=追加=


百分の一が背負うモノ
「兄貴、兄貴!俺の腕輪どこいったか知らね?」
「兄ちゃん、オレの靴見なかった?」
「アニキー、ヴィカルナ探してんだけどアイツどこ?」
「お兄ちゃーん?アシュヴァッターマンが探してたよー」

前後左右方々からポンポンと勢いよく投げつけられる弟妹達の声。
どうでもいいような些細なことかから、直に伝えるべき内容まで全てがぞんざい。
王宮内に設られた百王子が裕に寛げる広い部屋。
今この場にいるのは百一人全員ではないが、それでも十二分に喧しくまとまり等皆無。
元を辿れば同じ肉塊を分けた同一の存在である弟妹だからか、生まれた順序の年功序列もさしたる力をもたない。唯一人長兄を除いて、だが。
全員が同じ程度のクズであり残念な性根だと、自分達が誰より一番よく理解している。
あえて口に出す事を特段しないだけで。

「腕輪も靴も自分で探せ!俺に聞くな!
ヴィカルナなら自室だろ、今日はまだ見てない。
俺が探しに行くよりも、アシュヴァッターマンをここへ呼んでこい!」

面倒くさそうに肩を回し、返事をしてやりはするが上座のクッションの上からは動かない。
飽きもせずに何かしら毎日厄介事を連れてくる弟妹達の世話には慣れきっていて、もはやドゥリーヨダナ本人が動く必要のないことで右往左往することもない。
風通しのいい窓からのんびり外を眺めつつ、ゆったりした午睡をきめこもうとしていた。
乱れた足音をたてて焦りながら駆け込んできた弟の一人が、真っ青な顔でドゥリーヨダナに縋りつくまでは。

「ヤバイ、ヤバイヤバイ!兄貴っ!兄貴、兄貴!!
ドゥフシャーサナがビーマにぶん殴られた!」
「はあ!?またか、あのバカビーマ!?
ドゥフシャーサナも無闇に近付くなと言ってるだろうが!」
「早く早く!ドゥフシャーサナの怪我がまたヒドくなる!」
「今行く!!」

室内でだらしなく寛いでいた三十人ほどの弟妹達がどよめく。
苦々しく奥歯を噛み締め、握った拳に力を込めながら素早く立ち上がると弟の先導で百王子達の為の溜まり場になっている部屋を後にする。
戦力になるわけでもないくせに、幾人かの弟達は怖いもの見たさでドゥリーヨダナの後に侍ると、ぞろぞろと大所帯で廊下を進んだ。

一つの肉塊を百一に分けた弟妹が、一人の完全な神の化身の力に抗えるはずもない。
知能もしっかり百に分けたと言わんばかりに短慮な弟達が多く、確固たる自我を持つドゥリーヨダナと唯一の妹だけがかろうじてまだマシと言えなくはない部類。誤差の範囲内だが。
神様は不公平で、我が儘で迷惑だ。
百分の一の強度と体力だろうが、長男である以上弟妹の代表で頼るべき筆頭。
分断されてもいない弱体なしの神の化身に、如何に立ち向かうのが正解だというのか。

「兄貴」
「アニキ」
「兄ちゃん」

ドゥリーヨダナを取り囲む弟達の声がする。
特異な生まれ方をしただけの、脆く弱い人間が如何に無慈悲な神の化身と戦えばいいのか。
歪みそうになる顔を、精一杯の気力で押し留める。
どれほど憤慨しようとも、誰も助けてはくれない。
馬鹿でロクデナシの百王子を庇うような従者はなく、幼くとも暴風のような相手に立ち向かう勇者などいないのだから。

「助けて」
「守って」
「倒して」

自分勝手なお願いばかりが聞こえてくる。
泣そうな青ざめた顔、怒気をはらんだ赤い顔、悔しげに唇を噛む顔。顔、顔、顔。
向けられる百の羨望がドゥリーヨダナ唯一人の幼い肩にかかる。
どれほど辛い鍛錬を繰り返しても、純粋な力では相手にならず。
筋肉量も、一撃の重さも、振り下ろす速さも、瞬間的な反応力も、全て劣るのに。

(ああ、狡い…何が悲しくて、こんなにも明確に力量の差を痛感させられながらも、立ち向かわなくてはならんのか。
賢さも美しさも強さも、パーンダヴァの五兄弟には完璧に備わっているくせに。
対等に立ち向かう事もできない我等を、何故毎回毎度傷付ける)

