小説 | ナノ


▽ 砂をつかむ


同居を始めてわかったことが一つある。一色周というツクリテは、異常に筆が早い男だ。その上一日の時間の大半を、ひたすら作画に当てている。そのせいで、彼の周りには絵が散乱しているのが常だった。粗い木炭のクロッキーから、精緻に写し取られた水彩画まで。出すところに出せばそれなりに評価されそうな出来だったが、しかし、彼はそれを作品と呼びたくないという。曰く、目の前にあるものを、ただ写し取っただけの覚え書き。一色周以外にも描けるし、極論写真だっていいのだと。
「ちゃんとした作品を書く時は、頭を空っぽにして構想を練りたいんだ。そうやって引いた線には、無意識に嘘が混ざる。それは俺にしか書けない、俺だけの線になる気がしてさ。だからそれまでに、本物の形をちゃんと知っておかないとな」
それを聞いた時は驚いた。小説家は、ひとつの言葉に何十分だって吟味することができる。思い描くものに1番近い言葉を選ぶため、辞書をめくることもしょっちゅうだ。それに比べて彼はどうだ。思考のその先を強欲に求める姿は、悟りを開こうとする僧侶のようだ。
今日も彼は、水彩紙を取り出して黙々と筆を動かしていた。最近は私の姿を描くのにハマっているようで、常に後を着いてくる。そんな姿を見ていたら、ふと悪戯心が湧いた。私も、彼の姿を私の言葉で書いてみようか。常々古筆院木春のファンだと公言している彼がそれを見たら、どんな顔をするだろう?戸惑うだろうか、笑うだろうか。愉快な気持ちで原稿用紙を取り出して、そこではたと動きが止まった。
なかなか書き出しの一文が捕まらないのだ。
彼の絵に対する情熱から書こうか、それとも、まっすぐな目に反してどこか皮肉気な作風から?あるいは、彼のあり方をまざまざと体現するマキナに焦点を当ててもいい。浮かぶ想いは山ほどあるのに、言葉にしようとするとどうにもしっくりこない。
物書きとして、言葉というやつが万能には程遠いことを知っている。掬っても掬っても、本質を捉えきれずに指の隙間から逃げていく。古筆院椿にとって、言葉は常にそういう物だ。
だが、一色周に対して感じるそれは少し違う。言葉が水なら、彼は砂だ。掬いあげれば、掌に山となって残る。伏せたまつげが落とす影も、少しまるまった背中とくぼんだ鎖骨も、煤に汚れた平たい指も。彼が生み出す、淡くも鮮烈な世界だって。
書こうと思えば書けるのだ。それでも確かに零れていくものもある。そしてどうも、古筆院椿は、その零れ落ちた何かをひどく惜しんでいるらしい。
らしくない思考だった。そもそもツクリテとは、時に潔い生き物だ。完全な物など生み出せないと知っているから、零れ落ちていくものに敢えて見ないふりをする。悔しさに歯を食いしばりながら、形無き思索を十字架に吊るす。少なくとも古筆院椿は、そうして小説を書いてきた。そのはずなのに。
自分は彼をどう書きたいのか。何のために書くのか。ひたすら絵に打ち込む彼に触発されて軽い気持ちで筆をとったけれど、肝心のところが定まっていなかった。それでもいつもなら、無理やりに捻り出した言葉を取り繕って書けるだろう。誰に見せても恥ずかしくない、それなりのものを。ただ、今だけは、どうしてもその気にはなれなかった。
全く、なにもかもがらしくない。そして、らしくない事はするべきではない。
一息ついて筆を置く。見れば、ちょうど彼も筆を止めるところだった。と思えば、新しい紙を広げだす。その様をじっと見ていると、彼は「なに?」と顔を顰めた。「原稿に向かってるあんたの顔が好きだから、作業に集中して欲しいんだけど」
あまりにも勝手な言い分に頬が緩む。普段は気遣いが出来るくせ、創作のことになると途端に傍若無人になる人だ。そういうところが気に入っていた。
「私は私で君の描くものが気になってたんだ。納得のいく絵はかけた?」
問いかけると、彼はますますむすりと眉を寄せた。
「全然納得いかない。だからこうやって今も書いてるんだろ」
予想していた答えに、古筆院椿は満足げな笑みを口の端に乗せる。
ああ。今、私と彼は同じ地平をさまよっている。目指す場所も、歩む速度も違う果てしない旅。いつもは知る由もない彼の足跡に、今日初めて触れた気がした。
小説家が、言葉では表しきれずに零れた、名前のない想いを悔やむならば。彼はきっと、その想いだけを汲み上げて絵にしようとしている。そう思えば、彼の言葉もすとんと胸に収まった。
「そういうあんたはどうなんだ。もしかして、今日は調子が悪いのか?」
「ううん?今は書くべき時じゃないってことがわかった。それだけでも大収穫だよ」
彼はその言葉を吟味するように口の中で転がしてから、大きく頭を振った。
「なんだよそれ、全然意味がわからないんだけど?」
その目は説明が欲しいと雄弁に語っていたが、私はあえてそれから目を逸らした。
もう一度、白紙の原稿用紙に目を落とす。
古筆院椿はあまりにも一色周を知らない。それでも一つだけわかったことがある。分からない彼を分からないなりに、言葉で削りとるようなことはしたくないという気持ちだ。私のエゴだ。そうしてみるとこのまっさらな文字欄にも、意味があるような気がしてきた。うん、とひとつ頷いて、右下に小さく今日の日付を入れる。
今はこれでいい。これがいい。いつかここに、きちんと整列した不揃いな言葉達が並ぶだろう。その日がとても楽しみだった。
「それよりも、少し休憩しない?ずっと気になってたケーキを買ってきたんだよね」
あえて明るいトーンで言えば、彼は唇を少し尖らせた。私が創作に煮詰まって、気分転換をしたがってると思ったのだろう。「ま、こっちの絵もキリがいいしね」と言う声には、心配が多分に含まれていた。その見当違いな気遣いにくすぐったく笑いながら、真っ白な"作品"を机の中にしまい込む。彼の背中を押してリビングに向かいながら、横目で絵を盗み見た。うん、やはり良く書けている。しかし言われてみれば、そこに彼の思想が、価値観が、あの鮮烈な色彩が欠けている。
もし古筆院椿が、"頭を空っぽ"にして一色周を見たら、どんな色に見えるだろう。そんなことを、ふと考えた。
きっと、それを見られる日は来ないだろう。代わりに、ただただ思考の海に身を浸そう。彼を識り、彼を削り出す言葉を選ぶその日まで。
だって、私は小説家なのだから。

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