小説 | ナノ

▽ 茜さんと風邪っぴき露葉くん


風邪推敲


永久さんからSOSが入ったのは、そろそろ日も傾き始めた夕方のこと。晩飯の買い出しをしようと靴をつっかけた時、緊急を意味する着信音と共に舞い込んできた。
『ツユが体調を崩した。今日は会議を抜けられそうにない。代わりに見てやってほしい』
仕事に追われながら打ったのだろう簡潔なメールに、俺は慌てて靴先を永久家に向けた。あの年頃の子供が風邪を引いた時、最も辛いのは人恋しさであることを知っていたからだ。通りすがりのコンビニでゼリーだけ買い込んで、チャイムもなしに上がり込む。
彼の自室をそっと覗けば、子供は折り重なった布団の中に埋もれるようにして眠っていた。サイドテーブルには薬の包みと水筒、朝作ったのだろう不格好なおにぎりが、そのままの状態で残っていた。永久さんがなんとかここまで用意して、あたふたと仕事に向かったのが目に見えるようだ。
「起きてるか?入るぞ」
声をかけると、子供はもぞもぞと動いて頭をこちらに向けた。熱のせいでほんのりと上気した頬と虚ろな目。しばらくぼーっとしていたが、ようやく俺の顔を認識したのか「茜さん…?」と呟く。
「そうそう、茜お兄さん。お前が風邪ひいたって聞いてな、看病しに来てやったぞ」
明るい口調で言いながら、俺は部屋に踏み込んだ。そっと額に手を当てれば、じんわりとした嫌な熱が伝わってくる。
「やっぱり少し熱があるな。いつから具合悪い?」
「朝起きたら、頭痛くて、そのあとずーっと痛い……」
「そっか。痛いのは頭だけ?」
「うん」
頷いてから、子供はちょっと顔を顰めた。頭を揺らすと響くほど痛いなら、頭痛薬を飲ませてやった方がいいかもしれない。氷枕も出した方がいいだろう。「ちょっと待ってろ」と言ってリビングに戻ろうとした俺の腕を、子供がおずおずと引いた。
「待って、俺も行きたい」
「起きてて大丈夫か」
尋ねると、彼はちょっと下を向いて、「1人は寂しいから」とごにょごにょ言った。いつもは引っ込み思案な彼でも、流石に体調不良に留守番は堪えたらしい。あったかい格好しろよと言ったら、顔を緩めていそいそとカーディガンを羽織り始める。
「せっかく下に降りるなら、そのまま夕飯にしてしまおうか。何か食べたいものは?」
「あ、俺、とわさんの作ってくれたおにぎり、昼間食べられなかったから残しちゃってて……」
「じゃあ、おじやにアレンジしちゃうか。体、あったまるぞ」
そう言うと、子供はたちまち嬉しそうな顔になった。最近気づいたけれど、どうもこの子は料理をする俺が好きらしい。「エプロンつけてさ、台所で料理してると、お母さんみたいだね」と以前言われたことがある。誰がお母さんだ、誰が、と咄嗟に反対しかけたけれど、「家族みたいで、いいなぁって思う」と続いた言葉で俺は反論を諦めた。
そういえば、この子には親がいないのだ。最初は腑に落ちなかったそれも、しばらく話をするうちだんだん納得せざるを得なくなった。普段は器用なくせに、甘えるのが下手くそな所を見た時なんかは、特に。
だから最近では、顔を合わせた時はなるべく甘やかしてやるようにしている。そのせいか、素直にわがままを言ってくれることも増えてきた。
だけど、本当は別の人にも甘えたいんだろうな、とも思う。ほら、今だってぼんやりとした顔で壁掛け時計を見上げている。
「とわさん、帰ってこないね」
寂しそうな横顔にかける言葉に迷って、俺はそっとおじやを子供の前に置いた。
「今日は遅くなるってさ。どうしても会議を抜けられないからって」
「そっか。お仕事なら、しょうがないよね」
口では物分りのいいことを言いつつも、子供は見る見るうちに萎れてしまう。
「永久さんから、何も聞いてないのか」
「うん」
しょんぼりと肩を落として、それでも子供はそれ以上、その件についてはなにも言わなかった。永久さんへの不満も、自分の寂しさも、何も。
我慢しているのだ、と、白くなるほど握りしめた拳が無言で主張していた。
ふむ、と俺は1人頷く。
