狂気を唄え


────眠い。

くあ、と噛み切れなかった欠伸を漏らし、アカリはゆっくりと瞬きをする。

ああ、眠い。とても眠い。死ぬほど眠い。
もう帰りたい。帰って寝たい、あの暖かくて柔らかなベッドに潜り込みたい。

目の前で声にならない悲鳴を上げ、一人の男が倒れた。もう7月だというのに、暑苦しさを感じる真っ黒なローブを身につけたアカリはその様子をチラとも見ず、死体と化したそれを跨ぐ。そして暗い森の中、新たに現れた人間に杖を向けると、小さく一振りし緑の光線を浴びせる。また一つ増えた死体を横目に、アカリは再び欠伸を噛み殺した。

酷く重い瞼が完全に閉じ切らぬよう最大限の努力をしながら軽く杖を振り続け、アカリの通った道はいつの間にか死体で埋め尽くされていた。
その時、近くの茂みから出てきたのは一人の死喰い人。何度か見たことのあるその顔は、アカリに近づくとすぐに跪き頭を垂れたことによって見えなくなった。

「蛇姫様、怪我人が何人か出ました。いかが致しましょう」
「………………」
「………蛇姫様?」
「ああ、はい?何ですか?」
「いえ、怪我人が数名出ましたので、ご報告をと」
「………怪我人は退路を確保している班に合流し、待機を。もうここの者はほぼ全滅したでしょう、そろそろ撤退しますのでそのように」
「畏まりました」
「他に報告は?」
「いえ、ありません」
「そうですか、ご苦労でした」
「も、勿体なきお言葉………」

一拍遅れたその声は、微かに歓喜に打ち震えているようだ。そんな彼の様子をアカリは不可解そうに見下ろす。

…………ここ最近、『蛇姫』に対してこのような態度を取る者を多く目にする。皆一様に頭を垂れてしまうのではっきりと顔を判別できはしないが、結構な数だ。

少なくとも死喰い人と活動を共にするようになった半年前は、死喰い人の大半がぽっと出の女、しかも子供であるこのわたしが何故ヴォルデモート卿の側にいるのか、と不満を持っていると記憶していたが。

積極的に声をかけてくる者は少ないが、任務で一緒になれば緊張の面持ちを浮かべ、声をかければ歓喜に打ち震え、蛇姫様、と名を呼ぶ。何やら神でも崇めているような態度だ。正直気味が悪い。

「………では、わたしはこれで。貴方も下がっていいですよ」
「はい、失礼致します。蛇姫様もお気をつけて」

彼を残し、さっさと歩みを進めるアカリは宙を振り仰ぐ。
英国の夏は割と涼しい。真夏の夜の冷気を含んだ風が木々の葉を揺らし、ガサガサと奇妙な音を立てる。青々と生い茂った木々の所為で、月の光が差し込まないこの森はとても暗い。暗すぎて、出てきた人間が敵か味方か瞬時に判別できないほどだ。
先程報告に上がった怪我人の何人かは、わたしが攻撃してしまった者かもしれない。

それにしても、こんなに暗いと眠気が全く振り払えない。むしろ助長させている気さえする。
どうやらわたしは睡眠不足というものを舐めていたらしい。このまま立って寝そうだ。それだけは避けたい。

そんなことを考えていたからか、眠気と抗いながらぼんやりと歩いていた所為か、それともこの森の暗さが災いしたのか。
────音も無く現れた人間の気配に気がつくことが出来ず、突如放たれた光線を捌ききれなかったのは。

「っ、」

瞬時に杖を振ろうとするも、それよりも早く鋭い光線が杖に当たり、杖は宙を舞ってどこかへと吹き飛んだ。間髪入れず再び襲い来る光線に対し無言詠唱で盾を展開するが、吹き飛んだ杖に一瞬意識を向けてしまったタイムロスのせいで間に合わない。
目と鼻の先に迫った光線は、咄嗟に思い切り身体を逸らしたアカリの頬を薄くなぞり、近くの木に当たって弾けた。

「………酷いなあ、もう」

光線が当たった頬は一拍置いて痛みと熱を持ちそこに傷がついたことを主張するが、こんなもの魔法ですぐ治るし、万一痕が残ったとしても一週間後には跡形もなくリセットされるのだから放置しておけばいい。
そう考えるアカリは微かに眉を寄せただけで特に気にすることなく目の前の人物を凝視した。

