自己防衛という名の逃避
心地よい微睡みの中、どこからかピチチという小鳥の鳴き声が聞こえる。
深いところに落ちていた意識が浮上し、微かに瞼を開けた。
少しだけ開いたカーテンの隙間から眩しい日光が部屋に差し込み、ちょうどアカリの目元に当たった。
んん、とその眩しさに眉を寄せ布団を頭までかぶる。
最近では朝にスッキリと起きれるようになったアカリだが、やはり夜更かしをしてしまった次の朝は中々起きづらいようだ。
昨日の夜、いつものように書斎で漁った戦利品を読んでいたアカリ。
それは占い学のもののようで、星の位置による意味や炎に見える意味などなど、アカリにとってとても興味深いものだった。
書斎にあるものはどれも分厚い。一冊読み終わったのは空が既に白み始めていた頃だった。
覚醒気味だった意識も、布団をかぶり日光を遮ったおかげで段々と落ちかけている。
たまには、朝寝坊もいいか。
そう決め、二度寝しようと瞼を閉じ意識を深く沈ませようとした、その時。
「ーーーギャアアアアッ!!!!」
「っ!?」
静かな朝には似つかない、静寂を劈く悲鳴。
ほとんど意識が沈んでいたアカリでさえその悲鳴に反応し、飛び起きた。
「………な、なに?」
一体なんだ、あの悲鳴は。
慌ててベッドから降り、サイドテーブルに置いてある杖を手に取り扉の外に出る。
廊下を駆け足で進む。どうしても足音が立ってしまうが、それに反応する者は誰もいなかった。
断続的に聞こえてくる悲鳴、そして微かな人の声。
何を話しているのかはわからない。
しかし確実に聞こえる音を頼りに広い屋敷を駆ける。
息が切れ始めた頃に着いたのは、屋敷で一番大きい部屋である大広間。
その大きな扉を前に、落ち着くべく時間をおこうとしたものの、一際大きな悲鳴が聞こえ反射的にアカリにはいささか重たい扉を開け放った。
「ギ、アアアアッ!!!!!」
扉越しではくぐもっていた悲鳴が、扉を開け放ったことで鮮明に聞こえた。
その突然の大声に思わず耳を塞ぐ。
恐る恐る瞑っていた瞼を開き、目の前の光景を目に入れた。
「…………きょ、う…………?」
いつもよりも偉そうに仁王立ちし、杖を手にする卿。
その杖を真っ直ぐに向けられる、ヒクヒクと痙攣している男。
そしてそれを少し離れた位置からぐるりと囲むようにして立つ、黒ずくめの集団。
ただでさえ奇妙なその場には、ピリリと痺れるほどの緊張感が漂っていた。
「………………アカリ」
目線だけをこちらに向けた卿は、アカリの名を呼ぶ。その声色は呆れたようなものでも、愉快そうなものでもない、スッパリと感情が抜け落ちたようだった。
「その、人」
黒の集団はアカリが近寄ると道を作るようにして輪に亀裂を入れた。
卿に近づきその男を改めて見てみると、確かに見覚えがあった。
そう、忘れもしない。
わたしに、死の呪文を放とうとした男だ。
「ああ、お前には見覚えのある顔だろう?」
そう目を細めながら、卿はその長い足で男の頭を上げさせる。
「わ、がきみ、」
息も絶え絶えというような男の顔には、頬が青く腫れ上がり、血が固まりこびり付いていた。
それを目の当たりにしたアカリは思わずひゅ、と息を飲む。
そんなアカリの様子を見た男は、震える手足を必死に動かしアカリの足元に這って来た。
「蛇姫様、ああ蛇姫様お許しを………!!!」
「ひ、」
腕は痙攣しているはずなのに、アカリの足首を掴む握力は握り潰されるのでは、というほどに凄まじいものだ。
その異様な様子に思わず後退りをするアカリを阻むように、男は更に力を強めた。
「った、」
竦んだ足元を掬われその場に尻餅を着く。
アカリはますます男に這い寄られしゃがみ込んだまま後ろに下がった。
「蛇姫様、どうかお許しを、お願いします命だけは…………ッ!!!」
「な、なに言ってるの……」
髪を振り乱し、瞳に涙を浮かべるその男の顔は恐怖に完全に支配されていた。
そんな男に詰め寄られるアカリは少しだけでもと後退りをする。
「蛇姫さま、」
「………………煩い」
冷たい声が頭上から降ってきたのと同時に、男は身体全体を痙攣させビリビリと広間中に響くような叫び声を発した。
「グ、アアアアアアアアッ!!!!」
呆然とその男の様子を見たアカリは、ゆるゆると頭上を見上げる。
そこに立つ卿の瞳は、血のような緋色を更に濃くさせギラついていた。
「卿………」
「だから煩いと言っているだろう、聞こえないのか」
