけたビーマの背中に聞こえたのは、声。複数人の賑やかな声に混じって、彼の声が微かに耳に届く。ゆっくりと百王子の部屋へ近づいてくる足音も。
背筋にそって走り抜ける緊張と、慌てて早鐘を打つ心臓。
正面の出入り口から逃げ出すには、部屋へ戻って来ている声が近すぎて鉢合わせてしまう。
広すぎる百王子の部屋ではあるがビーマの身体を隠せる家具は無く、万一隠れられたとしても百人から逃げるには人目が多過ぎる。焦りながら壁や天井、部屋中を見廻し、窓枠に脚をかけて飛び降りた。
一目散に百王子の部屋から離れるべきではあったけれど。

「今、誰かいたか?」
「いるわけねーだろ?オレら、今帰ってきたんだぜ?」

声に惹かれて、庭の木に飛び移る。枝葉に身を隠し、窓を見つめた。いくら視力が良くとも、簡単には見つからない距離。それでも息を潜め、静かに耳を澄ませて。
呼吸よりも断然早く五月蝿い鼓動ばかりが耳について邪魔をするけれど。
風が、吹く。
軽くを撫でるような、弱い風。
長い髪をそよがせて、窓からの風に微笑むドゥリーヨダナの頭上には華やかな黄色の花冠。

「っ、あ…!!」

似合うとか、綺麗だとか、声を上げてしまいかけた口元を両手で押さえる。
鷲掴むように爪を立て、指をがっちりと強く曲げて。それでも嬉しさを抑えきれず、掌の中で唇は震え続けていた。


=◆=◆=
■□■
みんなで作った思い出の花冠
五兄弟と、二人の母と、父と、数人の従者と、共に暮らす森の一区画に、見通しの良い開けた場所があった。空を覆うような大樹は遠く、子供の膝丈程しかない草木ばかりが生い茂る、陽当たりのいい小動物や虫達の集う場所。
川で魚や、林で獣を狩っている事が多いビーマが、食料になりえるモノのないこの場所に大人しくいるのは珍しい。ちょうど今の時期は食べられる果実や植物もここには無く、当人は走り回るでもなく静かに座り込み、なにやら熱心に手元へ集中している。
集中の度合いを示すように真っ直ぐであった背中が、時を追うごとにゆっくりと丸くなっていく。
その不思議な光景に興味を引かれ、ユディシュティラとビーマへ近づく小さな影。足音を隠しもせず二人の側へと近付り、見えてきたのは胡座をかくビーマの膝の上にある手折られた数本の花。どれも茎が長めであるのに、何故か花に近い顎のすぐ下の位置で茎が潰れている。
わざわざ綺麗な花の茎を潰しても、二人の近くには水盆などありはせず飾る場所もない。
幼いアルジュナの知識量では何故そうなったのかが理解できずに、ただ単純に首を傾げていればユディシュティラと目が合った。

「ユディシュティラ兄ちゃん、何をしていたんですか?」
「花冠を綺麗に作る練習だよ。母様達や、ナクラ達へ贈れるように」
「私!私も作りたい!」
「うん、一緒にやろうか。アルジュナの好きな花を、いくつか摘んでおいで」

子供らしい真ん丸な黒真珠の瞳を輝かせ、すぐさま近くに咲く花々へ駆け寄って行くアルジュナ。小さな背中が、しゃがみ込んではすぐに立ち上がって、別の花の元へと移動してはまたしゃがみ込む。まるで蝶か蜂のように忙しなく、花から花へと飛び回って。
微笑ましいアルジュナの動きへ目を向けてはいるが、ユディシュティラの視界からビーマの手元は外れてはいない。覚束なくとも、何度失敗しても次の花へ手を伸ばす。
花冠を編むのに向いているのは頑丈な硬い茎の花ではなく、しなやかな柔軟性を茎に持つ花。ひとつひとつ茎を束ね、編みこむ過程において柔軟性のない茎は、周囲からかかる力に耐えきれず容易く折れやすい。けれど、柔軟性を持つ茎は折れにくい反面、柔らかさ故に指先から直に伝わる力の強さに弱い。潰さないように、折らないように、力を加えて茎を曲げ花を増やして編んでいく。それは単純に見えどもただの幼児でも難しい作業であるのだから、繊細な力加減の調整に苦労している今のビーマにとって容易いわけがない。

「っっ…」

またひとつ、茎を潰して親指と人差し指が草色に染まる。指先で柔らかい物が潰れた感触とベッタリと悪足掻きのように残る草液の感触に、苦しくビーマの顔が歪む。
既に花に挑む前、雑草で何度も何度も試し、親指と人差し指は完全に草色の緑に染まっている。ようやっと花に触れられるようになっても、集中力を欠くとあっさりと潰してしまう。
植物ですらこうなのだから、あの時の糸より細い幼子の柔らかい髪ならば。色褪せるには時間が足りない記憶に、ビーマの喉奥がヒリついた。

「ビーマ」
「もっと、弱く。わかってる…けど」
「花を綺麗に手折るのは出来るようになった。もう少しで、きっと出来るうになるよ。花冠が上手く作れたらみんなで母様達へ贈って、喜ばせよう」
「うん…もうちょっと、頑張る」