ここはマグルの村の者が逃げ込んだ森だ。魔法を使える者なんていないはず。しかしさっきの光線は確実に魔法だった。……ということは、だ。

「随分とお早い登場ですね、闇祓いさん?」
「………お前が、蛇姫か」

ゆらりと闇から這い出るようにした姿を露わにしたその人物は死喰い人と見紛うような黒いマントのフードを取る。その明るい茶髪が闇の中で浮き出るようにして現れ、男は鋭い眼光でアカリを睨みつけた。

「ええそうです、一応蛇姫と呼ばれていますね。ところでそのマント、もしかして死喰い人に紛れてたりしてました?」
「それを答える義理はない」

緊張感のないアカリの問いを一蹴し、男は杖を構える。
ああまったく、闇祓いというのはせっかちな男ばかりで嫌になる。

「死喰い人の末端をいくら潰しても、頭が無傷では意味がない。ここ最近例のあの人本人がマグル狩りを行わないのは知っていた。その代わりに、蛇姫が行動しているということも」
「なるほど、それでわたしのところへ来た訳ですね。いい作戦です、貴方の言う通り下っ端の死喰い人なんて掃いて捨てるほどいますし」

何百人もの死喰い人を殺すよりも、立場が上の者を一人殺した方がよほど価値がある。
どうやら、闇祓い達も流石に頭を使うようにしたらしい。誰か有能な参謀でも雇ったのだろうか。

「…………それにしても、まさか本当に蛇姫がこんな子供とはな」
「子供子供って、貴方達はそればかりですね。人を見た目で判断してると痛い目に遭いものなんですよ、学校で習いませんでしたか?」

小馬鹿にしたようにそう言い、挙げ句の果てに欠伸を一つ漏らしたアカリに痺れを切らしたのか、目を吊り上げた男は杖を振る。
連続で繰り出された光線は、杖が無い、という普通は不利な状況の中、アカリの翳した掌によって展開された銀の膜によって呆気なく弾け飛ぶ。

「くそッ、杖を使わないという情報は本当か………!」
「………へえ、そんなこと知ってるですか。興味深いですね、わたしと闘ったことのある人は全員死んでいるはずなんですけど」

漏れ出たその呟きに、アカリが反応しないわけもなかった。そう低い声で指摘すれば、男はハッと息を呑む。自分が発した重大な情報に、気がついたのだろう。まあ後の祭りでしかないけれども。

「なるほどなるほど、闇祓い本人かその協力者は直接闘ったことはない、けどわたしが闘っているところを見たことがある、と。
わたしが見つけられないほど隠れて盗み見するのが上手い人か、それとも」

顎に手を当て、アカリは考える。
男はそんなアカリの唇から出る言葉に動きを止め、荒く息を吐いていた。

「………ああ。やっぱり死喰い人の中に紛れ込んでいるんですかね、スパイって奴が」

その言葉を聞いた男の頬を、汗が伝う。真っ青になったその顔を見て、アカリは笑った。

「だめですよ、ポーカーフェイスが出来てません。そんなんじゃ答えを言っているようなものじゃないですか」

くすくすと笑えば、男はその場で固まる。その肩が小刻みに震えているのを見て、アカリは確信した。

そもそも、薄々は気づいていた。死喰い人の数は多い。一人一人を細かく管理することができないほどには。その数の多さは武器にもなるが、同時に弱点にもなる。何人かスパイが紛れ込んでいても、そうおかしくないだろうとは思っていた。

ただそれはわたしの憶測に過ぎない。度々襲撃先を先回りしたように現れたり、死喰い人しか知り得ないはずの情報を持っていたり。闇祓いの行動を見て、勝手に考えた結果だ。証拠は何もない。それが、今回のでほぼ確実になった。実に大きな収穫と言えるだろう。

「それじゃあ、スパイを洗い出さないと。
うーんでも数が多いからいちいち尋問していくのも面倒だな、貴方誰がスパイなのか教えてくれません?」
「ッ仲間を売るような真似をするとでも思うか!」
「思いませんよ。でも、『うっかり口を滑らす』ことはあるかもしれないですよね?」

そう言って笑ったアカリは、指揮棒のように鋭く指を振る。するとその指の動きに合わせ、足元から幾つもの蔦が生えて来たかと思えば男の足元に絡みついた。
突然のことに酷く驚愕した男はすぐに絡む蔦を解こうと杖を振る。しかし蔦を何本か切っても、その倍を上回る本数の蔦が次から次へと男を襲った。