この親子には、そろそろ荒療治が必要なのかもしれなかった。


リビングでとわさんの帰りを待ちたい、と子供が言うので、俺たちは暫くソファに座って帰りを待つことになった。テレビを見たり話をしたり。頑張って起きていた彼も、9時を回る頃にはうつらうつらとし始める。
結局、永久さんが帰ってきたのは10時を少し回った頃だった。
疲労困憊といった様子で、体を引きずるように歩いてきた永久さんは、リビングを覗いた途端絶句して立ち止まった。ようやく待ち人の帰宅を察したのだろう、寝ぼけまなこを擦りながら、子供がふわふわとした口調で言う。
「とわさん、おかえりなさい」
「まだ、起きていたのかい」
「ええと、今日お仕事大変だったんでしょ?お疲れ様って言いたくて」
たどたどしくも一生懸命といった子供の言葉。ようやく事態を飲み込めたのか、硬直からとけた永久さんが、困ったように眉を下げて笑う。
「そうか、……待っててくれてありがとう。茜も悪かったね」
「いいやー?一人でいても飯食って寝るだけだったし」
ひらひらと手を振ってそう言えば、永久さんはよかったとため息混じりに呟いた。その言葉に安堵と、ほんの少しの寂しさが滲んだような気がしたが、次の瞬間にはいつもの勝気な笑みに戻っていた。
「さあ、もう寝なさい。体調を崩してる時は、安静にしていなければダメだろう」
「う、ごめんなさい」
叱られた子供がしゅんとなって、自室に戻るために立ち上がる。その腕を掴んで止めながら、俺はわざと、剣呑に尖った声音で言った。
「それはちょっと違うんじゃないか?」
コートを壁にかけながら、顔だけ振り返った永久さんが微笑む。
「何を言いたいのかわからないな」
「露葉に対するあんたの態度が気に入らないって言ってる」
ド直球で切り込んだ言葉に、永久さんではなく子供の方が怯えたように体を揺らした。信じられないものを見る顔をするがあえて無視。どの道遠回しな言い方じゃ、絶対かわされてしまう。
「こいつは具合が悪いのを押してあんたの帰りを待ってたんだぞ。それにしては随分冷たい態度じゃないか」
「この子とは、元々そういう話で一緒に居るんだ。死ぬくらいなら、その命を私のために使ってほしいと。私たちの関係は、それ以上でもそれ以下でもない。茜が口を出す権利はないよ」
「別に、あんたが本心から、こいつを道具として見てるっていうならそれはそれでいいんだ」
「じゃあ、」
「いつも笑ってる奴を見たら、なにか隠してると思えって、そう教えてくれたのはあんただぜ」
「そうだっけ?」
そこでますます笑みを深めて首をかしげて来るからやりづらい。これ以上ないほどに露骨なイエローテープも乗り越えて、俺はさらに切り込んでいく。
あんた相手に加減するほど、俺だって甘くはないんだ。
「仕事で疲れて帰ってきたはずなのに、あんたさっきからずっと笑ってる。一体何を隠してるんだ」
「さあ、必要以上に心配をかけさせないためかもしれないよ」
「どうして、必要以上に露葉に冷たくする?情が湧いたら戦えなくなるからか?」
ふぅ、と永久さんがため息をついた。
「わかっているなら、放っておいてくれないか。生憎私は、そこまで強い人間でも、器用な人間でもなくてね」
俺は内心で歯噛みする。認めてもなお、逃げようとするか。そうだろうな。これはあんたにとって、戦い続けるために絶対譲れないものの一つだ。
でも、放っておけるはずがない。
だから俺は、代わりに爆弾を放り投げた。
「唯さんが、今のあんたを見たらどう思うだろうな」
「……へぇ?」
永久さんの表情が変わった。
勝気な笑みから、氷のような無表情へ。触れれば切れそうなほど凍てついた視線が、俺を真っ直ぐに睨め付ける。空気までが凍りつくような変貌だった。
これが、永久さんにとって地雷であることもわかっている。
ごめん。今のあんたに届かせるには、あんたがこだわって守ってるその鎧を、こじ開けなきゃならないんだ。
「唯さんは、あんたが、自分のせいで変わってしまうことなんて絶対に望んでない」