ぽん、ぽんと、何の力も入っていない優しい掌がビーマの頭を撫でてくれる。集中しすぎて固くなった身体から力を抜くように、息を吐いた。
俯きかけた顔を上げ別の花に手を伸ばすと、ユディシュティラがビーマの頭を撫でてくれていた手を離す。
今度こそ慎重に、慎重にと小さく呟きながら震える手を何度も握っては開いて。

「ユディシュティラ兄ちゃーん、お花つんだよ!私もビーマ兄ちゃんと一緒に作ります」
「ビーマの邪魔にならないように、僕の隣においで。アルジュナ、まずはね…」
「「兄ちゃんたち、ズルい!ボクたちも一緒がいい」」
「ナクラ、サハデーヴァ?二人にも見つかっちゃったか。仲間に入れてあげるから、二人も兄ちゃん達と五人一緒に練習しようか」
「「はいっ!」」

手を繋いだ双子が頬を膨らませながら駆け寄ってきて、あっという間に賑やかな空間になっていく。五兄弟皆で作り上げた花冠は初めての作品で少々不恰好だったけれど、二人の母も父もとても喜んで一日中頭に飾ってくれた。
それ以降、時々手慰みとして花だけでなく草冠作りに勤しむビーマの姿が見られた。
母と父が亡くなり、王宮へと棲家を変えるまでの短い期間ではあったけれど。



=◆=◆=
■□■
花冠
華やかなピンク色がシミュレーションルームの空を覆うように彩り、菜の花の強い黄色が絨毯のように咲き乱れる。
人工的な風ですら、咲き誇る桃花に揺られて甘さを演じて。
色とりどりの水仙が合間合間にアクセントを添える。
花盛りな春を体現した庭でも更に艶やかな一角には、立ち並ぶ桃の大樹よりも大きな身体の背を丸めたキングプロテアとポールバニヤン。遠目からではその二人に目が行きがちだが、彼女達の足元にはナーサリーライムにジャックザリッパー、茶々とアビゲイル。
花の庭に集う愛らしい六人からは、楽しそうな笑い声。

「お待ちどうさん、パンケーキと桜餅に桃のパウンドケーキだ。紅茶は今から淹れるんだが、ティータイムには間に合ったか?」
「パンケーキっ!楽しみに待っていたの」
「わたしたちの分…」
「バニヤンとプロテア用のもちゃんと用意してあるから、安心しろ」
「やった!!」

食堂から出来たてのお菓子を運んできたビーマが、庭に広げられたレジャーシートの上にひとつづつ岡持から取り出して並べていく。茶々から事前の連絡でバニヤンとキングプロテアがいることを聞いていたのもあり、岡持とは別に運んできた大皿でパンケーキを彼女達へと差し出すのも忘れない。
甘いメープルシロップたっぷりに、蜂蜜も垂らして。優しい紅茶と美味しいお菓子の香りが花々の香りに負けないように広がっていく。
焼きたてのパウンドケーキにジャムとクリームを乗せて、口いっぱいに頬張って。
子供達がお菓子に夢中になる中、ゆったりと紅茶を口にしていた茶々が、出前を終えて立ち去ろうとするビーマを引き留めた。

「すまぬがそなた、わらわ達を少し手伝ってはくれぬか?」
「手伝う?」
「ちょうど花冠を教えていたところだったのだが、わらわ達だけではバニヤンとプロテアへ花冠を用意するのに手が足りぬ」

レジャーシートの上には長めの茎を持つ水仙や菜の花が、いくつか編み込まれている途中の状態になって置いてある。ただ摘んだにしては花の数が多く見えたが、ナーサリーライムやジャックザリッパーの頭には既に拙くも可愛らしい花冠。
子供達とはサイズ感の違うバニヤンとプロテアへ花冠を贈るのなら、さすがに四人だけでは時間がかかりすぎるのも理解できる。

「ああ、そういうことか。いいぜ」
「簡単に受けてくれるのは良いが…そち、花冠は作れるのか?誰ぞ呼んできてくれてもかまわぬが」
「心配すんな、これでもユディシュティラの兄貴やアルジュナと一緒に、双子の弟達を飾る花冠を作ったことはある」
「ほう…」

声をかけておきながら、茶々から意外そうに驚かれる。
既に花冠を頭に乗せたナーサリライムやアビゲイルからは、キラキラした輝く瞳を向けられたというのに。

「うふふ、頼もしいわ。アビゲイル達の花冠が楽しみね」
「バニヤンとお揃いの花冠がいい…楽しみ」
「わたしも手伝うよっ!」
「ちゃんと食い終わってからな。キングプロテアとポールバニヤンはどの花がいいんだ?」
「私アビゲイルとお揃いにしたいから、白とピンクのやつがいい!」
「わたしは、あの黄色い可愛いの」