「ここでいいことを教えてあげましょう。
適材適所という言葉の通り、その土地の性質に合った魔法を使うことで、その威力は倍増するんです。
ここは暗い森の中、このように植物を操ったり地面を活用するのが最適解なんですよ」

にっこりと笑ってみせるも、男は無数の蔦に絡め取られ、身動きが取れない状態だ。
無理矢理膝を地面につかされた状態で拘束された男は、額に冷や汗を浮かばせながらも鋭い眼光をアカリへと向ける。

「で、死喰い人に紛れ込んでるスパイの人数や名前をお願いします。答え次第で命だけは助けてあげてもいいですよ」
「………………殺せ」

指を鳴らし、空中から自動速記羽ペンと羊皮紙を取り出したアカリの言葉に、男はそうぼそりと呟いた。

「お前に話すことは何もない。さっさと殺せ」
「…………そうですか」

はあ、とため息をひとつ零したアカリは男へと歩み寄り、目の前でしゃがみ込んだ。
ふい、と俯いた男は、アカリの指先が宙をなぞった通りにまるで見えない糸に引っ張られるかのようにして顔を無理矢理上げさせられる。

真正面から目を合わせた男は、緊張からか喉をごくりと鳴らした。
そんな様子を完全に無視し、アカリはただ静かに目を細める。

その瞬間、男はまるで心臓を鷲掴みにされたような、奇妙な感覚に全身を襲われた。

耳の奥からキィン、という甲高い音がし、先程まで聞こえていた木々のさざめきも蛇姫の息遣いも聞こえない。目の前が真っ暗になって、自分が今何をしているのかわからない。


ああ────息が、できない。


驚愕と恐怖に瞳を見開いた男は、次の瞬間ハッと意識を取り戻し、ゴホゴホと盛大に噎せ返った。

その様子を見て、アカリは目を細めたままくすりと笑う。
漏れ出た笑みを不可解そうに見上げた男は、そのまま再び不可視の力によって顔を固定される。

「っあ、今のは、まさか、」
「そのまさか、です。開心術ですよ」

にこりと笑って見せたアカリとは対照的に、男はさっと顔を青ざめさせた。額から流れた汗が一筋、頬を伝う。

「────娘さん、アニーってお名前なんですね」

笑みを浮かべたアカリから発せられた言葉に、男は口を半開きにさせたまま固まった。
はく、と口を閉じては開け、しかし何の言葉も出てこない。元々青かった顔は、今では顔面蒼白、という言葉が似合うほど真っ白だ。

「男手一つで女の子を育てるなんて大変でしょう?でも貴方にはあんまり似ていないんですね。髪の色以外は亡くなった奥さん似だ」

娘だけでなく、まさか妻のことまで『視られた』だなんて思わなかったのだろう。
男は息を呑み、ただただ肩を小刻みに震わせた。
そして逃げるように顔を伏せた男は、ああそうそう、というアカリの言葉に、ゆるゆると顔を上げる。

「奥さん、死喰い人に殺されてしまったんですか。それはそれは、────御愁傷様」

そう軽々しく口にしたアカリの口角は上がったままで。微塵もそうは思っていないことを伺わせる。
その様子に激情した男は、全身を抑えつけている蔦ごとアカリへと身を乗り出した。

「ッ殺してやる!この女、よくもそんな飄々と!!!」
「いやあ、すみませんね。わたし、嘘を吐くのが下手なんですよ」

あはは、と軽やかに笑ったアカリはつい、と指先で宙をなぞり、その動きに合わせて男の身体に絡みつく蔦の拘束が強まった。
ギュッと全身を強い力で締められた男は微かに呻き声を漏らし、浮きかけた膝を地面に着けた。
それで、と言葉を続けたアカリへ、男は鋭い眼光を向ける。その目元は怒りからか、赤く染まっていた。

「死喰い人の中に紛れ込んでいるスパイについて、貴方の知っていることを聞かせてください」
「………………お前はそれで脅しているつもりなんだろうが、今更娘を殺されようと俺は別に構わない」
「へえ、そうは見えませんけどね」