卿は顔を顰め杖を一振りすると男の口から出ていた叫び声は一切聞こえなくなり、その代わり男が身体をバタつかせる音だけが響いた。
「ああ、やっと静かになったな」
目元を緩ませた卿は杖を下ろし、そのままアカリを見下ろした。
「いつまでそこに座り込んでいるつもりだ?さっさと立て」
手を差し伸べられ、アカリは少し戸惑うものの素直にその手を取る。
しかし全く腰や足に力が入らず、立つことは出来なかった。
「え、うそ」
「………まったく」
はあ、とため息が降ってくる。
怒らせてしまったかな、と身をすくめるとグッと力強く引き寄せられた。
「え、わっ」
「じっとしていろ」
膝裏に腕が差し入れられ、背中と肩を支えられる格好で抱き上げられる。
俗に言う、お姫様抱っこというものだ。
アカリはバランスを崩しそうになり慌てて卿の首にしがみつく。
「ちょ、卿………っ」
「お前が立てるまで待つなど時間の無駄だ」
ふん、と鼻を鳴らすと卿は黒の集団を一瞥した。
全員仮面のようなものを付けているせいで、表情が読めない。誰一人声も発さず、そこに存在していた。
「…………ああ、そういえば忘れていたな」
そう口にした卿は男の方に視線を向ける。
涙と鼻水と涎で顔をグチャグチャにさせた男は息を荒く吐き出し、身体を大きく上下させていた。
「−−−辛かっただろう、痛かっただろう、楽に、なりたかったのだろう」
カツ、と黒光りする卿の革靴が音を立てる。
アカリはふと顔をあげ、男から目を離し卿を見上げる。
「許しが、欲しかったのだろう?」
ゆるりと口元を歪ませた卿は、少しだけ頭を上げた男に囁くように甘い言葉を吐く。
「ならば、救ってやろう」
ほっとしたように口角を上げた男に向かって、卿は杖を構える。
その瞬間表情が固まった男。
それは酷く甘い、呪いのような救済の言葉だと頭の隅でぼんやりと思った。
「ーーーアバダケタブラ」
真っ直ぐに放たれた緑の光線は男を貫く。
一度大きく身体を痙攣させた男は、そのまま伏せ、起きあがることはなかった。
その光景から、アカリは目を離せなかった。
震える手で、卿の胸元を掴む。
初めての、直接的な『死』。
頭の中で緑の光線と男の恐怖に溺れる表情が次々に切り替わり、アカリは意識を手放した。
*****
「…………ん」
真っ暗な闇から意識が浮上し、重い瞼を押し上げる。
パチ、パチと数回瞬きを繰り返すと、ぼやけた焦点が合ってきた。
染み一つない、真っ白な天蓋。自分の部屋のベッドに寝かされているのだとすぐに気づいた。
「……………わたし、どうしたんだっけ」
とりあえず起き上がろうとした時、コンコンと部屋にノック音が響く。
「………どうぞ?」
「失礼致します」
アカリが入室を促すと、控えめに開く扉。
そこからひょこりと覗いたのは小さな妖精の姿だった。
「サフィア」
「お嬢様、お加減は如何でしょうか」
ふわふわとトレイやらボウルやらを周りに浮かせているサフィアは、心配そうにアカリの表情を伺った。
「うん、全然大丈夫。………わたし、気を失ってたんだね」
上半身を起き上がらせ、背後にクッションを入れて固定させる。
するとサフィアが周りに浮いていたトレイをアカリの膝の上に置いた。
湯気の立つビーフシチュー。美味しそうなそれを見るなりアカリのお腹がぐうと鳴った。
「そういえばわたし、朝ごはんも食べずにいたんだっけ………」
通りでお腹が空くはずだ。
スプーンを手に取り、一口頬張ると、柔らかく煮込まれた牛肉が舌の上でほろほろと溶けた。
あまりの美味しさに思わず口元が緩みながらも、もくもくと食べ続けるアカリの姿を安心したように見つめるサフィア。
ナプキンを手渡され、「ありがとう」と礼を口にしアカリは自分の口元を拭った。
「ごちそうさまでした」
いつものようにしっかりと両手を合わせ頭を下げる。
「………ねえサフィア」
アカリに手渡されたトレイなどを片付け紅茶を淹れるサフィアに、アカリは少し小さく問う。
自分が目を覚ましてから、ずっと気にしていたことを。
「…………卿は、どこに?」
ピクリ、とサフィアの小さな肩が揺れる。
「旦那様は、自室におられます」
「…………………そっか」
自分の手を緩く開き、見つめる。
もう、震えてはいなかった。
目を閉じて浮かぶのは、男の恐怖に染まった表情。そして、緑の光。
あの男は、わたしのせいで死んだ。