「随分知ったような口をきくじゃないか、茜。まるで自分の方が唯の理解者だとでも言いたげだな」
「まさか。あんたの方が唯さんのことはよく知ってる。だからこそ俺が言いたいこともわかるだろう?」
冷えきった表情からは、今永久さんが何を考えているのか全く読み取れない。だから俺は、祈るような気持ちで言葉を重ねるしかない。
「あんたは、お節介に色んなやつに手を差し伸べておきながら、最後の最後で結局唯さんを、自分の一番大切なものを選んでしまうような。そんなずるい人だったろう」
そこまで言って、俺はわざと、皮肉るような笑みを唇に乗せる。
「それとも、何?最後まで唯を選びきる自信が無いわけ?」
「随分安い挑発だね、茜」
返ってきたのは、これ以上ないほど鋭い言葉だった。
「唯は死んだ」
子供がひゅっと息を飲んだ。俺は掌に爪を立てる。
ああ、本当に鋭い言葉だ、彼自身をも傷つけるほどに。
「あの日から、私は最初から最後まで、ずっと彼女を選び続けると決めたんだ。彼女のためではなく、自分のために」
凍てついた目の奥にあったのは、一片残った矜恃を死にもの狂いで守ろうとする獣のそれ。
「そのことで、私を、彼女が叱ることはもう無い。君の口を借りてだってね」
だから止まらない、止められない、と。追い詰められてなお逸らさない視線が告げている。
ようやく引きずり出した、日明永久の本性だった。
でも、まだ届かない。余裕ぶった態度の裏で永久さんとの距離をはかる。鎧をこじ開けたはいいものの、やはり遠い。
それでいい。
届かせるのは、俺の役目じゃない。
こいつの役目だ。
「……もう、やめてください」
目にうっすらと涙をためて、子供が俺の袖を引いていた。
「茜さんごめんなさい、俺大丈夫だから、気にしてないから」
永久さんのためなら自分を庇ってくれていた人まで拒絶する。本当に素直でいじらしい子供だった。
その優しさが、献身が、永久さんを追い詰めるのに気づいていないことも含めて。
「本当に?あんなに時間を気にしていたのは、永久さんに早く帰ってきて欲しかったからだろう」
軽くつついてやるだけで、虚勢は簡単に剥がれ落ちた。大粒の涙が、ついに一筋頬を伝う。永久さんが、自分の右腕で服の裾を握りしめるのを見ながら、俺はぽんぽんと子供の頭を撫でた。
「ずっと寂しかったんだろ。俺と一緒にいる時だって、お前は永久さんの帰りを待ち続けてた」
涙の止め方がわからなくなったのか、後から後から伝うそれを払い除け払い除けしながら、子供はそれでもぶんぶんと首を振る。
「じゃあ、お前はそれでいいのか、ずっとこのままでいいのか」
「……」
「欲しいものがあるなら、どうして手を伸ばさない?お前がそうやって我慢するから、永久さんは、お前を甘やかす機会を失い続けてるんだ。このままじゃ、どんどん1人で強くなっちまうぞ」
「……うう、」
子供が小さく声を漏らした。真っ赤に泣き腫らした目元を抑えてやりながら、俺はゆっくりと言い聞かせるように言う。
「永久さんが、本当は優しいことにも気づいてるんだろ」
「……うん」
「もう一度聞く。このままでいいのか」
「……それ、は」
言葉をつまらせる子供を抱き抱えて、永久さんの方へ差し出す。そっと床に立たせてやれば、彼は心細そうに永久さんと俺の顔を交互に見た。その縋るような顔を、俺は首を振って突き放す。
背中を押せるのはここまでだ。
あとはお前がやるんだ。
「……」
暫くして、子供はよたよたと歩き出した。
俺ではなく、永久さんの方へ。青い目を溶け落ちそうなほど潤ませて、必死の形相で。1歩踏み出してからは早かった。子供は今までの我慢を全てぶつけるように、小さな弾丸になって永久さんの胸元へ飛び込んだ。
あまりの勢いで、永久さんの上体が大きく崩れる。それでも彼は決して、子供の体を、払い除けようとはしなかった。
「う、さびしかった」
肩口に目元を押し付けたまま、呻くように子供が言う。
「ほんとはずっと、さびしかった」
「……自分のために、君を遠ざけてきたのに。最後は君を置いていくのに」