貴方も大概嘘が下手だと笑えば、男は悔しそうに唇を噛み締める。ブチ、と切れた唇から赤い血が溢れ、顎を伝って地面へと滴り落ちた。

「貴方がそう言うのであれば、すぐに娘さんを殺してもいいんですよ。何なら今ここで解体ショーでもやりましょうか?」
「…………………………」
「ねえ、考えてもみてください。
貴方がスパイの名前を教えたことで、その人たちは死ぬかもしれない。でも所詮は他人でしょう?他人数名を助けて、その代わりに愛娘の命を投げ出すんですか?」

アカリの言葉を想像してしまったのか、あんなに怒り狂い、真っ赤だった顔はまた白に逆戻りだ。
いつしか男を襲う震えは全身に回り、息は荒く、肩を上下させている。

「いいですか、実際に彼らを殺すのは貴方じゃない、わたしたちだ。でも、今貴方が下す決断でその人たちは死ぬ。それは貴方が殺したも同然だ」

理不尽な暴論だと、自分でも思う。それでも、男は反論を口にはしない。
ザアッと風が凪ぎ、薄らと空を覆っていた雲が流れる。そして顔を出した月を背後に、アカリは静かに微笑んだ。

「大事な大事な娘を、貴方は大義のために、殺せますか?」

満月を背負って笑うアカリの黒い瞳に、茫然自失とした男が映り込んでいた。
男は目の前の笑みを浮かべる『蛇姫』を見上げ、ぽつりと呟く。

「────お前は、狂っている」

その言葉を聞いて、アカリはただただ瞳をゆるりと細め、心底可笑しそうに、口元を歪めた。


***


「というわけで、こちらがそのスパイ疑惑のある者たちです」

場所は変わってヴォルデモート卿の書斎。
報告をするためにアカリが彼の元へとやってくると、もう空は白み始めている時間だというのに、彼は未だ机に向かっていた。

持参した羊皮紙を渡すとヴォルデモート卿は手にしていた書類を置き、早速羊皮紙の文字に目を滑らせる。

その間暇になってしまったアカリはふと机に申し訳程度に置いてある小さなカレンダーを視界に入れた。

今日は、7月16日。

────そう、わたしが、ちょうど『こちら』へ来た日だ。
要するに、『こちら』へ来て、丸一年が経ったいうことになる。

異世界へトリップしてからというもの、魔法を使ったり人を殺したりと忙しない一年だった。
特にここ半年程は来る日も来る日も杖を振るい、人を殺し、『蛇姫』の名に恥じぬ生活を送っていた。

月日が過ぎるのは随分と早いものだと質素なカレンダーを眺めつつ物思いに耽っていたアカリは、ヴォルデモート卿が羊皮紙を机に置いた微かな音により我に返った。

「ご苦労、充分だ。その闇祓いの男はどうした?」
「自白させた後に殺しました。こちらの被害は軽度の怪我人が数名、既に治療は済んでいます」

物騒なことを淡々と報告すれば、彼は満足そうに頷いた。

「何かあったのか?随分と気が抜けていたようだが」
「いえ、何も。ただ………『こっち』へ来てから、ちょうど一年経ったんだなって」

そう言って視線でカレンダーを指し示せば、ヴォルデモート卿の緋色の瞳もアカリの視線を追い、カレンダーへと移る。

「そうか、もうそんなに経つのか」
「早いですよね、全然実感湧かなくて」
「お前は妙に順応しすぎている節があるからな」
「…………褒められてます?」
「さあな」

前にも同じ事を話したような既視感に、苦笑を返す。
ふらりと書机から離れ、革張りのソファへと腰を下ろすと、アカリはため息を一つ零した。

「………………わたし、人を殺すことに、慣れちゃったんですよね」

ぽつりと零した呟きは、語りかけながらも独白のようだった。手にしかけた書類を元に戻すと、ヴォルデモート卿は立ち上がり、アカリの向かいに腰を下ろす。

「人間が目の前で傷つくことも、血も、死体も、殺人も、全て慣れてしまって。それが当然の行為であるかのように、極自然に人を殺すことができる、なんて」

ぽすり、と身体を横たわらせ、仰向けになったアカリは自身の目元を腕で覆う。
カチャリという陶器が何かに軽くぶつかる音がして、ヴォルデモート卿がお茶の用意をしてくれていることがわかった。

「半年前、初めて人を殺した時は、もっと普通の人間らしい反応だったはずなのに」

ふわり、と芳ばしい香りが鼻をくすぐる。
嗅ぎ慣れたこの香りは、アールグレイのものだ。
腕を退かし、起き上がる。目の前にぷかぷかと浮かぶティーカップを受け取り、一口啜ると、いつもの優しい味が強張った身体に染み渡った。

