「おか、お母さんの独断だからね!? むしろ熱気が凄すぎて食べる気失せたし。しかも後でお兄ちゃんの買いに行かされたんだから!」 「へぇ、じゃあそれどこ」 「ドコ!?」 鬼気迫る、けれどどこか縋るような瞳で勇人を見た。その迫力に負けて一歩後退する。 「か、買ってない」 「ああん?」 「なんだその態度。元はといえば七海があんな馬鹿狐如きに負けて気絶するからだろうが。店に出入りする客にも店員にも変な目で見られるし、担いで帰るの大変だったんだからな!」 気絶している七海を覗き込みながら「救急車呼びましょうか」と心配気に声を掛けてきた通りすがりのおばさんや、遠巻きに見守るカップル。 突然倒れた七海を病院に連れて行こうとしない勇人をあからさまに訝しんでいた。 「担いでですって……? 抱き上げなさいよ優雅にっ!」 「どう扱おうが俺の勝手だ」 「その言い回しやめて、誤解されたらどうしてくれんの」 「誰に何を」 「破廉恥!」 「意味が分からん」 ぎゅるるるる。切実な訴えは昌也の腹から。半日何も食べていないのだから当然だ。口喧嘩を止めた二人は気まずそうに腕組みをしてシンクに凭れ掛かる昌也を窺った。 「開けてみ? 冷蔵庫」 顎で促す。表情は変わらないが大層不機嫌そうな兄に逆らわず、素直に七海は冷蔵庫を開けた。勇人も覗き込んでくる。 中は見事なほど食料品が入っていなかった。あるのはペットボトルの飲料とドレッシングなど、それ単品では到底食事になり得ないものばかり。 あれほど粉チーズは冷やすなって言ったのに…。 ポケットの隅に追いやられている円筒の容器を見やって関係のない事を思う。 それどころではないと気を取り直した七海はパーシャルを引き出した。ラップに包まれた薄ぺらい正方形のものに更に紙が丁寧に巻かれている。 紙には流れるような達筆で数行の文。母の字だ。 「『昌也へ ごめん、とりあえずこれ食べといて下さい。後でコンビニ行ってね。めんご』」 中身は予想通り食パン一枚だった。ラップと紙の間から千円札が出てきた。昨晩何も買えずにコンビニまで行って帰ってきただけの七海のポケットから抜き取られたものだろう。 さっき洋服を洗濯機に入れる前に思い出し、確認して存在が消え失せている事に落胆したのだから。 「『追伸 マーガリンもジャムもありません。ドレッシングならご自由にどうぞ』……ドレッシング?」 読み終えた七海は何となく兄を見た。 「な?」 「なって言われても……。まぁでもどこからが嫌がらせかって、そりゃあ最初から最後までだよね」 肯定するように昌也は深く息を吐き出した。食パンをパーシャルに入れる必要性は感じられず、お金に至っては冷やした意味などありはしない。 そして好みは十人十色であるとは言え、昌也にドレッシングを食パンにかける趣向がないと当然ながら知った上で勧めているあたり悪意を感じる。 「つーか私もお腹空いてきたんですけど」 トースターにパンを入れている昌也の横でコーヒーの用意をする七海は口を尖らせた。客人である勇人の分もないというのが一番問題なのだが。それにしても、母は自分の朝食はどうするつもりなのだろう。 その辺は抜かりない人のはずなのに珍しい。 「勇人、取り敢えずコーヒー淹れるから向こうのソファ座ってて」 テレビつけてね、と頼めば勇人は素直に頷いた。ぺたぺたと裸足でフローリングを歩く音がする。スリッパの存在が消えていた。 気にする事無かったじゃん。 母の上品な家に見せようという客に対する小さな見栄は無駄に終わった。 「普通だな」 昌也は勇人を観察するように眺める。 それを居心地悪く感じたのか、勇人は僅かに眉を顰めた。 「狐憑き、なんて言うからヤバイ奴かと思ったけど」 「ヤバイ?」 「狐憑症とも呼ばれる、つまり病気だ。化け物に乗り移られたかのように急激に人の性質が変わる精神病ってところか。錯乱状態に陥るのが一般的」 こいつは錯乱しているようには見えない、と昌也はあっさりと言ってのけた。 だが七海はあっさりと聞き流すわけにはいかない。 そんな風に見ていたのか。 昌也こそが普通に、何でもないように会話をしながら勇人の様子を測っていたのか。 「お兄ちゃん……」 「実際に狐が憑いてようがなかろうが、精神がいっちまった奴の事を狐憑きって言う。でもじゃあ、コイツのこれは何なんだろうな」 榊は狐にとり憑かれた証拠として、髪と瞳の色が変化したのだと言った。 何故か触れられないのだとも。 人間がそんな風に変化するなんてありえない。病気の一種ですらない。 けれど、一般的に知られている化け物憑きの症状とも異なる。 ならこれは、勇人の身に起こっている事は一体何だと言うのか。 昌也は何が言いたいのか。 「……疑ってるの」 榊を、勇人を。そして七海を。 小さい頃から妖が視えるのだと言い、そのせいで巻き込まれた榊家の騒動。 七海が目にするものを昌也は共有出来ない。ずっと今まで信じていなかったのかもしれない。 狂言にしか聞こえていなかった。 ←|→ back |