小説 | ナノ

▽ ラムネの瓶と卒業証書


昔から夏が苦手だった。
じりじりと肌を焼く熱も、瞼を突き刺す太陽の光も、汗で張り付くシャツも、何もかもが苦手だった。
反対に、薫は夏が好きだった。
エアコンの冷気が満ちた室内で、太陽の光をカーテンで完全に遮って。お気に入りの水色のカーディガンを着て、引きこもるのが好きだった。
夏の全てを好きと言いながら、それを切り捨てるのが好きだった。
それに、ラムネも。
夏の間、彼女の半分はラムネでできてるんじゃないかと思うくらい、薫はラムネを好んでよく飲んだ。多分、瓶が綺麗で可愛いだとか、そんなくだらない理由で。
「ラムネってなんか夏!って感じするじゃーん」
いつだったか、ラムネを飲みながら、彼女が嬉しそうに言ったことがある。
「押し付けがましくて鬱陶しい味ってこと?」
外を歩いてきたばかりの僕は、じとりと肌に絡みつくシャツに辟易しながら言った。日差しに茹だった頭に蝉の煩い鳴き声が反響して、何かに当たりたい気分だった。
「ふぅん。柿本秋兎は夏が嫌いなんだ」
当たり前のように嫌いと口にする彼女から、僕はするりと視線を外す。
「さぁ、どうかな」
口ではそう言いながら、僕は内心で、嫌いではないと独りごちた。嫌いではない。好きだとか嫌いだとか、そんな強い感情を、夏に対して抱いたことは一度もない。
薫は、ふぅんと何かを確かめるようにもう一度頷いて。カラカラと、ラムネ瓶の中に入ったビー玉を転がす。カーテンの隙間から差し込んだ日差しが、ラムネ瓶に乱反射して、万華鏡のように部屋中に散った。
薫はそうやってしばらく遊んでいたけれど、それにも飽きたのかものすごい勢いでラッパ飲みをし始めた。飲みきれながったラムネが、白い頬を伝って顎の先から滴り落ちた。ぷはぁ、と彼女は大きく息をして、ゴトンと、瓶を机に置いた。
「あんたが嫌いな夏は、今、あたしが、ラムネに溶かして飲み干したからさ」
それは独り言のようでいて、どこか挑みかかってくるような声でもあった。
「来年の夏はもう、こないよ」