胃の腑、腹の奥が重く沈む感覚。
込み上げてくる不快な胃液を、背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見据えて歩く事で無理矢理抑え込む。
不快感も苛立ちも全部全部混ぜ合わせ、憤りの表情にしてしまえばドゥリーヨダナの周りに侍る弟達には気付かれない。
ビーマへの嫌悪感と怒りなのだと、そう見えるから。
本当はもっと複雑な感情が隠れていても、伝わらなければ困る事もない。

「アニキっ!こっちこっち!!」
「ドゥフシャーサナ、立てるか?」
「……悪ぃ、兄貴…無理」
「おい、肩を貸してやれ。部屋に戻るまで、痛いのは我慢しろよドゥフシャーサナ。誰か、先に部屋に戻って手当ての準備をしろ」

弟二人がかりで左右からドゥフシャーサナを支えて立ち上がる。
三人ほど先に駆け出して、部屋に残る弟たちへ応急手当ての準備を伝えに行く。
ビーマは既に立ち去り、喧嘩の現場となった場所に残るのは無惨にひびの入った柱のみ。
ドゥリーヨダナの周りに侍っていた弟達へ、ドゥフシャーサナの手当てを任せて。
独りきり、蜘蛛の巣状にひび割れた柱を前に立ち尽くす。
これでもかと力量の差を見せつけられ続け、それでもまだ、同じ歳の王子なのだからと比べられなくてはならない。

(ズルい)

他に何と表現すればいいのかすらわからなくなりながら、不愉快極まりない感情がドゥリーヨダナの中に蓄積していくのを自覚する。
苦さと憎さの込み上げ続ける苦しみは、他の誰であろうと同じように理解できないだろう。
この感情はドゥリーヨダナだけのもの。

(生まれから、立場から、素養から、何もかも違うのに、何故馬鹿正直に相手に合わせて正々堂々対応してやらねばならん!?
存在そのものがズルいのだから、こちらがありとあらゆる手を使おうがズルいと言われる所以は無いではないか!)
「ああ…そうだ、どんな手を使っても勝てばいい…そうか。あやつらは存在がズルいのだものな」

短く切り揃えたばかりの髪に手をやって、そう暗く呟いたドゥリーヨダナの表情を知るものは無かった。


=◆=◆=
■□■
まどろみ

修練場でなく、心地良い木陰でもない、中庭のど真ん中。
暑い日差しが降りそそぐ砂の上。
開けっぴろげの広い地面の上、両手足を投げ出して大の字で寝転がる塊がひとつ。
怪訝な表情を浮かべながらも興味本位でずかずかと近づいていった先にあったのは、大口開けてイビキをかきながら眠る体躯。

「は?コイツこんな所で寝とるのか?」

あまりにも無防備でいられるのは、その怪力から逃れられる者の存在が王宮内にいないからか。
よほど動き回った後なのだろう、豪快なイビキは途切れもしない。
熟睡というのも烏滸がましいような爆睡。
現に、ビーマの寝転ぶ顔のすぐ側までドゥリーヨダナが近付いても、気配に反応もしなければ目覚める事もない。
害敵扱いされていない事実に喜ぶべきか、侮られている現実に怒るべきか。
気持ち良さそうに寝こける能天気な顔を踏みつけてやろうと悪戯心が湧き上がるのを抑え、気取られて目覚められては厄介だからとしゃがみ込む。
実の兄弟でもない間柄故に、至近距離でまじまじとビーマと顔を突き合わせたことなどない。
メンチ切って睨み合うことはなくはないが、頭に血が上っていない状況で、という前提条件が何より珍しい。
瞼に閉ざされた意志の強い瞳が隠れているだけで、同い年であるはずの顔が幼く見えた。
大食漢な大きな口に、太い眉。男らしさの塊みたいな身体つきだというのに。

「ビーマのくせに睫毛が長い…ドゥフシャラーか、お前は」

可愛い可愛い唯一の妹よりも整った目元に、ムッと顔を歪めて。
ささやかな意地悪として掴んだ髪は硬く、まるで野生の獣の体毛。
誕生から現在に至るまで王宮での生活しか知らないドゥリーヨダナは、自然界の中で生きる本物の野生の獣に出会ったことはない。
それでも、牢に繋がれ鎖をかけられた動物くらいしか目にしたことはなくとも、従者達の手によって毎日懇切丁寧に手入れされる滑らかなドゥリーヨダナの髪とは大違い。
その感触の珍しさに思わず手櫛で髪を梳く。
指に絡むことはないが決して滑らかではない手触りだのに、それが面白くて何度も髪に指を通す。
そのうちむずがるように身じろぎ寝返りをうったビーマが、砂だらけになった背中を晒した。
ドゥリーヨダナとは反対の方向へ横を向いてしまった無防備な身体。
飽きて離れても良かったのだが、もう一度だけ。
髪を梳くのではなく、頭を撫でるようにそっと触れた。
どうしてなのかとドゥリーヨダナも理解はしていないまま、けれど、撫でたかったのだ。ただそれだけ。
片手を地面に着いて、身を乗り出し、ビーマの顔をのぞきこむようにして。