アビゲイルが座っているレジャーシートの上には、白いスイートピーとピンクのガーベラ。プロテアが見つめるのは、皆を囲むように咲き乱れる菜の花。

「お花を切るのはわたしたちに任せて」
「おう、茎は長めで頼むな」
「うん!」

足元の菜の花へ手をかけたビーマへ、ジャックザリッパーが笑みを向ける。
口元に残る蜂蜜をナーサリーライムに拭い取ってもらってから、凡そ花を切るのに向かないナイフを構えて菜の花を刈り取っていく。
自然界の花畑でもレイシフト先の大地でもないシミュレーターで、花畑が刈り尽くされる事はなく、数分も待たずに同じ場所に菜の花が現れては風に揺れる。
刈り取られた菜の花は消えずにレジャーシートの上に積み重なるのだから、仕組みを理解していても不思議な光景ではあるのだが。
アビゲイルが真剣に花を手にして編んでいく傍らにはナーサリライム。隣で様子を見守りながら手伝いつつ、バニヤンの花冠を作っていく。
二人の邪魔にならぬよう、刈り取られた菜の花の側にビーマが腰を下ろす。菜の花を二本手に取って片方を軸にして絡め、すぐに次の三本目の菜の花を持ってくる。花同士のバランスが悪くならないように配慮し、ひとつひとつ流れるように編み進めて。

「そち、本当に花冠を編めるのだな」
「そういっただろ?」

ビーマの向かいでキングプロテアへの花冠を編みながら、茶々がポツンとこぼす。
親しくしていない英霊達であれば、ビーマが厨房においていかに繊細な所作でもって作業をしていると言われても信じ難いものだろう。
実際、生花の花弁を傷つけず、必要以上に茎を折る事なく花冠を作り上げていくのは割と難しい。柔らかく編めば崩れ、強く編めば花が傷つく。
真に花冠を手づから作ったことがなければ理解出来ない力加減。

「意外というか…手慣れておるな」
「まあ、弟達に作ってたってのもあるが似合うヤツがいたんでな」
「アルジュナといったか、見目が美しいと花も似合うからの」
「あーいや、まあ…アルジュナも似合うんだが」
「違うのか?」

互いに手元は動きを止めぬまま、暇つぶしのように他愛無く会話を続ける。
正直に話してしまっても問題は無い、はずだ。たぶん。ここにいる彼女達との接点が彼にあるとも思えない。ただ、ビーマが知り得ないだけで、既に既知の可能性も無きにしも非ず。
なにしろ交友関係だけは馬鹿みたいに広く、物怖じせずに初対面の相手でも受け入れていく。それが強みであり、人間臭さであり魅力である相手。

「違うわ、きっと長い髪のおじさまのことね」
「わたしたちと遊んでくれたあの人?」
「でもドゥリーヨダナさんは、花冠は作れないと言っていたんじゃなかった?」
「ふふ、違うわアビゲイル。長い髪のおじさまは、昨日『わし様が作れずとも、花冠を望めば差し出すヤツがおる』って言ったのよ」

コロコロと鈴を転がすようにナーサリライムが笑い、ジャックザリッパーが首を傾げる。花冠を編む手を止めて、アビゲイルが記憶を探り。
見透かすような楽しげな笑みを浮かべたまま、ナーサリライムから当人そっくりの声が流れる。
三人ほどドゥリーヨダナと関わりがないのか、茶々だけが困惑気味に眉を顰めていて。

「同じ原典のアシュヴァッターマンとカルナの事ではないのか?たしか、あの二人はドゥリーヨダナとは同陣営だったのよな?」
「ええ、でもね。わたしたちは知ってるの」
「カルナさんは花冠を編めなかったわ」
「私も知ってる!アシュヴァッターマンは花冠が編めなかったよ」
「三人とも、わたしたちとは昨日遊んでくれたもの」

バニヤンが笑顔で頷きながら、ちょうど前日だという話をしてくれた。
今日と同じ花満開のシミュレーターで開催された、エスニックなお茶会でのカウラヴァ三人との交流。トランプで遊んで、花束を作って。

「綺麗な花がたくさんあるから、花束を作ろうって。長い髪のおじさまには花冠が似合いそうねって言ったの。そうしたら、二人とも困った顔で作れないって言ったのよ」
「そう、そうだわ。頑張って作ってくれようとしたのよね。でも三人とも作れなかったの」
「そういえば言ってたね。『花冠なら、ビーマのヤツに強請るがいい』って」
「!?」

手の中にある編みかけの花々を潰しかけて、慌てて手を離した。
花冠の練習をしていたのは、ドゥリーヨダナと出会う前の森で過ごした幼少期。
王宮での生活では、百王子の側に容易く近付けず。鍛錬の場で花に触れる事はない。
式典や祭典の度に王宮を彩る花がそこかしこに溢れ、あの藤紫の髪に映える花々が飾られた。
似合うだろうと、選りすぐった花で編んだ花冠はいつもひっそりと百王子の部屋に届けていただけなのに。

