適量の孤独 | ナノ


重い首をひとつ


鉛のような瞼を開いた時、感じたのは冷たい氷のような畳の感触だけだった。

ずるりと身体を引き起こせば自分が正体をなくす前に飲んでいた酒瓶が転がり、草色の畳に零れた酒が少しのシミを作っていた。
自来也様がこの手を止めてくれたことは覚えている。
そして、自分が恐怖から逃げるようにして快感を求め動物的になったことも。

「助けて」

そう口にした私を、自来也様はどう感じたのだろう。
今までこんな弱音を吐いたことがなかった私を、あの人はどんな瞳で見つめていたのだろう。
分からないことが多分にある中で、しかし分かることが一つだけあった。

自来也様は、私の気持ちには答えてくれない。
それだけは、唯一理解することが出来た。

小鹿が立ち上がるようにして重力に逆らう。
立って歩く行為がこんなにも気怠く体力と精神力を削ぎ落としていくものだと、今になって知った。
怪我のせいか酒のせいか。
はたまた鉛のような心のせいか。
鈍い動きしか出来ない足を無理矢理動かし、手当たり次第家具や壁を支えに廊下へ踏み出した。
べたりと足裏に張り付くような床板の感触が不愉快極まりない。

「やっぱり、お前さんにとってあの子はそんなもんだったんだね」

女将さんを求めて動き出した足が、廊下の先に見える薄暗い部屋から聞こえて来た声にぴたりと動きを止めた。
女将さんの声。
静かだからこそ、その声は廊下の壁や床に反響して私の元まで届く。
そして、彼の声も。

「そうかもしれん」

何の話をしていたのかは想像に難くない。
あの女将さんのことだ。私の気持ちなど当の昔に見抜いていたことだろう。

ぎぃという音を立て女将さんの部屋の扉が開く。
私は踏み出し動きを止めていた足をさっと引っ込め、襖に隠れるようにして身を潜めた。
鎖骨辺りが熱を帯びたままとくんとくんと脈を打つ。
襖越しに自来也様と女将さんが店の出口へ向かう気配を感じた。
がらがらと音を立て、何一つ言葉を発しなかった自来也様はそのまま淡い光が差し込む外へと出て行った。


「あいつも悪い。でも、あんたも悪いんだよ。分かってるかい?」

ふと女将さんの声が鼓膜を揺らす。
襖越しに二人を伺っていることを知っていたのだろう。
私を慰めるわけでも、責め立てるわけでもない言葉がじんわりと胸に沁みた。
重い首をひとつ。
かくんと緩い動作で頷くことしか、今の私には出来そうになかった。





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