「ビーマセーナ」

耳元に近い場所で囁くように告げられた名。
弟妹へ向ける優しい甘さがまじる、小さな声。

「っぅわ!?」
「か、ハッ…!?」

弾かれたように跳ね起きたビーマから、避けられるはずもない。
予備動作一切なしに至近距離の互いの顔を、どうやったら避けられるのか。
ゴンッ、と大きな音を響かせたのだった。

険しく眉間に皺を彫り込んで、片手で頭を押さえながらも半身を起こしたビーマ。の、膝の上に倒れるように落ちたドゥリーヨダナの身体。
赤くなった額と、軽い脳震盪からくる気絶状態で身じろぎもしない身体。
突然の痛みが引くのを待ちながら、何故ドゥリーヨダナがビーマの膝の上に頭を預けているのかと驚いた。
鍛錬を終えた後、休憩のつもりでちょっとだけ昼寝をしたところまでの記憶はある。
周囲の庭の景色は、昼寝をする前と影の位置以外はなにも変わらない。
ドゥリーヨダナ以外は。
ビーマに触れられることを嫌悪し、近付こうともしない。
それが、ビーマの知るドゥリーヨダナ。
それが、何故?
寝起きのまだぼんやりとした思考であり、何かにぶつけたらしい謎の頭痛もあって、明確な理由を想像する事もできない。
意識がなく眠っているからではあるが、こんなにも静かなドゥリーヨダナと対面するのが初めてなものだから焦りや不安が混じる。
揺り動かしてでも起こして早々に離れるべきなのか、決して触れる事なくドゥリーヨダナが自ら目覚めるのをじっと待つべきなのか。
厚顔無恥に朗々と、常に百の弟妹の誰かを侍らせている喧しい存在。
そう認識しているものだから、口を開かず静かに眠る姿は違和感しかない。

(黙っていれば、妹よりも綺麗で可愛いのに)

下手に触れると怪我をさせたり、力加減を間違えて目覚めさせてしまうかもしれないと思い、触れるか触れないかのギリギリの距離で絹糸のような艶のある髪に触れる。
ゆっくりと細心の注意をはらって、じわりじわりと手を動かして撫でるようにして。
短くなってしまったけれど、指先を通り過ぎる細い髪は手触りがとても良い。
健康的な顔色に化粧をせずとも瑞々しい肌、甘やかな紫水晶の垂れ目は目蓋で閉ざされているけれど。
百の弟妹であったなら、遠慮なく触れていても叱られも嫌われもしないだろうに。
薄く開いた唇に、手を伸ばす勇気が足りず。
開きかけた掌が、震えては閉じるのを繰り返す。

(こんなに近くにいるのに。
俺の膝で眠るドゥリーヨダナなんて、もう二度とないに違いない。
けど、触れてしまったら…もっと嫌われてしまったら…)

せつなく落としたため息に返事はない。
貴重なこの時間を噛み締めるように、ただじっと眠るドゥリーヨダナの顔を眺め続けてた。



=◆=◆=
■□■
彩度の異なる紫水晶
想像もしなかった出会いの驚き。
けれど、それは定められた運命の結果でしかない。
初めから決まっていた、たとえそうであったとしても。

目を、奪われたのは事実
心を、惹かれたのは現実
胸が、高鳴ったのは本心

見目の愛らしさに、所作の洗練さに、声の軽やかさに。
紫水晶の瞳、淡い藤紫の艶めいた髪。
玉のように磨かれた滑らかな肌、年相応でありながらバランスの取れた体躯。
しなやかな手脚に、飾りたて過ぎずされど高貴さの伝わる質のいい装飾品の数々を己が身の一部だとしっかり着こなして。
九十九の弟と唯一の妹を侍らせ、盲目の両親の名代としてたつ幼い背中。
尊大な自負も傲岸不遜な態度も、まだ控えめで。
よく回る頭で知略を巡らせ、目上だろうと掌で転がす。
損得勘定よりも己が意思を優先しがちなところが玉に瑕なれど、愛嬌だと押し通す。
大勢の家族に囲まれて、よく笑う愛らしい少女のような可憐な存在。

