適量の孤独 | ナノ


そう。俺の悪い癖 弐


俺と沙羅の関係が築かれたのはいつになるだろう。

紙特有の匂いが立ち込めるそこが、出会いの場所だった。
こう言っては何だが、人生の中で五本の指には入るだろう驚きの出会い方だったと思う。

いろんな意味で。

茹だる暑さに覆面越しがいらいらしがちになる、そんなある日のこと。
しかし、その日の俺はいらいらとは無縁で過ごしていた。
何故なら、今日という日をもう随分と前から楽しみにしていたのだから。
茹だる暑さだろうが、雨が降ろうが槍が降ろうが、俺は足取り軽くスキップで里中を歩いて周れる自信があった。

だから、そんな陽気な脳内で沙羅に出会った時は、正直心臓が止まるかと思ったのだ。

なんせ、彼女は俺馴染みである本屋の、それも目当てにしていた本を手に読み耽っていたのだから。

イチャイチャパラダイス中巻。

イチャイチャシリーズ三部作の二作目とあって世間の注目度も高い。
しかし、所謂成人本であるため書店で堂々と立ち読みする人間はあまりいなかった。
だから宣伝広告があちこちに貼られる一角だけ桃色の異質な世界の中で、彼女はどう考えても浮いていたのだ。

「……」

妙齢の女性が、一人世に言ういかがわしい本を読み耽る姿はなんとも言い難いものがあった。

それも、俺と同じ忍服を纏った忍ときている。

ん?

忍?

はたと引っかかった心のまま、俺は気付かれぬよう彼女の顔を盗み見た。
そして思い出したのだ。
以前一度だけチームを組んだことのある沙羅であると。


「この本、面白いですか?」
「え」

唐突に掛けられた言葉に対し面白いように反応出来なかった俺は、なんと切り返してよいのやら。
こちらの視線など気になっていないのか、彼女は黙々と文字を追い続けていた。

そもそも、俺に聞いた言葉なのだろうか。

多分俺に宛てた発言だったのだろうということは、周りに人が誰一人いないという状況により結論付けることが出来た。
しかし、イチャイチャパラダイスを嬉々として語るべきではないと本能が訴えたため、

「まぁ、そこそこに」

というなんとも平凡な答えを返すに止まったのだ。
そして俺は勿論イチャイチャパラダイス新刊を手にするタイミングを逃した。
本当は今直ぐにでも保存用と鑑賞用の二冊購入に走り出したい。
その衝動が抑えられたのは、顔を知る沙羅に対する見栄のようなものだった。
今更何を言う。とアスマに聞かれたら突っ込まれそうだから言わないが。
おかげで俺は彼女の横で突っ立ち、用の無い本棚の背表紙を眺める作業をしなくてはいけなくなった。

何か話し出してはくれないだろうか。
そうしたら適当な挨拶と共に別れの言葉を口に出来るのに。
何故かその場を離れられなくなったのは、彼女の持つ言葉にし得ない雰囲気がそうさせるのだろうか。


「何を思って書いているんでしょうか」
「は?」

やっとこさ発せられた言葉は、俺の予想の遥か斜め上を通り過ぎていった。
面白いとか面白くないとか、いかがわしいとか。
そんな感想が飛び出すのだろうと思っていたが、彼女の口から放たれたのは思ってもみなかった言葉だった。

何を思って書いているんでしょうか。

この言葉の意味する主語は、まぁ自来也様ということになるだろう。


自来也様は何を思って書いているんでしょうか。

その問いに、俺は勿論答えることなど出来ない。
自来也様ではないのだから。

しかし、一つ言えることがある。


彼女は、この小説を読んで自来也様の何を知りたかったのだろう。

ということだ。
単なる興味本位や伝説の三忍に対するミーハー感情などではないことは、彼女の横顔を見れば分かる。

その酷く純粋な視線に、少しの恐怖を感じた。

その瞳がこちらを向いたらどうなるのだろうか。

ついさっきまでは一刻も早く新刊を手に帰路を急ぎたい気持ちに駆られていたというのに。

一体、このざわざわとそよぐ風のような心は何だと言うのか。
怖れとも興奮とも言えぬ感情が湧き上がり、俺は言葉を口にした。


また悪い癖が出たな。

そうアスマや紅からドヤされるのを覚悟して。


「さぁね。それは自来也様じゃなきゃ分からない」
「……」

ぱたりと本を閉じる音。
店番に座るおやじの仰ぐ団扇の音が俺たちの間を縫った。


「……そう、ですよね」

あぁ。

もう少し。

もう少しで彼女の瞳に出会うことが出来るのに。
俺の期待した反応とは違い遠いものが返ってくる不思議。
こちらの投げた言葉の更にその先を見通すかのように、彼女は深く息をついた。



それからというもの、俺の瞳に沙羅はよく映り込んでくるようになった。

あの日、別れ際に向けられた瞳がもう俺の望んだものとは違ったからかもしれない。
あの純粋でどこか愁いを含んだ横顔に表れていた瞳は、一体どんな色を帯びていたのだろうか。


知りたい。

そう。

俺の悪い癖。

こういう女に弱いわけじゃないけれど、あんな現場に出会っちゃったら気にならないわけないデショ。
でも、多分本当にアスマには呆れられると思うから、暫くは俺だけの秘密になる。
書店での出会いが功を奏したのか、沙羅との距離も以前より近くなった自負はある。


しかし、あの瞳には相変わらず出会えていなかった。




「カカシさん?」
「ん?あぁ、悪い」

熱燗を傾ける沙羅に、現状を思い出す。

すっかり追想に耽っていたようだ。
何時の間にか目の前には品の良い料理の数々が並べられていた。

ゆったりとした動作で着物の袂を捌き酌をする彼女を瞳に写す。


あれから随分と変わった。
こんな所で接待する側とされる側として飲む姿など、あの頃は想像もしていなかったものだ。
人生、本当に何があるか分からない。
沙羅が忍を辞めざるを得なかった理由を知っている身としては残念に思うが、だからといって酷く肩入れすることはなかった。
こんなご時世だ。
生きてから死ぬまで忍でい続けられる人間も100%じゃない。
彼女のように忍を辞めざるを得ない人間は数多くいるのだ。

むしろ生きていることに、俺は感謝した。


知りたい。

あの日感じた彼女の瞳に出会うまで、彼女に死んでほしくはないのだから。


「具合でも悪いんですか?」
「ん、何で?」

訝しむようにこちらを覗き込んでくる瞳。


あぁ、この瞳じゃないな。

俺は、もう独り善がりであることを認め、彼女の頭にそっと手を伸ばした。


「大丈夫。なんでもナーイヨ」

そう、身勝手な気持ちを裏に隠して。


彼女の不満気な瞳を見て、これも違うなと苦笑を漏らすのだから、


もう重症かもしれない。





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