小説 | ナノ

▽ 残響


ああ、またこの夢だ、と思った。
俺は、いつの間にか若い頃の姿に戻っている。鼻をつくのは、硝煙と肉が焼ける臭い。時折響く発砲音を、乾ききった風がさらって行く。ここは、穏やかで妖しい雰囲気を纏う隔離世区ではない。いつかの任務で訪れた地。人気のない廃墟が延々と続く紛争地域だ。なのに隣には樹がいて、懸命な顔で走っているんだからちぐはぐだった。俺はその隣を並走しながら、しきりに後ろを……追跡者を気にしている。
「イツキ!右から来るぞ!」
叫ぶと同時、俺はイツキを抱えて左手に飛んだ。瞬間、後ろからぬっと伸びてきた巨大な手が、周囲一体を瓦礫の山ごと薙ぎ払った。黒い巨人。その輪郭は、ところどころ霞のように朧としている。悪魔のような威圧感を放つそれを、夢の中の俺は、厄介な奇忌怪乖だ……と、なんの疑問もなく受け入れる。苦虫を噛み潰したような顔をしながら。
「建物が密集している方へ行こう」と、夢の中の俺が言う。「だめだ、そっちには行くな」と、俺は諦めを含んだ気持ちで反論する。案の定、夢の中の俺は"俺"の言葉など聞こえなかったようで、樹を急かしてさっさと街の中心部へと走って行ってしまう。
ため息。
何度もこの光景をみてきた俺は、これから起こることも知っている。
俺と樹は、巨人が動きにくいであろう街の中心部まで走り出す。しかし、中心部には、資材を漁りに来た子供たちの集団がいる。凍りつく俺と子供たちの前で、悪魔の顔をした奇忌怪乖は、悪魔のような提案をする。
「その語手を置いていけ、そうすれば、お前とその子供らには手を出さないと約束しよう。だが、逃げると言うならば……目の前で1人ずつ潰していくぞ。さて、お前に全員護れるかな?」
無理に決まってる。樹を守るだけでも苦戦するのに。これだけの人数に気を配っていては、間違いなく逃げきれない。ではどうするか?そんな思考は刹那のうちに組み上がる。樹を振り返る俺は、感情が抜け落ちたような顔をしていた。
そういえば、昔はずっと、こんな顔をしていたっけ。古い鏡を覗き込んだような嫌悪感。無表情のまま、俺は樹に向かって問いかける。
「悪い、イツキ。行けるか?」
「……ここまで来たら仕方ないよね」
わがままで甘えん坊のはずの樹は、こういう時だけ綺麗に笑う。満足気に笑う奇忌怪乖の手を取って、恨み言ひとつ漏らさず。ただ一言、「今までありがとう」とだけ言って手を振った。それを見送る俺の顔には、やっぱりなんの感情も乗っていない。ただ蒼白な顔で、最善の選択をしたという自覚だけ握りしめて、虚空に消えていく樹の姿を見つめている。最善ってなんだ、頭の中で誰かが叫ぶ。多くを救うということだ。冷たい声で俺が答える。すっかり姿が見えなくなってから、「今日はもう家に帰りな」と俺は子供達に帰宅を促した。ちりじりになって走り去る子供達を見送って、俺もそっと踵を返す。もうそろそろ夢も覚める頃だ。暗澹たる気持ちをため息と一緒に吐き出そうとして、
「え?」
次の瞬間、誰かに肩を叩かれた。

◇◇◇

べろりと顔を舐められて、俺はのろのろと瞼を開けた。ぼやけた視界に映るのは、黒々とした2つの目玉。
「……ジョン」
「わふっ」
賢い同居人はそれだけ言うと、あっさりと俺の上から体を起こした。そのまま足元で丸くなり、目だけでこちらを観察している。
「あ、あー、……お前、起こしに来てくれたの?」
肯定のまばたき。俺はだるい体を引きずり起こして、くしゅん、と大きなくしゃみを1つする。寝汗か、或いは冷や汗かもしれない。湿ったインナーは瞬く間に体温を奪った。のろのろとそれを脱ぎ捨てて、頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「ったく、最悪の目覚めだ」
手元の時計を見れば、まだ4時だった。どうりで部屋が暗いと思った。寝直そうかとも思ったが、早鐘を打つ心臓がなかなかその気にさせてくれない。
「ジョンー、添い寝してー」
隣をぽんぽんと叩くと、ふすーっと呆れたような鼻息が返ってきた。それでも優しいジョンは、のそのそと隣に移動してくる。
「はーあったか…」
もさもさの毛並みに肌をよせれば、冷えた体にジョンの体温が移ってくる。
「そういえばさー、護手始めたばかりの頃も、よくこうやってお前を抱いて寝たよな」
その時、ジョンはまだ子犬だったけれど。その温もりに縋る夜は何度もあった。死にかけた時、死なせかけた時。逃げる時はいつも必死で、恐怖は後からやってくる。凍えた心臓をとかすのは、いつもジョンの体温だった。それも、もうだいぶ減ってきていたけれど。
「だからあんな夢、見たのかな」
油断し始めた自分への、戒めとして?馬鹿馬鹿しいと笑うには、あの夢は迫真に満ちていた。
「……今日も鍛錬、頑張ろ」
この心臓がぬくまったら。夢で見た出来事を、二度と繰り返さないために。