(一目惚れ、だったとしても悔いはない)

弟達の前では逞しく、兄の前では従順に。
呵々大笑と屈託なく笑い、時に大声で吼えて怒る。
裏も表もなく真っ直ぐで、真っ直ぐが故に誰の前でも隙だらけ。
聡い兄に護られて、聡明な弟達に庇われる。
どれだけ騙されたとしても、誰よりも強い腕っぷしで何にも囚われることなく立ち回る。
純粋で、力強く、豪気でありながら、周囲に向ける視野と思慮深さをも併せ持つ。
ただの怪力馬鹿にあらず、繊細な目も所有する。
太陽に愛された濃い褐色の肌と、紫水晶の瞳。
森で鍛えられた身体は表皮も硬く厚く、筋肉の形がはっきりとわかる深い溝をつくる四肢。
割れた腹筋と発達した胸筋に割れ目がみえる背中を覆い隠すのは、上品さよりも頑丈さを優先した衣。
伸びるにまかせた髪は長く、整えてるとは言い難いありのままの姿。
けれど、それすらも人間離れした動きの躍動感を伝えるための、青紫。
屈託なく笑うその顔が、誰よりも兄弟達を大事にするその様が眩しかった。

(一目惚れ?いいや、その魂の在り様に惚れた)

互いに重なることのない思いと立ち場。
なればこそ、不用意に近づき過ぎずに生きなければ平和に過ごすことなど出来なかっただろう。
周囲の思惑は多く、無邪気に新しい兄弟だと諸手をあげて喜べはしない。
素直に喜べていたのなら、喜んでいい運命だったのなら、すべてが違っていた。
どこまでいっても平行線。
守りたいものが互いにあって、欲しいものと譲れないものがあった、ただそれだけなのだ。
本当に多くの人間を、生物を、多くの命を無惨に散らす結末となってしまうのだけれど。

((仲良く、なれたなら良かったのに))

その思いだけは、嘘偽りなくお互いに一番最初に芽生えた気持ち。



=◆=◆=
■□■
見える眼にかかる重圧
喧嘩っ早くて短慮。考えるよりも口が、手が、先に出てしまう幼稚で馬鹿で愛しい弟達。
九十九の物量を、たった一人で抑えるには限度があって。
長兄だからと押し付けられる義務にはほとほと手をやく。
方々で殴り合う音に、怒鳴りあう声がしようとも、ドゥリーヨダナの身体はひとつのみ。
同時に三箇所、四箇所と対処出来ようはずもなく、どれかに肩入れして下手に力関係を崩すわけにもいかない。
必然、九十九の兄弟達の喧嘩のどれにも仲裁も加勢もしなくなっていく。明確に善悪を判断できる場合であろうとも、割ってはいる隙を作れなくなってしまったから。
些細な事で諍いあってもすぐに仲直りをして、また兄弟同士で馬鹿やって。そうやって楽しく生きてきた。
盲目の父と眼を閉ざした母の愛は厚く、百一の弟妹達を甘やかし慈しんでくれていたから。
ずっとそうやって生きていくのだと、思っていた。
父、ドリタラーシュトラの兄弟の息子達、パーンダヴァ五王子が王宮へと舞い戻って来るまでは。

王位継承権を危ぶまれ、従者達は割れ、権力争いが勃発する。火を見るよりも明らかな転落の予兆がいくつも生まれた。
我が子への過剰な愛と盲目故のハンディキャップはあれど、ドリタラーシュトラの治世は穏やかで、無為に他へ目を向け手を伸ばすことをしなければ崩壊を早めることもなかった。
表立つことなく水面下で秘めやかに繰り広げられる工作に、何より早く気付き芽が出る前に潰すことが出来ていれば。という前提条件はあったけれども。
どれほど華美な黄金財宝も、視界を持たぬ王と王妃には貢ぎ物としての効果は然程無い。
宝飾品の美しさに目を焼かれることもなければ、希少価値のある輝きも見えなければ意味がないのだから。
なれば、どうするか。
単純なはなしで、見える者に価値を知らしめれば良い。
王と王妃に近しく、貢ぎ物の素晴らしさを目で見て評価出来、王と王妃の次に受け取る事が出来る存在がいればいいのだから。
玉座に必ず存在する必要はないが、次代の王であることが確定しているのならばどんなに御しやすくラクだろう。

