小説 | ナノ


▽ 茜さんと露葉くんと男の勲章


 これまで見たことがないくらい、彼は真面目な顔だった。
 自分の手のひらよりも大きな湿布を構えた露葉は、獲物を前にした猫のようにじりじりと詰め寄ってくる。反射で思わず距離をとれば、逃げる膝をがしりと掴んで止められた。
「動かないで。しわになっちゃう」
 ぴしゃりと叱られて、俺はうへぇと首を竦める。じっとしてるのは落ち着かない。増して、一方的に心配されている時なんかは。
 露葉は慎重に湿布を貼り終えると、ふうと満足そうにため息をついた。てきぱきと救急箱を片付けて、それからじっと、俺の頬に視線を投げる。
「それ、お父さんに殴られたんだよね?」
 ストレートな言葉に、俺は思わず吹きだした。途端に腫れた頬がずきりと傷んで、慌てて宥めるように患部を撫でる。
 ゲンコツと一緒に家を追い出されたのは、つい1時間ほど前のことだ。最初はなんともなかったのに、今になって腫れてきた。
 ……家を出てきたことは後悔してない。殴られたのだって、ケジメのためには必要だったと思ってる。だから、殴られたという割に、どこかさっぱりとした気持ちだった。
「手加減してくれるほど、甘い人じゃないんだよ」
「うん。真っ赤になってる」
 そう言う露葉の方が、少し怯えているようだ。そのわりには、何度も何度も確かめるように見てくる。そわそわとどこか落ち着きなく何度も体を揺する彼に「何?」と首をかしげる。
「腫れてるの、右頬だよね」
「?ああ、そうだな」
 頷けば、何故か露葉は小さくガッツポーズをした。俺の視線に気づいて慌てて手を隠すが、その顔は未だに楽しそうに緩んでいる。
「右頬だと何かあるのか」
「えっとね、とわさんと賭けをしてて」
「賭け?」
「うん。茜さんがどちらの頬を腫らしてくるか当てられたら、今日の夕飯はトマトスープなんだ」
 話してるうちにも、どんどん露葉の顔が綻んだ。ぶんぶんと振られたしっぽが目に見えるような喜びようだ。それにしても、怪我人を前にトマトスープを優先とは、永久さんの悪い影響を受けてるんじゃないだろうな?そう思った俺は、わざと意地悪く笑って言った。
「人の覚悟をなんだと思ってるんだ」
 途端、びくりと露葉の肩が跳ねる。
「あっ、ご、ごめんなさい」
 うん、ここで素直に謝れるなら、まだ大丈夫だろ。たちまち萎れてしまったアホ毛を撫でながら、俺はすぐにいつもの声に切り替える。
「冗談だよ。どうせ永久さんが言い出したんだろ」
「うん、実はそうなんです」
 露葉は神妙な顔で頷いた。それに苦笑したのは、後ろに立っていた永久さんだ。
「育て親を躊躇なく売るとは、悪い子だ」
「とわさんを庇っても、なにもいいことがないので」
「こいつ」
 こつん、とゲンコツを一つ。笑って逃げる露葉を目で追う永久さんに、俺はわざとらしく顰めっ面を作ってみせる。
「あんたって、隙あらばなんでも賭けにするよな。しかも夕飯って、作るの俺じゃないか」
「それくらいいいだろう?挨拶に行くのに付き合ってあげたんだし」
「無理やり連れてかれたようなもんだったけどな!」
 あはは、と笑って誤魔化す永久さんは、さすがにずるい大人の風格があった。こういう所、露葉と違って一筋縄じゃいかないんだ。
「でも、あんたにも、甘いところがあったんだ。ちょっとほっとした」
「甘いところ?ツユとの賭け事のことなら、手を抜いたつもりは無いけれど」
「またまた。露葉に選択権を譲ったんだろ」
 もし永久さんに選択権があったなら、露葉は左に賭けていたはずだ。この世の大半は右利きなのだから、当然人を殴れば右頬が腫れる。
 そこまで考えて、けれど、何かが引っかかった。
 顔を上げる。どきりとするほど、優しい顔をした永久さんと目が合った。
「まあ、確かに選択権は譲ったけどね」
 俺に視線を投げたまま、ちょいちょい、と永久さんが手で露葉を呼ぶ。駆け寄ってきた彼の肩に手を置いて、ふっと楽しそうな笑みを浮かべた。