◇◇◇

そうして稽古場に来たはいいけれど。
「俺、こんなところで何やってんだろ?」
疑問は静寂に飲み込まれる。それもそのはず。ここはいつも使っている稽古場……の隣の部屋。普段使う者のいない事務室である。
何故こんなところにいるかというと、可愛い後輩である沙弥に、有無を言わさず放り込まれたからだった。
『今日の伊井さん先輩はダメダメです!隣の部屋で休んでください。早く調子戻してくれないと、こっちまで引きずられるじゃないですか』
「うーん。女の子に弱い、俺」
いつもは強気に笑ってる沙弥が、眉を下げて頼んできたら嫌だとは言えない。あれよあれよとジャージを着せられ、運び込まれ、目の前にはお茶のペットボトルとお菓子が並べられている。なんとも至れりつくせりだった。
「でも俺、こんなことしてる場合じゃないんだけどぉ……」
何もしないでいると、今朝の夢について考えてしまう。何かしなければと切羽詰まって、何も出来ない状況に息が詰まった。せめて筋トレでもするかと思い立ち、ジャージを椅子に掛けて立ち上がる。まずは倒立腹筋からと足を振り上げたところで、ガラリとドアが開く音がした。
「今日は休んでおけと、宗崎に言われなかったんですか」
「うげ」
視線を向ければ案の定、ヒノキが憮然とした顔で腕を組んで立っていた。さっきまで稽古に励んでいた証拠に、鍛え上げられた筋肉からほかほかと湯気が立ち上がっている。それを恨めしく思いながら、俺は振り上げた足を下ろした。
「来るタイミングが悪すぎるだろ。ちょうど始めようとしたところだったのに」
「まあ、筋トレくらいで俺は咎めやしませんが。でも、いつもの調子でやると、多分体痛めますよ」
「なんだよもー、沙弥ちゃんもお前も寄ってたかって。そんなに俺、調子悪そお?」
「今のあんたになら、目をつぶってても勝てます」
こ、こいつ。文句を言ってやろうと思ったが、それより先に、つり上がった眉に気づいて慌てて口を閉じる。もしかして、怒られてるんだろうか俺は?
「体調悪いなら、早く帰って休んだ方がいいんじゃないですか」
「あーいや、大丈夫。そういうのじゃない」
上手く笑えてるだろうか。ふと不安になって、むにと自分の顔をこねる。そんな俺をヒノキは検分するかのように眺めて、重苦しく口を開いた。
「なにか心当たりでも?」
ぐ、と俺は言葉を詰まらせた。こいつに言うのはちょっと恥ずかしい。自然、口から漏れる言葉は囁くような声になった。
「昨日、あんまり眠れなくて」
「夜更かしでもしたんですか」
「怖い夢を見たから……って言ったら、笑う?」
上目遣いでヒノキの方を窺うも、予想に反して、彼はなんのリアクションもしなかった。ただ、おもむろにタバコの箱を取りだして、不味そうな顔で吸い始める。沈黙。いっそ笑ってくれた方が良かった、なんて思っていると、ふぅ、とタバコの煙をくゆらせたヒノキが、皮肉げに顔を歪めてみせた。
「笑いませんよ。あんたがそう言うってことは相当なんでしょう」
「そうハードルを上げられても、それはそれで困るんですけど。お応えできそうになくて」
「で、どんな夢だったんだ」
俺は観念して椅子に座った。手持ち無沙汰にお菓子を弄びながら、努めて平坦な声を出す。
「イツキが死ぬ夢、見たよ」
「……」
「夢の中でさ、俺たちは大きい悪魔みたいな奇忌怪乖に追いかけられてて……しくじってさ、周囲の人、巻き込んじゃった。5人くらい。それで、夢の中の俺は……5人を守るために、イツキを、」
樹を抱えて満足そうに消えた奇忌怪乖を、それを見送る自分の顔を思い出して、俺は重たい息を吐き出した。
「でもさ、それだけなら正直飽きるほど見たっていうか。……そういうの、よく見るから」
それはもはや、夢というかも定かではない。遠いいつかの記憶が、今の記憶に混ざって、延々と垂れ流しになっているだけだ。過去の焼き直しを倦みこそすれ、引きずることは無い。どうあれ、もう終わった話なのだ。
「でも、今日はその夢に続きがあった」
「続き、ですか」
「いつの間にか俺の目の前には市長が立っててさ、市民5人の人命を守ってくれてありがとうございますって表彰されてるんだ。変な話だろ。護手としては当然の仕事どころか、俺、失敗してるんだぜ」
ヒノキは肯定も否定もしなかった。次のタバコに火をつけながら、無言で先を促してくる。
「それで……それで、お前はよく頑張ったって肩を叩かれるんだけど、その手の生温かさが、気持ち、悪くて……」
祝福するようにつきぬけた空の青さが、飛びかう白鳩の甲高い鳴き声が、脳を揺らして吐きそうだった。でも、なにより気持ち悪かったのは、ヘラヘラと笑うことしか出来ない自分の姿で。
とても、犠牲になった1人の事なんか言及できないくらい。救われた5人はまるで救世主を見るような目で俺を見ている。俺だけじゃない。周りに集まってきた皆が。いつかどこかで見捨ててきた誰かが。樹が。笑顔で俺を見て。一斉に鳴りだした拍手が、耳の中でわんわん騒いで、貼り付けた笑顔が妙に重くて、それで――
「おい、イーサン」
「……っは、」
すとん、と血の気が引く感覚がした。俺は緊張で冷たくなった手をさすって、長く細く息を吐く。
考えてみれば。こういう経験だって無いわけじゃない。ギリギリの現場で人命救助にあたっていれば、誰かを取り零すことも、それで感謝されることもよくあることだ。それなのに、俺はどうしてこんなにも気を動転ささせているのか。
でも、そうだ。俺はこの夢を。
「なんか、……忘れるなって、指さされてる、気がして」
自分に相応しい罰だって、思ってしまった。救えたものにも、救えなかったものにも失礼だから。後悔だけはしないと、そう決めていたはずなのに。
「――…、それは」
「俺らしくないって思うだろ?自分でもそう思う」
ヒノキはそうじゃないと言いたげな顔をして、でも、何も言わずに黙り込んだ。優しい不干渉。不甲斐ない俺はいつも、それに甘えてばっかりだ。
「はーくだらな……。夢はただの夢だし。それで仕事に支障きたす自分も馬鹿馬鹿しい」
「まあ確かに、くだらない夢ですね」
間髪入れずに肯定が返ってくる。俺はなんだか気が抜けて、ジト目で横を睨みつけた。
「おーい、普通はここ肯定しない場面ですよー?」
「だって、自分で言ってたじゃないですか」