『貴方様が次代の王。願わくば、その御代の末席に我らをお忘れなきよう』
『正当なる美しき次代の王へ、その身を引き立てる宝飾品の数々を』
『百の王子へ敬愛と忠義を、変わらぬ治世に感謝を』

王へと捧げられる貢ぎ物に、ドゥリーヨダナ宛の品々が露骨に増えたのはちょうどその頃。
唯一の姫である妹への捧げ物は元より多かったが、九十九の弟達への貢ぎ物の数は変わらなかったのに、長兄であるドゥリーヨダナにだけ数が増えた。
後ろ盾を必要とする者達、権力を熱望する強欲な者達。
王の傍に立ち、眼前見下ろす下々の者共がドゥリーヨダナへと向ける目に、若き王子への希望を見出す光はない。
保身と出世欲の濁った目ばかりが、ずらりと居並ぶ重臣達から向けられる。その不快なプレッシャー。
合間に挟まれる鋭い視線は、パーンダヴァ五王子を正当後継者と仰ぐ者達からのもの。
ドリタラーシュトラを王位簒奪者と謗り、次代の王をユディシュティラと望む一派。
害意と悪意が明確にドゥリーヨダナに向けられようと、すぐ傍にいる盲目の王には見えはしない。
ドゥリーヨダナだけが、真っ向から全ての視線に貫かれながら、誰からも目を逸らす事なく凛と立つ。そこに己に尊敬と敬愛を捧げる百の弟妹からの目はない。
全ての矢面にあって、百の弟妹を護れるのはドゥリーヨダナだけなのだから。

(しっかり、しなければ。
俺だけが、馬鹿可愛い百の弟妹の一番上の兄で、次代の王になるべき王子。
優しすぎる父様と母様をパーンダヴァ派の奴等から護らなくては。
父様と母様の血を受け継いだ正当な後継者は、間違いなく俺なのだから。
長男なのだから、俺は。俺だけが)

ひやりと冷たい風が吹いて、ドゥリーヨダナの短くなった髪を揺らした。
自然と俯いていた顔をあげると、大広間から随分遠くまで歩いてしまっていると気付く。
思案に沈み歩き続けていた足は、広い王宮を同じ場所でぐるぐると回りもせずにまるで目的地でもあるように歩き進めていたようで。
木漏れ日の差し込む広い中庭の明るさに、顔を背けてしまいそうになる。
王宮の外れに近い場所まで来てしまったからか、庭の手入れはされているが周囲に人影は無い。
廊下の柱に寄りかかることも出来たが、万一の人目すらも避けるようにして大きく枝を広げ、庭全体に木漏れ日を生み出している大樹の幹にしな垂れかかった。
木の葉擦れの音だけしか聞こえてこない、誰もいない場所。

ドゥリーヨダナだけが、今、此処にいる。

大樹の幹、その陰で根元に腰を降ろす。
陽光の差し込む空を見上げるのではなく、そっと膝を抱えて。
膝に顔を埋めて、目蓋を閉じる。
耳は、木の葉擦れのささやかな音だけを拾う。
ゆっくり吐いた息のかわりに、深く吸い込むのは土と風と草の匂い。
耳障りがいいだけの悪意も、上辺だけの嘘も、今は遠い。

(父様と母様と弟妹達と、何不自由ないいつも通りの日々が永遠に続いて欲しいだけなのに。幸せに生きるとは、何故こんなにも難しいのか)

閉ざした目蓋の奥に光はない。
じわりと込み上げてくる熱は、幻想。
唯一無二、傲岸不遜で尊大で、誰よりも格好良くて完璧な百王子を束ねる『ドゥリーヨダナ』は、決して脆くあってなどならないのだから。


=◆=◆=
■□■
アヴィヤル
底無しの深い川底だったのなら、重苦しく暗かったことだろう。
荒々しく全てを呑み込む激流であったなら、逆らう事など出来ずに流されるしかなかっただろう。
何処へ流れ行くのかすらわからぬほどの広い川幅と、視界すら潰す汚れきった濁流なら抜け出すのは難しかっただろう。
残念ながらそのどれでもなく、澄んだ空色を川底に沈みながらも見上げることができていた。
抗えぬほどの勢いではない流れにのって、身体は沈む。
水面は遠く手を伸ばしても届きはしないが、両手で水を掻いていくらか泳げば顔を空気に晒すのも不可能ではない深さ。
意図的に浮き上がろうとしていないだけで、いつでもこの程度の川の中からならば抜け出せる。
抜け出せは、する。
そこに必死さはなく、苦渋の選択ですらない。
このまま冷たい水にのまれ、体温すら水と同化して泡にでもなって消えてしまえれば良かっただろうに、そう思ってしまう精神が『生きる為に足掻く』選択肢を消しているにすぎない。
水の中で吐くため息は気泡となって流れていく。
散々泣いた涙は川と同化して、枯れてしまった。
半神の身体は憎らしいほどに頑丈で、川の水底に沈んだ程度では死なせてくれはしない。
誰にも助けを求めていなくとも、容易く死ぬことすら許されないのだから。
ナーガに助け出され、幾日かかけて王宮へと戻る事が出来た時には、ビーマは死したものとして葬儀まで催されていたとしても。