「もう、夏は来ないんじゃなかったの?」
「んー?」
薫は、小さく首を傾げながらビー玉を瓶に押し込んだ。シュワシュワと小さな音を立てて弾けるそれを、美味しそうに口に運ぶ。
「薫が言ったんだよ」
「……?」
ごくごくと喉を鳴らしながら、薫はきょとんと目を瞬かせた。気まぐれな彼女のことだから、きっと次のラムネを飲み干す頃にはすっかり忘れていたんだろう。こうして、彼女の大好きな夏は、毎年懲りずにやってくる。
「そんなことよりさ、次、あんたの番だよ」
「わかってる。どうするか考えてるんだよ」
僕はそう言って、再び視線を盤面に落とした。白と黒に色分けされたマス。ずらりと並ぶ兵士たち。その1つを手に取って、薫の陣地へ切り込んでいく。
チェスは、薫が最も得意とするゲームだった。
「ネバーランドってさ、大人は追放される楽園なんだって」
容赦なく僕の駒を討ち取りながら、薫は何気ない口調で言う。こうやって、チェスの合間の雑談を好んでいることも、僕はよく知っていた。
「あたし達、もう22歳じゃない?ネバーランドから、そろそろ追放されちゃうね」
追放、と僕は薫の言葉を舌の上で転がした。それはなんだか、とても嫌な舌触りだった。生暖かくて、どろりとしている。振り切るように駒を先に進ませて、「ラムネ、飲ませてよ」と言いながら薫を見上げようとして。その顔を見た瞬間、心臓が不快なリズムで跳ねた。
まるで目の前の彼女が、血の通ったナマモノのような、そんな顔をしていたから。いつも泰然とした彼女らしくもない、夢を見るような陶然とした目で、ぼんやりと盤面を見下ろしている。
迷っているんだ、と気づくのには時間がかかった。彼女が駒を置くことを戸惑ったのは、それが初めての事だった。
「おとーとさぁ、今年で高校、卒業だって」
ため息混じりに、彼女は言う。
「俺のために、俺の下で働けって声かけられちゃった。にゃはは、あたしってば優秀だからなー!」
ふざけた口調で笑う彼女から、ふっと盤面に視線を移して僕は気づいた。もうすぐこのゲームも終わる。この盤面は、もうとっくの昔に詰んでいる。あと数手で、僕は薫に負けるだろう。
それなのに、彼女は駒を置こうとしない。
迷っている。
迷っている。
迷っている。
何に?
僕は、何にこんなに苛立っているんだ。
「おとーとってさ、ほら、知ってるでしょー?底抜けの馬鹿だからさぁ。あんなののフォロー任されても、流石にあたしもキャパオーバーっていうか」
そしたらもう、あんたと遊んであげることも、出来なくなっちゃうにゃー、と。人を食った口調で、食いきれていないぼやけた笑みで笑う彼女に、僕はどうしても腹が立って。気がつけば、その白い指を捕らえていた。
彼女の肩がぴくんと跳ねて、反射的に払おうとする。その動きを押さえつけて、無理やり、一つの駒を握らせる。
黒のポーン。迷いながらも、彼女がずっと見つめていた駒。
「捨てるのが薫らしいよ」
勝手に口から飛び出た言葉は、子供がわがままを言うのに似ていた。
「捨てるのは好きだけど、捨てられるのは、性にあわない。だろう?」
されるがままに手を握られて、力ない顔をこちらに向けて。それでも彼女は、こくりと小さく頷く。
「ネバーランドを追い出される前に、胸を張って卒業しよう」
「……。卒業かぁ。お金積まないで卒業するなんて、小学校以来かなー」
「それだって、どうせ、桃園家長子を迎える名誉を売って卒業したんだろう?」
「さてはあたしのファンだな?」
そう軽口を叩く彼女は、もうすっかりいつもの調子で。いつもの調子だったから、そのまま手を払われた。
その事に安堵して、それなのに何故か胸がざわついて。そのざわめきを押さえつけるように、僕はもう一度口に出す。
「たとえ自分の駒だって、捨てる方が薫らしい」
「そうだねぇ。あたしはいつだって捨ててきた。気に入らないものは、全部」
白い指が、今度こそ、自分の意思で駒をつまむ。勝気に笑うその顔は、数秒前に見せた、ナマモノめいた笑顔ではなく。余裕綽々なプレイヤーの顔で。
ポーンを2マス、先に進める。吸い込まれるように、僕はそのポーンをナイトで切り捨てる。
薫はもう、盤上には目も向けない。ただこちらを、楽しそうな顔で見上げていた。
ついと伸びた白い指が、今度はビジョップをつまみあげる。我知らずため息が漏れた。それは感嘆だったのか、それとも悲嘆だったのか。
薫の駒は迷いなく、王の前へと歩を進めた。
強い意志のこもった目が、僕の視線を絡めとった。青に少し緑を溶かしこんだような、淡い色。あの時美味しいと言って飲んでいた、彼女の好きなラムネと同じ。
そうか、あの時の夏は。最初からここにあったのか。
唇がそっと開く。王の首を刈り取る言葉を、僕への勝利宣言を、彼女は高らかに告げる。
「チェックメイト」
目を閉じる。
こういう彼女だからこそ。
僕は、生きていて欲しかった。


彼女が死んだのを知ったのは、それから数日後の事だった。
青く青く空が晴れた日、彼女は60階のビルの屋上から、落ちるように飛んだ。
悲しくはなかった。涙も出なかった。ただ、無性に、ラムネの味が恋しくなった。




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