――あんたは語手を見捨てるなんて最終選択の場面が来ないように最善を尽くす、そう言えますか?

――俺は命は賭けないが、人生なら賭けられる。人の命には、それだけの価値があるって信じてる。

「あんたほどの人が人生賭けるんだ、5人も、樹の奴も、全員守りきるに決まってる」
そうでしょう?と言いたげに燃える緑の目に、俺は暫し言葉を失った。どうしてこいつは言い切れるのか。今まさに、俺の無力さが招いた過去を暴露したのも当然なのに?
そんな俺の疑問を、ヒノキは「フン」と鼻だけで笑って見せた。態度はふてぶてしく、それでも優しい声で。
「どうしようもないって時は、俺がいる。宗崎も、元葉も。樹の奴だって、ただ守られてるだけってタマじゃないだろう」
「……随分、懐かしい話を持ってくるんだな」
「懐かしいけれど、過去の話ってわけじゃあない」
ヒノキは拳を握って、ぐ、と俺の心臓を押し上げる。
「あんたの信念は、今もあんたの胸で燃え盛っている。この炎は、あんたがあんたでいる限り、途絶えることはない」
たとえどれだけ心臓が凍えようと。その信念まで消えることは無いのだと、熱い拳が主張していた
「だから、俺はあんたのことを信じてるってだけです」
「……そっか」
俺はそっと、ヒノキの拳を両手で握りしめる。ここまで言ってもらったんだ。これでかっこつけられなきゃ俺じゃない。
「期待されたら、裏切る訳にはいかねーなぁ」
「そうそう。その調子で早く稽古にも復帰してくださいよ。その方が宗崎も安心します」
「ん、わかってる」
ありがと、と口の中だけで呟く。ヒノキは、全部わかってるよと言いたげに肩を叩いた。そのままひらひらと手を振って退出したのを見届けてから、俺はずるずると1人机に突っ伏す。
「全く。あいつも大概熱い男だよなぁ」
その熱に、一体どれだけ救われたか。多分、あいつは想像もした事ないだろう。
むに、ともう一度自分の顔を捏ねてみる。温かい掌の中で、今度は上手く笑えた気がした。

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