「真っ赤だわ」
「ねえねえ、どうしたの?」
「こら、からかってはならん」
「ふふ、内緒よね」

少女達の楽しげな声に包まれながら、唯一人ビーマは顔が上げられなくなっていた。


=◆=◆=
■□■
強くて弱い
「ビーマ?」

大樹の根元、膝を抱えて背を丸め、蹲っていた小さな影がびくりと震えた。
なるべく足音をたてながらそっと近づき、向き合う位置でしゃがみ込む。
頭を膝に押し付けるように俯く姿。
ボサボサに伸びた髪に手を伸ばし、指を絡めて梳く。
身動ぎもなければ、逃げもしない。

「サハデーヴァも泣き止んで、母様に甘えていたよ。一緒にいた父様の従者も、驚いただけでビーマを怒ったりはしていない。みんな、いなくなったビーマを心配して探しているよ。僕と一緒に帰ろう?」
「ユディシュティラ兄ちゃん…でも、俺、サハデーヴァにひどいこと、して…っ」

くぐもった弱々しい声に、鼻を啜る音がまざる。
膝を抱えた腕が邪魔で見えなくとも、眼を押し当てている膝は涙に濡れているのだろう。
よくある幼児の兄弟げんかだと、大人達は口にしてあまり気にしてもいなかった。
他愛ない日常の一片。
容姿に優れた末弟の綺麗な髪を整えてやりたかった次男が力加減を間違えて、何本かの髪と引き換えに大泣きさせた。軽く結い上げるだけでよかったのに、握り込んだ拳の力はビーマの想像以上に強く、華奢で儚げな美しさをもつサハデーヴァの頭皮では耐えきれなかっただけだ。
真意はともかく、無理矢理引き抜かれた髪がもたらす痛みに、幼いサハデーヴァが抗えようはずもない。
引き抜かれた幾つかの髪には微かに血もついていて。
号泣するサハデーヴァと、泣き声に集まってくる従者達、指に絡んだ髪を凝視して青褪めるビーマ。
か弱く幼いサハデーヴァを取り囲み、手当てに慌てる従者達がその場から逃げ出したビーマの姿を追いかける余裕などない。

「大丈夫。わざとでも意地悪でもなかったんだろう?ちゃんとサハデーヴァもわかってるよ」
「っく、で、でも…サハデーヴァすげー泣いてっ…血が、ついててっ」
「痛くて驚いただけ。ビーマがそんな意地悪なことするなんて思ってない」

ユディシュティラが頭を撫でる手を振り払うように、ビーマが顔を上げる。
素直で優しい次男坊は、この場所で独り泣き続けていたのだろう。淡い輝きの紫水晶の瞳が、泣き腫らして赤みを帯びて。目元と頬は幾筋もの涙の跡に濡れ、今なお溢れ落ちる涙が頬を滑る。
怒鳴り合いの喧嘩でなく、取っ組み合いの乱闘でない。
一方的に相手を傷つけてしまったと怯え悲しむ、心優しい次男坊が可愛くないわけがない。
傷つき泣いているだろうと持ってきていた手巾を取り出し、頬へ触れさせて。
目を細め、柔く笑む。

「サハデーヴァの手当てはもう終わってるし、ビーマも他人の髪がそんなに脆くて弱いなんて知らなかっただけの事。そんなに泣かなくていいんだ」
「ひぐっ、俺…おれ…っ、いつもキレイにしてるサハデーヴァが、髪を結ってるの見てて。そしたら、サハデーヴァが触っていいって、言ったから…だからっ」
「そう、サハデーヴァから言ったのか」
「サラサラでキレイで、結い方…教えてもらったのに、出来なくて」
「そっか」

手の甲で、腕で、何度も涙を拭いながら少しづつ話してくれるビーマ。
事の次第は既に、あの場にいて全てを見ていた従者から聞いて把握しているけれど、ぽん、ぽんとあやすようにビーマの頭を撫で、ゆっくりと話を聞く。
ひとつひとつ口にしながら気を落ち着けて、鼻を啜る回数が減り、息がととのっていく。
涙はまだ止まらずとも、その瞳はまっすぐにユディシュティラへと定まりはじめた。
口元や目元まで拭いてから、手巾をビーマへ渡してやる。

「鼻かんで落ち着いたら、兄ちゃんと一緒に考えようか」
「ん。なにを?」
「ビーマが次はサハデーヴァを泣かさずにいられる方法」

やっと穏やかな顔色に戻ってきたところだったのに、表情が陰る。
向かい合っていた場所からビーマの隣へ移動し、寄りかかるように体重をかけて顔を近付けた。
内緒話でもするように、小さくなる声。

「…どうしたらいい、俺」
「僕やアルジュナと遊んだり、手を繋いでもビーマは平気だろう?おまえはちゃんと力加減が出来るんだ。だから、もうちょっと弱い力で触れる練習をしようか」
「出来ると思う?ユディシュティラ兄ちゃん」
「もちろん。ビーマは兄ちゃんに怪我させたことないだろ」
「ん…そう、だけど」
「心配ないよ、ビーマなら出来るって。兄ちゃんも付き合うから、アルジュナとも一緒に練習しよう」