(ああ、スヨーダナの楽しそうな笑い声が聞こえる…
俺がいなくなって、そんなにも嬉しそうに過ごしていたのか)

嘲笑うような暗い笑みが表情筋を動かし、明るい庭を横目に廊下を歩く。
王宮を護る衛兵達が、何度も不審者を発見して排除しようと集まる度に、ビーマの顔を見るなり頭を下げて離れていく。
まるで現世に存在してはいけない死者と遭遇したかのように、驚き、怯え、平伏す。
森で暮らしていた以前のビーマであれば、衛兵の態度にすらも傷付き悲しんでいただろう。
もはや、凪いだ精神は揺らがない。
真っ直ぐにパーンダヴァの五兄弟へ宛てがわれている居住区へと足を向け、静かに歩いていく。
庭を彩る華やかな草木の香りを運ぶ風も、今はない。
ひたり、ひたりと裸足で歩く床の冷たささえビーマの心臓には届かない。

「っ、ビーマ!?」
「ビーマ兄ちゃん!!」
「「ビーマ兄様!」」

流された川から上がってこなかったビーマを喪し、懸命な捜索の末に生存の可能性を諦めたという状況。それすらも『ああ、そうか』と声に出さず理解しただけ。
兄のユディシュティラ、弟のアルジュナ達がビーマの姿に驚いて声を上げ、母クンティーは声を上げる余裕もなく泣き出した。
家族の驚愕に目もくれず、ひとり歩き続ける。
本物のビーマだと確かめようと駆け寄られ、幻ではなかろうかとこの身に触れられる。
左右前後から兄弟達の声がして、いったい今まで何処にいたのかと問い詰められているのだがビーマの耳に届かない。
故人を悼むように捧げられた祭壇の前でようやく足を止め、立ち尽くした。

(俺は、生きていてはいけなかった?)

死んで欲しかったなどと、パーンダヴァの兄弟達が言うはずがない。そう信じて、願ってはいても、ドゥリーヨダナから向けられたあの感情が忘れられないでいる。
祭壇を叩き壊すような激情も沸かず、現実から目を背け走って逃げ出すような衝動もない。
あるのは、ただ、空腹。

「…腹、減った」

死んでいない、生きているからこその生理現象。
場違いなほどの間抜けな音が、ビーマの腹から響く。
ビーマの為に捧げられた祭壇の供物に手を伸ばす。
野菜と香辛料。手に取らずとも王家の祭壇に捧げられた野菜が、瑞々しく新鮮なことぐらい見ればわかる。
生きて還ってきたビーマの挙動に困惑し、遠巻きに様子を見守る兄弟達へ向けて勢いをつけ、振り返った。
つい今しがたまでとは別人のような、晴れやかな笑顔と明るい声で。

「飯にしよう!」
「あ、兄ちゃん?」
「「ビーマ兄様…?」」
「…ビーマ」
「ちょうどいい食材もあるし、今から俺が作る!みんなで一緒に食おう」

哀しげに顔を歪めたユディシュティラへ、満面の笑みをおくりつけて。
戸惑う弟達の頭を一人一人撫でていく。
綺麗に並べられ、飾りたてられた野菜を腕に抱えると、調理場へ向けて歩き出した。
生きるために。生き残ってしまったから、生き続ける為に。
この身に、毒はもう効かない。
今後決して、百王子達と同じ食事をとることはないだろう。
お互いに毒殺を警戒して、距離をとるから。
もう、二度と、ドゥリーヨダナが手づからビーマへと何かを食わせる事など無い。
周りがそれを許さない。
決して、ビーマも許してはならない。
たとえそれが、たったそれだけの事が、なにより哀しいとしても。

ビーマが自らの手で調理した料理に、毒味は必要ない。
親愛なる家族のために作るものなのだから。
『家族』に百王子が含まれることはない。
もし、いつか何処かでビーマの作る料理を食べてもらえたならばーーーー