「……………慣れたくなんて、ないのに」
「何故?」
「だって、怖いじゃないですか。本来わたしのしていることは何もかもが許されない大罪です。そんなことを、いとも簡単に行う自分が、怖い」

向かいに座るヴォルデモート卿がティーカップに口を付ける。アカリは彼の話を聞きながら膝を抱え、また一口紅茶を飲んだ。
ふう、とため息を一つ吐いて瞼を閉じる。

今日はため息を吐く回数が多い気がする。幸せが逃げちゃうなあ。…………そもそもの幸せがあるかどうかもわからないけど。

そんなことを考えてまたため息を吐いたアカリに、ヴォルデモート卿はふと何かを考え込むような素振りを見せ、静かにカップを置く。

「アカリ」

ふいに呼びかけられ、アカリは姿勢をそのままに瞼を開く。そのまま視線を上げれば、向かいのヴォルデモート卿と目が合った。

「お前のそれは、一体誰のために犯した罪だ?」
「え…………」

ぱちり、ぱちり。一度二度と、その質問の意図を答えあぐね、瞬いた。

…………わたしのこの罪は、誰のために犯した罪か?それは、

「…………わたし自身の、ために」
「お前自身の?では、その理由は?何故そこまでして罪を重ね続ける?」
「それは……………」

困惑気に視線を彷徨わせ、アカリは閉口した。

理由?わたしが、罪を重ねる理由。人の命を奪う理由。闇に、手を染める理由。

…………そんなもの、最初から決まっている。

「わたしが、貴方の隣に立つために。貴方と共にあるために、です」

ふ、とヴォルデモート卿が微かに笑った。
真剣な表情から一転、アカリが少し驚いたように目を丸くしたのを見て、彼はまた笑った。

「随分とまあ、健気だな?」
「けな、……………悪いですか」

揶揄うような口調にムッとしつつ唇を尖らせると、今度はくつくつと喉の奥で笑い始めた。
ヴォルデモート卿がこんなに笑うなんて、珍しいこともあるものだ。基本、無表情か仏頂面、それか機嫌の悪そうな表情しかしないのに。
ああでも、ここ最近は初めて会った時と比べて笑うようになったかもしれない。勿論微笑、という表現がよく似合うほどの、薄いものだけど。確かに彼は笑うようになった。

物珍しげにまじまじと真正面から顔を見ていれば、彼は愉快そうに瞳を弓なりに歪める。

「お前は、罪の理由を自分自身のためだ、と言ったが。しかしその理由はお前だけでなく、私の為でもある。そうだろう?」

そう言われて、気づいた。
そうか、わたしはこの人と一緒にいるためにと言ったけど、それはヴォルデモート卿への貢献にも繋がるのか。

「お前のその罪は、全て私のために犯したものだということを自覚しろ。
アカリ、お前は私のために、己を穢せ」

紅い瞳を細めたヴォルデモート卿の言葉にアカリは思わず、ふ、と笑みを零した。

なんて、傲慢なのだろう。ああでも、この傲慢さこそがヴォルデモート卿だ。

今度はアカリが、くすくすと笑い声を漏らす番だった。楽しそうに、嬉しそうに笑いながら立ち上がると、向かいのソファ、ヴォルデモート卿の隣にそっと腰を下ろす。

「……………ねえ、卿」

一人分空いていた隙間を一瞬腰を浮かせて移動し、埋める。2人の腕が触れる距離に来ると、アカリは膝を抱え、そのまま身体を傾けて自身の頭を、隣のヴォルデモート卿の肩へと預けた。

「責任、ちゃんと取ってくださいね?」
「ハ、知らんな」
「10代の純粋な女の子を捕まえて手を汚させてるくせに、酷い」
「知らんと言っている。お前が勝手に選択し、行動した結果だろう?強要はしていない」
「半ば強制的にじゃないですか!それこそ卿の罪ですよ、大罪です!」

軽口の応酬をしていれば、ヴォルデモート卿はふいに再度笑った。今笑う要素はあったのだろうか、と考えた瞬間、頭を預けていたはずの肩が消え、ヴォルデモート卿の膝へと倒れ込む。