不安げに揺れる紫水晶へ、絶対の自信を持って頷いてから目を合わせる。
同じ神の化身とはいえ、ヴァーユの加護を持つビーマと非戦闘神であるダルマの加護を持つユディシュティラでは力の差は歴然。
サハデーヴァ程でなくとも、ユディシュティラですら耐えられない時はある。
それでも、怪我など負ってはいない。
負わせまいと気を使うビーマの優しさを知っているし、だからこそ怪我など負ってはならないと慎重に対応しているから。
五兄弟で一番繊細な心を持ち合わせている、誰よりも力が強い弟。
自慢の弟の心を、誰にも傷付けさせないよう。
力以外の方法で守ってやるのが、長男であるユディシュティラの仕事。

「サハデーヴァに謝りに行かないと」
「僕もついていこうか?」
「んーん、平気。…でも、あんまり遠くにはいないでほしい」
「わかった。じゃあ、帰ろうか」

立ち上がったユディシュティラが差し出す掌を、ビーマが一瞬躊躇ってから握った。
いつもよりちょっとだけ弱く、でもしっかりと。


=◆=◆=
■□■
夕陽だけが知る想い
淡い藤紫の長い髪が、身体の動きに合わせて流れていく。
日常的な鍛錬の一端でしかなく、わざとらしい大仰な動作などなくとも舞踏のように華やかに。手にしているのは練習用の飾り気のない棍棒で、鈴や楽器ですらない。強い風が吹かずとも軽やかに揺れる髪を結うこともせず、背に流しているだけだからこその自由な動き。
本来、邪魔であり集中力を欠く一端になりうるのは重々承知の上で、些事に囚われることなくいかに集中力を切らさずに鍛錬を続けられるかを訓練しているのだ。
ドローナ師の指導を受けながら、実際に鍛錬する時の練習相手はいつもビーマ。
九十九いる弟達よりも真剣に身体を鍛え、断然筋が良いと褒められもするようになると、ドゥリーヨダナとの組み手の相手が出来る者が限られてくる。
歳同じく、身長に差異もない、少しだけ筋力に差があるだけの存在がいるのなら必然的に、練習相手は決まってしまう。だからこそ、か、それ故、か。

(この動きでは隙が多い。あのバカの反応速度なら返される!クソっ…)

しっかりと脚を広げて腰を落とし、一撃に乗る重さを最大限に引き出しつつも動きの速さを殺しすぎないように。今の幼い身体で出来る精一杯の強さを、何度も反芻し確かめる。目の前にはいなくとも、常に比べられてしまう半神の怪力馬鹿の動きを予測しながら。
頭から伝い落ちる汗が邪魔で、掌で拭う。身綺麗に整えている髪も少し乱れ、服は汗に濡れて重く貼り付く。ベタベタの肌も、白く乾いた汗が描く不恰好な模様も不快だが、気を回す余裕はない。ただ一撃、たった一撃を喰らっただけで、その重さと強さに手が負ける。
同じ師から学ぶ、同じ歳の子供同士での打ち合い。だのに、一度も勝てたことがない。
力任せに打って出られると、どうしても競り負けてしまう。ドゥリーヨダナとて弟達よりは身体つきもしっかりして成長は早い方だが、それ以上にビーマの体格が良く成長が早い。

「っく、イッて…!!」

指が震え、限界を迎えていた握力を失った手から、練習用の棍棒が落ちた。
成長途中のまだ柔らかさが残る掌には、硬くなったタコと、潰れたばかりのマメの痕。ただの人であると神から決められた身体は、急に頑丈になどならないしすぐに強くもならない。
毎日毎日積み重ねていった結果だけが、半神でも化身でもない人間の身体を作り上げていく。
そんなにも集中して鍛錬し過ぎてしまったかと、舌打ちし空を見上げた。まだ陽は高く、体感はともかく鍛錬を始めてから二時間から三時間以内だろうと目算する。
コンコンと踵を地面に二回打ちつけて、深く息を吐く。痙攣する両手はしばらく使い物にならないだろうから、両腕からだらりと力を抜くと肩幅に脚を開いて。
背筋は真っ直ぐに重心を落として、捻るように空気を切って蹴り上げた。
純粋な力だけではただの人であるドゥリーヨダナでは、半神の怪力には敵わない。
どだい納得出来はしないが、そんな事は最初から理解している。どんなに小手先の搦手だと言われようが、純粋な力以外で勝てる術を探り続けることが身体を鍛えることと同様にドゥリーヨダナにとっての優先事項。
絶対に、負けたくないから。
何度も模擬戦で負けようと、些細な日常で怪我を負わされ続けようとも。

(負けてなどやるものか)

悔しげに歪む紫水晶の瞳が幾度となく涙に滲むことはあろうとも、決してビーマから逸らされたりはしない。奥歯を食いしばって、何度でも立ち上がる。
ドリタラーシュトラ王に愛されし百王子の長兄、次代の王を目指す正当なる王子。それが自慢であり、絶対的な自負。
産まれた時の吉凶など些細な事で、産まれる前の異常も特異な産まれ方もどうだっていい。
敬愛する父王の後を継ぎたいのも、顔も知らぬ有象無象だろうが自国民達の上に立って王として立派に務めたいのも、敬われたいのも。九十九の弟と妹にガーンダーリー王妃と笑って楽しく生きていたのも、全部全部手に入れたいだけ。
王族として何もかもを欲しがったところで、金で買えぬ形の無いものは手に入らない。
ならば、どんなにキツくて面倒くさくて厄介で嫌だろうが、必死に足掻くしかないのだ。