=◆=◆=
■□■
与太話2
十二月、年の瀬、師走。
例年通りならば最高気温も一桁となり、肌寒いという言葉が生温いほどの寒波に襲われている季節。
今流行りの暖冬とかいうやつが調子にのっているようで、今年の冬は気温の変動は激しくとも比較的温かい日が続いていた。
吸血鬼に冬眠がないように、暖かい冬だろうが連日のようにトンチキな変態共が新横浜には溢れていた。
トラブルに巻き込まれながらも毎日吸血鬼達と対峙して。
気付けば世間ではクリスマスを迎えようとしていた。

「今年は雪が降りそうにないね。
兄ちゃん達は仕事だし、恋人もいないからホワイトクリスマスには縁がないだろうけどさ」
「え、ああ…」

家を出て、新横浜退治人組合へ行こうとしたサテツの背へかけられた、コバルからの言葉。
悪意が無いのはわかっていたが、咄嗟に上手く応えることができなかった。
クリスマスだろうが正月だろうが、吸血鬼が新横浜に出れば駆り出されるのは事実。
ムードのあるホワイトクリスマスに縁がないのも、事実で。
恋人がいないのも、サテツには否定出来なかった。
ただ、今年はドラルクからクリスマスパーティーの招待状が届かなかったし、直に声をかけられてもいない。
ロナルドが去年までのようにショット達とちょっとしたパーティー?を開く予定も無いようで、逆に吸血鬼マナー違反からホームパーティーへ誘われそうになったくらいだ。
それでも、タイミングの問題で参加には至らなかったのだが。
当人達は隠しているつもりのようだが、マスターから退治人達へ密かに通達が。

『ドラルクとロナルドが、ようやく恋人として過ごす初めてのクリスマスになるから邪魔をしないように』

もはや周知の事実過ぎて、この通達を受け取った退治人達は一様にまだ恋人ではなかったのかと困惑したものだ。
十二月二十四日から二十五日の間、二日間だけは二人に退治人組合からの連絡がいくことはない。
その分、サテツやショット達が駆り出されはするが、誰からも不平不満は出なかった。
阿吽の呼吸をもつあの二人が幸せであるのなら、サテツとしても祝いはしても文句などない。

重く暗い曇天を見上げ、まるで雪のようにか細くはらはらと落ちてくる雨雫へ掌を広げた。
手袋もアームカバーもない、剥き出しの掌に小さな雫がポツンと落ちる。
上空に寒気があれば、凍えて雪になっていたのだろう小雨。
しっかりと着込んでいればたいした寒さも感じないような気温の中では、雪のクリスマスをしっぽりと過ごすのは無理な話。
気負いすぎると空回るロナルドにはいっそコレくらいのムードの無さが丁度いいのかもしれない、なんて友達甲斐のない事を頭の片隅で考えてしまったけれど。

「っしゃ、コイツで終わり…っと。
あー…疲れた…クリスマスだってのに何やってんだろうな、俺たち」
「ま、まあ、一般人に被害が出なくて良かったってことで…」
「後はVRCが回収に来るの待つだけか…」
「連絡はしたし、後は俺が待っとくから。ショットは、その…」
「人が来る前に帰っとくわ。任せた、サテツ」

下等吸血鬼の退治自体は難しいものでも何でもないのだが、どうにも奇怪な吸血鬼の発生率が高いおかげか吸血鬼退治がスムーズに進むことの方が少ない。
繁華街からは離れてはいるが、ちらほらと人通りのある通りで陸クリオネに服を溶かされたままで数十分を待ち続けるのは精神的に堪える。
汚れ役と定評があるショットだろうが、見るからにカップル達ばかりの街中であれば尚更。
隠す物などなくとももはや気にはしないが、極力人気のない道を選んで歩き出していくその背中。
可哀想なものを見る目を向けないようにとしつつも、気の毒に思ってそっと目を逸らした。
傘をさすほど強くはない雨は、降り積もる気でいた雪の成れの果てのように止む気配がない。
少しずつ濡れてズボンが重くなってくるのだが、周囲に雨宿りが出来そうな屋根もない。
倒して捕まえている下等吸血鬼達からあまり離れるわけにもいかないので、どのみちVRCの護送車が到着するまでは濡れ続けるしかないのだが。

