小説 | ナノ


▽ 3


「よかった、ここはまだ荒らされてないみたいだ」
 丘に辿りつき、あたりを一通り点検し終えた俺は、安堵の息を漏らした。辺りは静寂に包まれ、花が何かに踏み潰された形跡もない。
「もしかしたら、さっき感じた違和感も気のせいだったのかもしれないな……」
 そう呟きながらしゃがみこみ、手近な花を一輪手折った。ふわり、と甘い香りが辺りに漂う。大きめの花を選んでどんどん摘んで行くうちに、いつしか時が経つのも忘れていた。
 ……森の中で警戒を怠るなど、あってはならない失態だ。“ソレ”はもうすぐそこまで迫っていたのに。
 突然あたりが真っ暗になった。次いで、バキバキと枝が折れる音。慌てて顔を上げた俺は、ひゅっと息を飲んで固まった。
 大きな、人を丸呑みに出来そうなほど大きな鳥が、そこにいた。らんらんと輝く瞳は琥珀色。羽は夜を切り取ったように黒く、長い尾羽が地面に渦を巻いている。
「ヘクセだ……」
 絞り出した声は、情けないほど震えていた。そうだ、俺はこの鳥のことをよく知っている。鳥族の間で神として畏怖される怪鳥。魔女の異名を持つ大鷲、ヘクセ!
 逃げよう、と思ったときにはもう遅い。次の瞬間、俺は鋭いカギ爪に鷲掴みにされていた。そのまま羽を広げるのを見て頭の中が真っ白になる。飛ぶのか?俺を掴んだままで?巣に運ばれて餌にされるか、空中でポイ捨てされるか、どちらにしても悲惨だ。苦し紛れに、手に持ったカンテラを足の付け根に叩きつける。ぐしゃりと音がして、へこんだのはカンテラの方だった。華奢な作りの持ち手から鋲が弾け、本体部分がすっ飛んでいくのを、俺は唖然として見つめた。まさか、ここまでしてもピクリとも動じないとは……。
 万事休すか、と諦めかけたその時だった。
 突然、離陸態勢に入っていたヘクセがぴたりと動きを止めた。まるで何かを威嚇するように羽毛を逆立て、一点を見つめたままぐるる…と唸り声を上げる。ヘクセの視線をたどった俺は、あっと小さく声を漏らした。
 一体いつからそこにいたのか、少女が一人、丘の上に立っていた。背中に、一点の曇りもない純白の翼を背負って。
 それは、さながら天使のようだった。
 少女は、腰に佩いた細剣をすらりと抜き放った。鍛えられた鋼の地金が、鋭い銀光を放つ。敵対の意思を感じ取ったのか、ヘクセの体に緊張が走った。はっとして少女に呼びかける。
「だめだ!逃げろ!こいつにはかないっこない!」
「でも、あなたを置いてはいけないよ」
 涼やかな声の中に、有無を言わせぬ凄みを感じて言葉につまる。少女はそれ以上の会話は不要とばかりに剣を構え、少し腰を落とした。
 踏み込みは三歩。一瞬でトップスピードに乗った少女の体は、矢のような勢いでヘクセに肉薄する。ぐ、と剣が引き絞られ、神速の突きが顔面へと吸い込まれていく。
 決まったか、と思った矢先、ヘクセが大きく首を振った。大きな嘴が剣を受け止め、ギャリィィンッと硬質な音が響く。そのまま振りきられた嘴が少女の脇腹を打ち据えるのが、妙に鮮明な視界にはっきりと映った。
「……ッ」
 咄嗟に少女の方へ手を伸ばしかけ、そこでようやくヘクセの拘束が緩んでいることに気づいた。体を揺すって鉤爪から抜け出し、少女の方へ駆ける。
「おい!大丈夫か!」
「平気。これくらいならへっちゃらだよ」
 脇腹を抑えながらも強気に笑うのを見て、ほっと胸をなで下ろす。けれど、安心している場合ではない。
「森まで走るぞ。あの巨体だ。森の中までは追ってこない」
「了解」
 うなずく少女を急かし、一目散に逃げ出す。ちらりと後方を伺えば、追撃を諦めたのか、ヘクセが飛び立とうとしているところだった。羽ばたき一つでものすごい風圧がおこり、二人して前につんのめる。改めてその大きさにぞっとする。
「まさか、ヘクセに襲われる日が来るなんてな。よく逃げ延びられたもんだ」
「話には聞いていたけど、すごく大きかったね。ねぇ、ヘクセがこうして襲って来るのはよくあることなの?」
「まさか!ヘクセが人を襲うなんて滅多にない。こうして人里近くまで下りてくるのも珍しいことなんだ。俺もヘクセの姿は初めて見た」
 ついじろじろと少女の顔を凝視してしまう。視線に気付いたのか、彼女はこてんと首をかしげた。
「どうかした?私の顔になにかついてる?」
「この辺りに住む人間なら、誰でも知っていることだ。お前、もしかして他所から来たのか?その羽根」
 視線で真っ白い羽根をさす。
「鳥族のものだろ。俺はてっきり、近くの鳥族の村からきたのかと思っていたんだが」
「ううん。この辺にはお仕事に来ただけで、今は首都で暮らしてるの。で、その、お恥ずかしい話ですが迷子になりまして……」
 あはは、と笑う姿に、全身からがくりと力が抜ける。剣を構えた姿は絵になるのに、どうも口を開くと頼りないタイプらしい。
「ね、あなたこの辺りに詳しそうだし、鳥族の村まで案内してくれないかな?」
「まあ、案内するだけなら。ちょうど帰り道だ。でも、俺が案内するのは村の入口までだぞ」
「それで充分!ありがとう。私ライゼっていうの、よろしくね」
「ゼーレだ。……よろしく」
 そう言うと、腕を取られてブンブンと振り回された。握手のつもりなんだろうが、少し痛い。
 と、突然その体がふらりと崩れた。
「どうした!?まさかさっきどこか打ったとか……!」
「ち、違うの」
 ふるふる、と首を振る少女の顔は何故か真っ赤で。
「安心したら、お腹すいちゃった」
 ふにゃふにゃした声をかき消すように、ぐ〜〜きゅるきゅると大きな腹の音が森いっぱいに響き渡った。

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