(力任せに上から来るから…、ギリギリで避けるようにして。後に逃げるよりは前に踏み込むように足を出して、こう、動いて…)

体捌き、脚運び、息遣い。ビーマの動きのクセを何度も脳内で反芻する。神がかった素早さも強さもドゥリーヨダナでは勝てないから、力任せな大振りの動きにある僅かな隙を狙って穿つように身体を動かせるよう。横薙ぎに動かれた時の衝撃と、距離の取り方に避け方と次の一手に繋げる動きの予測と。自分がどう動くべきか、一番反動が少なくそのまま反撃に移れる動きはどれか。仰け反る?しゃがむ?後ろに引く?いっそ前に…いや、横に避けて?
ドゥリーヨダナが動いた後にビーマならどう動く?それに自分はどこまで反応出来る?臍から下は攻撃出来ない、ならば脚を上げて蹴り飛ばすのは?上から振り下ろす動きの反動で回転して、横薙ぎに打ちつけてから…ひとつづつの動きを脳内で再現しては、検証するように身体を動かす。両手の痙攣はいつの間にか止まっていた。

(俺が、一番強くて、格好いい…ん、だっ!)

蹴り上げた脚の勢いで身体を回転させて、ぐるんと大地が逆さまになるのを目で追って。着地と同時に肩で粗い息をしつつ、どさりとその場に座り込んだ。
中天にあった太陽は赤みを増して、随分と地平線へ向けて傾いてしまっている。
汗を振り払うように頭を振り、取り落としたままの練習用の棍棒へ近づいた。
手当てをしてはいないが、掌の血はもう随分と固まっていて。瘡蓋になりかけている状態を崩さないよう、指先だけで棍棒を掴んで軽くかたむける。
肩を支えに腕を絡めればなんとか持ち上げることができて。

「俺が…一番強くてカッコイイ、んだ…俺が」

ポツンと呟いて夕日から目を逸らす。宮殿の影が青みの混じる紫色に染まっていく。
見覚えのある、色彩。
手入れとは無縁そうなボッサボサの長い髪だというのに、風に揺れるのが良く似合う剛毛。真ん丸の明るい紫水晶はどんなに弟達が傍に居並んでいても、いつだって真っ直ぐにドゥリーヨダナを見つけて。翳なく向けられる笑顔の眩しさを、知っている。
意志の強さを物語るような眉も、長い睫毛も、大きく開けて笑う口も。耳障りの良い声も。

(強くてカッコイイなんて、狡い)

小さく噛んだ唇の痛みよりも、心臓が小さく痛んだ。
地面に座り込み夕日を仰ぐ小さな背中を、離れた廊下から眺めていた影がある。
負けず嫌いで自尊心が強いドゥリーヨダナの密かな鍛錬に気付き、こっそり眺めていたなどとバレれば一瞬で機嫌を損ねられる。決して邪魔をしたいわけではないからこそ、不用意に近付かずに息を潜めてただ、見守っていた。
何時間もぶっ続けて一心不乱に鍛錬を続ける幼い背中から、目が離せなかったから。
必死な姿の理由が、ビーマに勝ちたいから。であろうとも、真剣な表情で歯を食いしばって何度でも立ち向かう様が眩しくないわけがない。
ドリタラーシュトラ王の宮殿で王の子である百王子の部屋と、王の亡き兄弟の子である五王子の部屋は離れていて、日常的に顔を見合わせる頻度は高くない。
百の王子を快適に過ごさせる為の部屋だ、膨大な部屋数と広さが必要なのは当然であり生活空間が重なることなど殆どない。お互いの為にも無駄に確執を増やす必要だってないのだ。
少し涼しさの増した風が、土埃と汗に汚れた長い髪を揺らす。毎日丁寧に手入れされている艶やかな髪は、多少の汚れくらいでその美しさを損ないはしない。

(綺麗な髪が、汚れてしまう。服も、顔も、いつもあんなに綺麗なのに)

小さな背中しか見えないけれど、長い時間ずっと動き続けて汗をかいて土埃にまみれていたのを見ていた。練習用の棍棒すら握れなくなった掌が血塗れになっていたのも、知っている。
両腕から力を抜いて脚技の鍛錬へと切り替え、動くたびに慣性に従って揺れる掌から血錆た赤黒い雫が何度か飛び散るのが見えたから。
傷口が化膿し悪化するのを防ぐ為に、汚れを落として薬を塗って包帯を巻いて、素早く手当をしなければならない。わかりきった当然のことだのに、ビーマは動くことができない。

(駆け寄って、手当て?冗談じゃない)