「あ、日付が変わる…」

ポンっと、軽い音がしてポケットからスマホを取り出す。
画面には吸血鬼マナー違反からのクリスマスを祝うメッセージ。
現在時刻を告げるデジタル表示がゼロに変わる。
十二月二十五日、クリスマス当日へ。
スマホの画面から顔を上げ、道路を行き交う車に目を向けた。
まだ、護送車は到着してはいない。

「…クリスマスプレゼント、何か用意しておけば良かったかな」

誰に聞かせるでもない独り言。
犬以外の全ての生き物を実験体としてしか見ていないような、物欲とは無縁な相手を思い浮かべ、同時にすぐさま頭を振った。
水気を吸った濡れた髪から、飛沫が散る。
ドーナツ以外の要求を聞いたことのないあの人が、クリスマスプレゼントに何を欲しがると言うのかサテツに想像出来ようはずもない。
だって、家族でも友達でも、恋人でも無い。
ただ、何故だかはわからないが、護送車に乗ってVRCへ行けばきっとあの人に会えると思った時にはプレゼントを用意したかったと思ってしまったのだ。
マスターにもショットにも、プレゼントを贈ろうなんて考えもしなかったのに。
その違いに気付き違和感を感じるでなく、ぼんやりと道路を眺めたままスマホのメッセージに返信を送らずにスマホをポケットへ戻した。

「風邪を引かないのは馬鹿だけだ。身体の頑丈さを過信するな」
「あれ、早かったですね」
「こんな日に出没する方がおかしいんだ」

かなりのスピードを出しながらサテツの側で急停止したVRCの護送車の窓が開く。
一瞬で歪んだ口元しか見えずとも、ヨモツザカが仮面の下で露骨に顔を顰めたのが伝わった。
ロナルドやショットがいない時であれば、あまり不快感を表に出さないのに、だ。
護送車の中から職員へ指示を飛ばして、雨空の下外へ出ずに下等吸血鬼達を回収していく。
捕まえておいた数の確認と倒した種類を職員に伝え、ヨモツザカの顔も見れたので帰ろうかと護送車を見送りかけた。
下等吸血鬼も職員も護送車へと乗り込んで、あとはVRCへ向けて出発するだけとなってもエンジンがかからない。
雨に濡れながら護送車を見ていたサテツへかけられたのは、車からいっさい降りずにいるあの人の声。

「何をしている、早く乗れ」
「え」
「俺様の手を煩わせるな、来い。サテツ君」
「え。あ、は…はい」

苛立ちを含んだ声に戸惑いながら、呼び寄せられる理由もわからずに護送車へ乗り込んだ。
下等吸血鬼達が押し込められている鉄格子の向こうではなく、職員達が乗る運転席と助手席でなく、ヨモツザカが一人で乗っていた広々とした後部座席へ。
暖房の効いた車内へ乗り込めば、自覚がなかっただけで身体がずいぶんと冷えていたのだと気づく。
濡れたズボンのまま座席へ座るのは気が引けたが、乗り込むと同時に護送車が発進したので転ばないように座席へ腰を下ろした。
濡れて顔に貼りつく髪へ手を伸ばされる。
吸血鬼よりも吸血鬼みたいな不健康な細く長くカサついた指が、サテツの髪に触れる。
そのまま滑っていかずに、掌は頬を包んだ。
指先は耳朶へ。

「濡れますよ…?」
「俺様の手を心配をするぐらいなら、最初からずぶ濡れになどなるな」
「すみません…」
「検査服なら君のサイズでもあるだろ、VRCへ到着したらさっさと着替えてその服は乾燥機でも回しておけ」
「え?え??」
「風邪を引きたいのか?」
「い、いえ」

運転席と助手席側には壁、後方の鉄格子の向こうは自我のない下級吸血鬼達。
外はまだ、雨。
ムードのある雰囲気などありはしない。
けれど。
離されない掌に包まれた頬が緩む。

「メリークリスマス、所長さん」
「クリスマス?」
「さっき日付が変わったんで」
「…ああ、そうか。俺様には関係無い」
「俺が言いたかっただけです」

プレゼントは互いに無い。
ケーキも無い。
ただ、こうして触れ合えるほど近くにいる。
それだけで、いい。

「…メリークリスマス、サテツ君。
服が乾くのを待つ間になら、出前を頼んでもいい」
「本当ですか!チキンとケーキにお寿司と…」
「ドーナツ」
「はいっ、イチゴのやつ注文します!」

ぽつんと落ちた声が聞こえない距離ではない。
パッと明るく笑って、スマホを取り出す。
出前のメニューを選択しながら、遠くないVRCへ早く到着しないかとそればかり考えていたのだった。


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