「わっ」
「罪、か。お前を闇に染め抜いたことを、罪だと言うか」

倒れこんだままくつくつと喉を鳴らすヴォルデモート卿の顔を仰ぎ見れば、何とも楽しそうに彼は笑っていた。

まさかの膝枕、と今現在のシチュエーションを理解すると共に頭にハテナが浮かぶ。

「えっと、あの、卿?怒りました?」
「ふ、いいや?むしろ今、私はとても愉快だ」

楽しそうでなによりです閣下、と訝しげにそう言えば、ヴォルデモート卿はその整った唇を三日月型に歪める。

「お前の罪は、そのまま圧し潰れるまで重ね続ければ良いとは思うが」
「ちょっと待ってください酷くないですか?」
「お前にとっても悪くない話だろう?私の為に犯した罪で、死ぬことができるのだから」
「……………………」

咄嗟にそれもいいかもしれない、と思ってしまって反論ができず押し黙ると、ヴォルデモート卿は更に笑みを深めた。ああ全く、この人は本当に意地悪だ。なんて酷い、悪魔のようじゃないか。実際どちらかと言うと魔王、の方が似合ってはいる。

ふむ、と何やら顎に手をやり考え始めたヴォルデモート卿を尚も下から見上げる。こんなアングルから見ても美しいなんて、神様とやらは本当に不平等だ。そう心の中で悪態をついていると、突然背中に腕が回され、上半身を抱き起こされた。

え、と驚きながらもされるがままに身を起こすと、彼のその美しい顔が静かに近づいて、アカリは咄嗟に目を瞑る。
ふ、とどうやら笑ったらしい吐息がかかり、次の瞬間、唇に何かが触れた。

これが何なのか、なんて考えずともわかる。
問題は何故キスをされているのか、ということなんだけど。

アカリの上半身を支えるのとは反対の彼の長い指がするりと顎をなぞり、首裏に差し入れられた。首裏の手により顎を上げさせられると、口付けられたまま角度が深まる。
そのままうなじを指先で撫で上げられ、ぞわりと背筋が震えた。

キスしながらいたるところを指先でなぞるのは彼の癖なのか何なのか知らないが毎度のことだ。正直、息が出来ず苦しくなるからやめてほしいというのが本音だが、本人に言えるはずもなく。

「、んんん…………っ」

抗議の声を上げようと頑張ってはみるものの、そんな隙は与えてくれない。長くて深い口付けに翻弄されながら、漸く訪れた息継ぎの機会にぷはっと空気を吸う。

「な、なが………っ、長すぎ!」
「何だ、まだ慣れないのか?いい加減上手くやれ」

肩で息をしつつ至近距離にある瞳を睨みつければ、彼はその深紅をスッと細める。
ただそれだけでどきりと胸が高鳴ってしまう自分の単純さに心底呆れてしまう。

「どうしたんですか、突然」
「先に予告した方がよかったのか?次回からはそうしてやろう」
「いやそれも恥ずかしいのでやめてもらえると…………っ」

そんなことをぼそぼそとアカリが言っている最中、至近距離にあったヴォルデモート卿の顔が唐突に距離を詰め、再度唇が重なった。

まさか言い終えない内にとは、と驚いて口を閉めるのが一拍遅れてしまい、その隙にぬらりと厚い舌が入り込んでくる。
蛇の如く口内を蹂躙する舌が上顎をなぞり、思わずくぐもった声が出てしまった。

それに気を良くしたらしいヴォルデモート卿の、アカリの後頭部に差し入れられているものとは反対の手がシャツの裾から入り込んでくる。
ひんやりとした手が素肌を滑り、反射的に肩を揺らす。キスの合間に聞こえたのは、微かな彼の笑い声。

尚も余裕そうな彼の態度に些かムッとしたアカリはクッションから手を離し、彼の首に両腕を回す。
すると更に口付けが深くなり、自らの舌を彼のものに触れるようにして伸ばした。
その瞬間、少しざらついた舌が重ねられ、音を立てて絡め取られる。

意を決しての反撃は、毎度の如く失敗に終わる。少しくらいはこの余裕を崩してみたいものだが、今まで男性経験のないたかだか10代半ばの小娘にはやはり無理難題だったようだ。

最後に軽くリップ音を立てて唇が離れていく。息を整えようと酸素を吸いながら、未だ至近距離にある紅い瞳を見つめた。
腕を首に回したまま、彼の黒髪に触れる。
見た目に反して少し硬いそれは、枝毛どころか傷んでいる気配すらない。
細い毛のさらさらとした指通りを楽しんでいれば、ヴォルデモート卿は少しだけ顔を離した。
そのせいで後頭部に触れていた手が、彼の頬へと降りてくる。そのままなんとなしに頬をなぞると、これまたつるりとした陶器のような肌だ。両手で頬を包み込むようにしてその滑らかさを堪能しつつ、あることに気づいたアカリは親指で彼の目の下をなぞる。