「ツユ、答え合わせの時間だ。君はどうして右頬に賭けたのか、話して欲しい」
 言われた露葉は、くりくりと目を動かして、俺の顔を見上げる。そうして言った言葉は、目を見張るには充分だった。
「栗永家のご当主様は左利きなんでしょ?ペンを左で持ってるとこ、見たよ」
「左利き……」
「違うの?」
 まっすぐこちらを見上げる目に、俺は少したじろいだ。無意識に右頬に手をやって、貼られた湿布の縁を確かめる。
 そうだ、あの人は左利きだった。いつも刀は右で握るから、忘れていたけれど。
「言ったろう、賭けで手を抜いたつもりは無いって。まあ、きちんと下調べをしていたツユに、結局負けてしまったけれど」
「おかしいだろ、下調べしてたなら、なんで右頬に賭けたんだ」
 なんで、露葉が賭けに勝ってるんだ。
「本当にわからないかい」
 その言葉に、どうしてか、視線が逃げるように床に向いた。
「俺は、ずっとあの人の言葉を無視して、勝手に学校サボったりもしたし、留年までした」
「うん」
「なにより、俺は栗永の名前を捨てた。自分の役目を、放棄したんだぞ」
「そうだね。だからご当主も、君を家から追い出したんだろう」
 すんなりと頷かれてしまい、俺は罰が悪い気持ちで踵を鳴らす。
なんでこの人はこういう時だけ素直なのか。なんだか俺一人だけ、言い訳をしてる気分になるだろ?誰に対するなんの言い訳なのかもわからず。
 次の言葉を探す俺の耳に、それはするりと滑り込んできた。
「それでも、茜さんのお父さんなんでしょ?」
 いつの間にか隣にいた露葉が、普段俺がするように、不器用に頭を撫でていた。
「喧嘩しても、追い出されても、お父さんなんでしょ」
「……」
 多分俺は、随分と間抜けな面をしていたと思う。
 あまりにも真っ直ぐな言葉に、呆然と白いつむじを見下ろして――…ふと、俺を殴ったあの人の、厳しい目を思い出した。
 本当に容赦のない人だった。腰の入った拳に思わず床に転がる俺に、「お前は栗永の名に相応しくない」と告げる冷たい声。震えが来るくらいおっかないだろ。
 でも、あの目は。あの目だけは。いつもと同じ色をしていた。
「……はは、なんだ、そういうことかよ」
 俺を栗永に相応しくないと言いながら。俺の選択を、決して一度も笑わなかった。
 あの人は、確かに栗永の当主だった。でも、それだけじゃ、なかったのか。
「……大人って色々めんどくさいんだな」
「そうだよ。そして君も、そんなめんどくさい生き物のスタートラインに立ったんだ」
 ぽん、と励ますように肩をひとつ叩かれる。
「仲間が増えた記念に、とびきり美味しいスープを頼むよ」そう言い残して去る背中に、俺は大きな声で叫んだ。
「やっぱり、あんたってずるい人だよな!」
 永久さんだけじゃない。親父も、お袋も、どいつもこいつも。大人ってやつは、めんどくさくて、ずるくて。
「……敵わないなぁ」
「?どうかしたの?」
「なんでもない。料理作るの、手伝ってくれるか」
 うん、と俺の手を取る露葉に笑いかけてから、俺は永久さんの背中を睨む。
 さっき、永久さんはスタートラインに並んだって言ってくれたけど。やっぱり今の俺には、彼らの背中はひどく遠くて。
でも、いつか。絶対あんたに、あんた達に、並んでやるから。
「茜さんってかっこいいよね」
 今の顔、負けず嫌いな永久さんにそっくりだったよと言って、露葉が眩しそうに笑う。
「これからもっとかっこよくなるぜ」
「うん!楽しみにしてる!」
 はしゃぐ露葉の手を強く握って、思う。
 もしいつか、永久さんや親父と同じくらい、いやそれ以上に大きい存在になれたら。その時は、もう一度あの家に帰ろう。
 そうしたらきっと、もう一度。真正面から俺を、息子と呼んでくれるだろうか。

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