子供の体を受け止めたまま、永久さんがつぶやく。こじ開けた鎧の隙間から、不器用で優しい、彼の素顔が覗いていた。
露葉の言葉が、永久さんを求めて伸ばす手が、ようやく届いた瞬間だった。
「それでも私を求めて、君は泣いてくれるのか」
「そんなの関係ないもん!!」
柄にもなく少し怯えたように、確かめるように言う弱気な彼の言葉。それを力強く、子供の怒鳴り声がかき消していく。
「とわさんは俺の話いつも聞いてくれる。悲しかったら一緒にいてくれるし、それに…っ
俺…っ!昔、何も出来なくて、でも、とわさんが、とわさんが俺がいいって、一緒に行こうって言ってくれたから!俺のこと選んでくれたから…っ!」
はっと胸をつかれたように、永久さんが目を見開く。
「だから俺は、ずっと、ほんとは、最初から、とわさんがよかったんだもん…!」
そう吠えるように言って、子供はまたわあわあと首筋にかじりついた。ぐしゃぐしゃに泣く彼の背中に永久がそっと腕を回す。
「そうか。…そうだね、君はずっと、私に向かって手を伸ばしていたんだね」
「うんっ」
「それでも、私のためにずっと我慢してくれていたんだね。辛かったね、ごめんね」
「うん…っ!」
「ありがとう。君の優しさに甘えすぎていた」
子供を抱く腕に力を込めて。首にしがみつく彼に頬ずりするように顔を寄せる。永久さんのあたたかい声に引きずり出されたように、泣き声が一層大きくなった。その背中をぽんぽんとあやす様に撫でていたかと思うと、視線がちらりとこちらを向いた。
「茜」
「……はぁい」
「とりあえず。唯の言葉を勝手に語った上、気安く呼び捨てにしたのは、許してないからね」
うわっと俺は首を竦めた。この声は永久さん本気だ、必要以上に尾を踏みすぎたかなこれは。
必死に言い訳を考える俺を永久さんはしばらく睨みつけていたけれど、やがてふっと力を抜いて微笑んだ。
「追求したいところだけど、今日は勘弁してあげる。ツユを寝かしつけなきゃいけないから」
「よかった、この後このまま説教コースかと思ったよ」
軽口を叩きながら。俺はほっと胸を撫で下ろす。酷く優しい彼の目は、俺がよく知る、以前の彼と全く同じ色をしていたから。
なんだ、やっぱりあんた、全然変わってないんじゃん。
露葉が我慢してきたように、永久さんは永久さんで、我慢をしてきたんだろう。それが例え、ばればれの痩せ我慢だったとしても。
「話もひと段落したし、俺は帰るわ」
俺はさっさと立ち上がる。二人きりにしてあげよう。初めての、親子水入らずの時間ってやつ。ああ、ほんと俺って気遣いの出来る人間だろう?
永久さんの横をすれ違い際、ふっとこちらに視線を投げた永久さんが言う。
「ありがとう、茜」
でも、次はないから。誤魔化すようにそう続ける彼は、さっぱりとした顔をしていた。荷物をまた背負い込んだ割に、誇らしそうな笑顔だった。


結局、子供はあの後2日間寝込んで、3日目の朝には元気そうな顔でおにぎりを齧っていた。俺も永久さんもしばらく気を揉んだけど、当人は終始楽しそうだった。なんでも、つきっきりで看病してもらったのは初めてなのだそう。まあ、しんどい記憶になるよりは楽しい記憶として残った方がいいよな。看病していた永久さんの方が、重症化して倒れたのには笑ってしまったけれど。
そうそう、永久さんとの話し合いを経て、子供にも少し変化がではじめた。具体的には、少し図々しくなってきた。
「ねぇ、聞いてる?」
「はいはい、なんだっけ」
「とわさんと喧嘩してる時は俺の名前呼んだのに、その後1回も名前呼んでくれないって話!」
剥いてやったリンゴをフォークで刺したまま、子供は頬を膨らませる。本当に図々しくなっちゃってまぁ。
「わかったわかった。今度からは露葉って呼ぶ。これでいいか」
「うん!」
途端にこにこと笑ってリンゴを齧り出す彼に、敵わないなと頭を掻き、思う。
不器用な父に可愛い弟。たまにはその2人を繋ぐ義兄になるのも悪くないかもしれないな、と。

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