わたしがあの時、ちゃんと対処していれば死ぬことにはならなかったのだろうか。わたしの、せいで………
瞳を閉じ、開いていた手をきつく、きつく握り締める。
掌に爪が食い込む。微かな痛みを感じながら、アカリは瞳を開けた。
ーーーいや、違う。わたしのせいじゃない。
人の話を聞かずに、殺そうとしたあの男が悪い。わたしのせいじゃあ、ない。
アカリは、それを『逃げ』だと認識していた。
自分の責任を他人に押し付けて、逃げる。
わかっていた。逃げてはいけないのに、受け入れなくてはいけないのに。
どうしても、嫌だった。認めたくなかった。
背後のクッションを取り除き、枕に顔を埋める。
サフィアは、いつの間にか居なくなっていた。
−−−わたしは、自分に害なすものを全て取り除きたかった。
楽しいこと、面白いことを好み、少しでも苦しかったり辛いことは全て避けてきた。中には避けきれないものもあったけれど、そこは適当に手を抜きつつ回避した。わたしにはそれができた。
自分と合わないと思った人とは早々に縁を切ったし、楽しい人とはとても仲良くした。
勉強も、運動も、人間関係も。
全部それなりの結果を残せるから、適当にやっていた。
食べることが大好きだったから、料理にのめり込んだ。
お菓子作りも料理も、自分で作った分だけ自分が幸せになれる。作るのが負担になったことはないし、ただただ自分の幸せを生産していた。
そんな人生を、歩み続けていた。
そんな、わたしは。
やっぱり、『男の死』を受け入れなかった。
自分を、守るために。
「………さーてと」
むくりと起き上がり、床に足を下ろす。何も履いていない裸足を絨毯の柔らかな毛がくすぐった。
髪をかき混ぜながらペタペタと足音を立てる廊下を進む。
向かうは、卿の自室。
コンコン、とノック音が誰もいない廊下に響く。
「失礼しまーす」
返事も許可もなく、勝手に扉を開けてしまう。
書類を手にする卿は、険しい表情をしていた。
「…………いつも返事を待てと言っているだろう」
「結果的に入れてくれるんですしいいじゃないですか」
「…………………」
はあ、とどこか諦めたようにため息をつく卿を尻目に、黒革張りのソファに腰を下ろす。
アカリの部屋にあるソファよりも少し硬いが、とても座り心地のよいものだ。
「………さっきは、ありがとうございました」
クッションを胸の前で抱え、なんでもないような、いつもと同じ声色でお礼を言う。
卿はそのままの格好で、視線をアカリに向けた。
「わたし重かったですよね?いやあ申し訳ない」
「…………そう思うのならば菓子を貪り食うのはやめたらどうだ?」
「それは無理です死んじゃいます」
真顔で即答したアカリはふ、と声を零した卿に僅かながらも反応した。
笑った。……珍しいなあ。
ちら、と卿の顔を盗み見ても、既にいつもと変わらない無表情になっていた。
「そうだ、わたし明日もお菓子作ろうと思ってるんですけど何がいいですか?」
「また作るのか……」
お菓子を作っては食べ、作っては食べの毎日を過ごしているアカリに最初はうるさかったヴォルデモート卿も、すっかり慣れたのかもう何も言わなくなっていた。
差し入れとして持ってくるお菓子を何の文句も言わずに完食しているのだから少しは気に入ってくれたのだろう、と彼女は思うことにしている。
「チーズケーキはこの前つくりましたし、タルトも桃で作っちゃったし………」
「なんでもいい」
「卿ってばいつもそればっかり」
む、と口を尖らせたアカリは眉間に皺を寄せたかと思うとすぐにパン、と手を叩いた。
「あ、じゃあシュークリームにしよう!生クリームとカスタードの2種類!」
「………勝手にしろ」
すでに手元の書類に目線を落としていた卿を見て、そろそろ邪魔かなと考えたアカリは立ち上がる。
適当に放ったクッションは元あった場所に戻るも跳ね返り、床に落ちてしまった。
「あ、やっちゃった」
アカリはすぐに浮遊呪文を唱え、人差し指を指揮棒のように動かす。床に落ちてしまったクッションがふわりと浮かび上がり、そのまま元の位置に戻っていった。
「それじゃあ卿、また明日」
ひらりと手を振るとアカリは部屋の外へ。バタン、という重い扉の閉まる音が静かになったヴォルデモート卿の自室に響いた。
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