「隈、できてますよ」
「気のせいだ」
「流石にそれはないですね」

ついとなぞったそこには、薄っすらとではあるが隈が居座っていた。あまり眠れていないのだろうか、と早く消えるよう内心願いながら隈を何度も柔らかく撫でる。

くすぐったいのか、瞳を猫のように細めたヴォルデモート卿は、アカリの左手首を緩く掴んだ。頬から離れはしないものの、親指の動きは両方とも止まる。

「………で、突然キスした理由は?」
「聞きたいか?」

ニヤ、と妖しげな笑みを浮かべられ、ほんの少し迷いが生じるもこくりと頷く。

「お前を堕としたことが罪であると言うのなら、罪などという言葉では片付けられないほどに、それこそ地獄まで堕としてやろうと思ってな」
「………………最低」
「何を今更」

悪どい笑みと言葉にうわあ、と顔を顰めるも当の本人は何のそのという様子で笑う。

なんて極悪人なのだろう。それを彼に言えば、私は元から悪人だとでも言われるのだろうけど。

ふ、と呆れたように笑みを零したアカリは自らを支える手から上半身をほんの少し浮かせ、彼の肩に手を置いて起き上がる。そしてそのまま顔を傾けさせ、素早く口付けた。

触れるだけのキスをして、パッと身を離したアカリはヴォルデモート卿の首に腕を回すと、悪戯っぽく笑んでみせる。

「わたしを堕とすなら、卿も道連れです。
地獄の底まで、優雅にエスコートしてくださいね?」

ふふん、と得意げに笑ったアカリに一瞬目を見開いたと思えば、ヴォルデモート卿は喉の奥でくつくつと笑い始めた。

「絶対離してなんてやりませんからね。旅は道連れ世は情け、です」
「何だそれは」
「日本のことわざです。本来の意味とは全く違う使い方をしましたけどね」
「……確かに、退屈はしなさそうだ。気が向いたら最上級のエスコートを施してやる」

心底愉快そうなヴォルデモート卿はアカリの髪を梳くようにして後頭部に手を回す。
髪に触れる指先が思いの外優しくて、内心笑い飛ばされるかもしれないと思っていたアカリはほんの少し驚いた。

「…………約束ですよ。貴方が地獄へ堕ちる時は、わたしも一緒に堕ちてあげますから」
「ほう、殊勝なことだな。ああそうだ、その時はあのドレスを着ておくといい」
「ドレス…………深紅の、あれですか?」
「そうだ。地獄など、どうせ暇を持て余すだけだろう。ワルツでも踊ってやる」
「ふ、なにそれ」

上機嫌な彼の珍しい冗談に、アカリは思わず噴き出した。
ああでも、地獄でワルツもいいかもしれない。とってもわたしたちらしいじゃないか。

「既に半身、地獄へと堕ちかけているのだから。どうせならばとことん付き合ってもらうぞ」
「ふふ、……貴方の行く先ならば何処まででも、マイロード」

アカリはヴォルデモート卿の手を取って、その滑らかな甲にそっと唇を落とす。騎士の真似事をしてみせれば、彼は瞳を愉快そうに歪めた。

そうして、2人は瞳を見合わせて笑う。
一方はオニキスの如く煌めく黒を、そしてもう一方は、人を誑す柘榴のような猩々緋の色を宿した瞳。

客観的に見れば、わたしたちは狂っているのだろう。だが、それでいい。

だって、わたしは知っている。

このヒトは元から狂っているのだ。そんな狂い人には、狂気がよく似合う。
目には目を、歯には歯を。ならば、狂気には、狂気を。
わたしが彼を愛するには、いっそ正気を失うくらいでちょうどいいの。

ひとしきり笑い、瞼を閉じて、そっと彼に顔を寄せる。
吐息を漏らして、彼の唇が焦れるようにゆっくりと迫るのがわかる。


────愛おしい人。世界でたった一人、わたしが愛した人。貴方が地獄に堕ちる時、それがわたしの世界の終焉だ。


そして、2人の熱が重なる瞬間。

ガラガラと、耳元で世界が崩れていく音がした。

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