九十九の弟達に知られぬように奥庭の更に影の秘密の場所で鍛錬しているドゥリーヨダナに気付かれなどすれば、即刻憤慨されて立ち去られるに違いない。二度とこの場所に近付きはしなくなる。それは、ビーマ以外の誰であっても同じこと。
目の敵にしている五王子も、媚び諂う下々の家臣達だろうが生活の一部である身の回りに侍る従者達であろうとも、九十九の弟達であっても。
我儘と人誑しで誤魔化されているけれど、己の立場を十全に把握している百王子の長男だから。汗臭い努力など、決して誰にも知られたくないプライドの塊。

(嫌われに来ましたと、自分から言うようなまねができるか。
クソっ…手当て、してやれりゃあな…)

ほんの些細な怪我ならばギャーギャー声をあげて手当をしろと騒ぐくせに、骨を折るような大怪我をしたら口を噤んで黙り込む。知っている。わかっているから、何も出来ないのが悔しくてたまらない。
マメを潰して握力もなくなって尚、それでも鍛錬を止める気配はなかった。実際の組み手だったのなら、ビーマの一撃で武器を落とされ両手が痺れて使い物にならなくなったとて、逃げられはしないのだから。目の前にビーマがいたのなら、強く睨みつけたまま決して目を離しはしないから。
幼かろうが怪力無双のその力は宮殿中に響き渡り、ビーマと声を交わしたことのない者ですら恐れ慄く。誰彼構わず殴るような化け物などではないのに、誰も信じてなどくれない。
噂ばかりがひとり歩きして誇張されていく。否定しようにも、間の悪いタイミングで絡んでくる百王子達をあしらい損ねて怪我をさせてしまう。その度に増えていく悪評。

(俺は、ただ…仲良くなりたいだけなのに)

半神の身体に生半可な怪我など存在しない。強い治癒の力で早々に完治し、傷痕は残らず以前より強固な身体へと更新されていく。
ドゥリーヨダナに見つからないように隠れている柱へ、広げた掌をめり込ませる。容易く。ほんの、僅か力を込めるだけ。
蜘蛛の巣のようにひび割れて走っていく亀裂に、顔を歪め眉を下げると柱から手を離した。
ドローナ師の元で行われる鍛錬で、ドゥリーヨダナと組み手が出来る時間はとても楽しく何ものにも変えがたい至福の時間。兄弟達でも師でも両親でもなく、真っ直ぐにあの紫水晶の瞳がビーマを睨んでくる。打ち合い、躱し、踏み込む、その時間だけが続けばいいと思えるほどの楽しい時。予測のつかない動きも、素直じゃない搦め手も、全部全部、ドゥリーヨダナがビーマの為だけにくれる時間。いつまでも終わらなければいい。
けれど、変わらないことを望んでいるのはビーマだけだ。

「…ドゥリーヨダナ?」

夕日が色濃くなっていき、長い髪を揺らす風に冷たさが増して、陽が降りる。
鍛錬の疲れからだろう、休憩していると思っていたドゥリーヨダナが動かない。ただしくは、座り込んで練習用の棍棒を支えにしたままじっとし続けている。微かに揺れるのは風に揺れる髪と、小さく上下する身体。
足音を立てないようにそっと、そーっと近づいて行ってもビーマの気配に気付きもしない。
とうとう真後ろまで辿り着いて、ようやく耳に届いたのは規則的な呼吸音。

「寝てる?」

顔を覗き込んでも、顔の前で手を振ってみても、目を覚ます気配がない。
強気な紫水晶を目蓋が覆い緩く睫毛で隠される。汗の跡も、疲労の色もドゥリーヨダナが本来持つ生粋の愛らしさを汚しはしない。
繊細な髪に触れないよう、力加減を気にしながらドゥリーヨダナの肩へ腕を回した。筋肉量以外は殆ど変わらない体格差だろうとも、膝裏に腕を通して抱え上げる。軽くなどない。それでも、抱き上げるのに不足はなく立ち上がったとてふらつきもしない。

「…ゆっくり寝てろ。起きるなよ?」

応える声などない。僅かな振動すら厭うように静かに少しずつ足を進めて歩いていく。
百王子達が待つ彼等の部屋への道のりを、はじめて近過ぎると思いながら。



=◆=◆=
■□■
満たされない飢え
冷たい料理、重苦しい空気と無言、標準的な量でしかない食べ足りない食事。
どれも、新しい生活において苦痛でしかなかった。
温かい料理と、明るく賑やかな談話、腹一杯になるまで食べる食事。
それが、ビーマが好む『食事』であり食欲を満たす条件。
提供される物をただ口にし、咀嚼し、嚥下し続ける行為を食事だなどとは認めない。
機械的な行為に食欲を満たす為の幸福感も満足度も無いのだから。
けれど。森の民の生まれなのだと勘違いしてしまいそうなほど、森での暮らしに順応していたパーンダヴァの五兄弟が足を踏み入れた王宮は、初めて見る場所であるのに故郷だと伝えられた。
次代の王となる定めであったパーンドゥ、その二人の妻が産んだ五人の王子達。
初耳でしかなかった想像もしない立場と肩書きは、たった一日で五兄弟を『王子様』へと変えてしまった。
当の本人達が、激変してしまう立ち位置に戸惑っている間に。
着慣れない手触りのいい生地の服も、駆け回れば靴底が擦り減って壊れそうな靴も、必要性を感じないジャラジャラしただけの装飾品も。
どれもこれも身につけ慣れずに、落ち着かない事この上ない。

『王子なのだから』

見合う姿でいなくてはならない、らしい。
幼少期からしっかりと座学を学び礼儀作法を身につけ、己の保有する神の化身たる能力を完璧に制御する。出来て当然、らしい。

(川で魚獲って、森で獣を狩って生きてきた生活のドコにそんな暇があったってんだ?自分達が、ちったあ身分が高いだろうが王子だなんて知りもしなかったのに。だ)

金銀の細工が散りばめられた装飾品をできるだけ壊さないように取り外し、そっとテーブルの上へ。頑丈さよりも優美さを優先した靴も脱いで、テーブルの傍へ揃え置く。
上等なのに脆そうな服を脱ぎ、下働きの者達と同じ頑丈なだけのゴワゴワした着慣れた服を着て。開放的な窓から外へと飛び出した。
目的地は王宮から近い森。人の足なれば困難な距離だろうとも、風神ヴァーユの加護はビーマの身体を風と同化するように遠くまで一気に運んでいく。
独りであれば、容易いこと。
眼下を都や街道が過ぎ去っていけども、何も感慨がわくこともない。

『クル王家の正当なる後継者、全ては貴方方の土地であり民』
『簒奪者ドリタラーシュトラに代わり、貴方方が次代の王に』

母であるクンティーと長兄であるユディシュティラへ連日届けられる言葉と品々。
どれほど真剣に言葉を紡ぎ心を折ってこようとも、聡い長兄は曖昧に笑みを浮かべ聞き流す。
父ともう一人の母を失ったパーンダヴァを受け入れ、養ってくれているのはドリタラーシュトラ王その人なのだから。
いかに正当後継者だと口にしたところで、王位を棄てて森に身を寄せたパーンドゥの忘形見。
後ろ盾も弱ければ、次代の王へ推す力も弱い。
ドリタラーシュトラ王も王妃も盲目とはいえ治世は穏やかであり、時代を担うその息子達の数も多く、肉体的な欠損を持つものもいない。
過去の栄光に拘る必要はなく、今の王家の後継は誰が横槍を入れようがドゥリーヨダナに決まっている。
何故、そんなことがわからないのか。

(はー…外の空気は落ち着く)

木々と緑に囲まれて、飛ぶように走り続けた足を止めた。
ビーマが急停止した反動で一陣の風が進行方向だった向きに通り過ぎ、周囲の木々を大きく揺らす。土と草の匂いが風に舞って。
肺一杯になるよう深く息を吸い、静かに目を閉じた。
少しづつ息を吐き、葉擦れの音や遠くの鳥の声に耳を傾ける。
不快な声は、ここにはない。
肺の中を空っぽにして、ゆっくりと目を開けた。
懐かしい森の景色、に良く似た場所。草木を分け行ってあてどなく歩き、道々で発見した木の実へ手を伸ばす。
瑞々しい甘さ、痺れるような酸っぱさ、摘みたてだからこその味わいに舌鼓をうち、余すことなく感受していく。
王宮で味わえない味覚を腹一杯になるように。

『ビーマには我慢させる事になる、それだけは確実だ。
すまない。それでも、父上を失った我々は王宮に縋るしかないんだ』

哀しげに頭を下げた長兄を、謗る言葉をビーマは持たない。
家族である父パーンドゥを主と仰ぎ従った少数の従者と、母クンティー支える従者達、それと五人の兄弟達。百を超える大所帯ではないが、十を裕には超える人数が欠けることなく王宮に迎え入れられた。その事実に不満があるものか。
立派な離れを用意され、家族が暮らせる場所と安定した生活を提供してもらえているのだ。
腹の虫が、鳴く。

(美味いものが食いたい…あったかくて、ウマいもの)

王族に連なる存在である王子の食事は、幾人かの毒味を経て提供される冷めた物。
つめたく味気ない、料理の数々。
香辛料を惜しげもなく使用していようが、冷めていては味は薄まるばかり。
事前の毒味で異常があれば、提供される料理の数は当然減る一方。
森を離れてからずっと、ビーマの空腹が真に満たされることはない。
兄弟で協力し合って獲物を狩り、食材を集め、少ない調味料を工夫して作っていた質素ながらも温かかった料理は、もう食べることは出来ない。
あの王宮にいる限りは。
ビーマ達が望まなくとも、勝手に仰ぎ立てる周囲の思惑に真正面から否定するだけの権力も力も金も、持たないのだから。
空腹に任せて歩いていたビーマの目の前に現れたのは、食べられない光の集合体。
天から注がれる太陽光を一身にうけ、大振りの枝を広げる樹木から垂れ下がる光の塊のような黄色い花々。

「わ…すげぇ…」

食べれもしないのに吸い寄せられるように近づいて、手を伸ばす。
黄色い花の塊を瞳に映しながら、脳裏によぎったのは長い髪の美しい彼の姿だった。



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